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大塩の乱関係論文集目次


「大塩関係資料を読む会『塩逆述』巻之一を読了して」

大塩事件研究会副会長 向江 強

『大塩研究 第36号』1995.11より転載


◇禁転載◇


この八月の例会で『塩逆述』巻之一(七回目)を終えた。会発足以来毎月例会 を続け、七十回目である。これまでテキストとしては、大塩の乱についての基礎 的な文献を選んで来た。まず始めに取り上げたのは国立史料館編『大塩平八郎一 件書留』であった。これは第一部吟味伺書三までを読んだ。これで事件関係者の 吟味書はほとんど読んだことになる。次に素材としたのは、仲田正之編校訂『大 塩平八郎建議書』である。大塩関係の史料としては、最新のまとまった史料であ る。現在大阪市立中央図書館収蔵『塩逆述』の征服をめざしている。これは全部 で十二巻あり、それに付録二巻が付いた大部の史料である。全部読み終えるまで 恐らく十年はかかるかもしれない。今のうちに、気が付いたことは記録しておか なければ、という気になり文章にすることにした。

文献としての『塩逆述』については、会から国立国会図書館に問い合わせたの で、ある程度判明した。同図書館の専門資料部の回答を以下に紹介しよう。

(1)『塩逆述』は当館の古典籍資料室で所蔵している。
(2)『塩逆述』は写本二冊、本編八冊と付録三冊からなっている。
(3)本編には、「静幽文庫」の印、付録には「うたのやにおさむるふみらのし るし」の印がある。『日本の蔵書印』によると、「静幽文庫」は源利義、 「うたのやにおさむるふみらのしるし」は土屋老平の蔵書印である。 この二名の人物については各種の人名事典や人物書誌に記載がなく不明である。
(4)付録の一冊目の最後に「此付録ヲ鈴木岩二郎白藤老人塩逆述ヲ写シタル後 ……嘉永五年八月四日……」との記載があり、鈴木白藤が写した写本の転 写本と思われる。
(5)鈴木白藤(岩二郎)は明和六年(一七六九)生れ、文化九年(一八一二) から文政四年(一八二一)まで書物奉行、嘉永四年(一八五二)に没した 人物で、この人物の伝記は『紅葉山文庫と書物奉行』(森潤三郎 昭和書 房 一九三三〈六二三−一七一))の五九二−七一六頁に収載されている。
(6)『塩逆述』の成立年代や著者等については、この写本に記載がなく判明し なかった。このほか、『塩逆述』に関する文献については、当館の蔵書目 録や雑誌記事素引類には見当たらなかった。

以上が国立国会図書館の回答である。懇切丁寧な回答である。しかし肝心の成立 年代や著者などは不明である。しかも写本のまた転写本というのであるから、史 料的価値からいえば三流以下というほかはない。従って、これまで十分研究もさ れず顧みられなかったのも理解できるというものである。

ところで我々が選んだ大坂市立中央図書館の複写本であるが、本編が十二巻に 付録が二巻であるから国会図書館本とはやや構成を異にしている。しかも付録巻 二の最後に「東京帝国大学付属図書館蔵本明治三十五年四月採訪」と書かれてい るので、原本は東京帝園大学付属図書館の蔵本であることがわかる。しかし、こ の写本は東京大学付属図書館への照会から関東大震災で焼失していたことが分かっ た。従って両者を比較検討するには、国立国会図書館本を見る必要があるが、未 だその機会を得ない。今後の課題である。ただ、我々のテキストすなわち、東京 帝国大学付属図書館本にも、その附録一の終わリに国会図書館本同様の記事がみ られるので次に掲げよう。


    此付録ハ鈴木岩二郎白藤老人之塩逆述ヲ写タル後同事之写本ヲ得テ写加ヘテ
    為附録猶得ルニ随ヒ写加テ綴文トセンノミ
            嘉永五年八月四日 静幽堂主
これによって見ると、両本の原型は同一本である可能性がたかい。

次に『塩逆述』の筆跡であるが、見たところ同一人物のもののようであるが付 録などの手には違いも見られるので何人かで分担して写したものであろう。今各 巻の丁数を示すと巻の一 三八、巻の二 三八、巻の三 五五、巻の四 五九、 巻の五 五三、巻の六(上・中・下) 七四、巻の七(上・中・下) 一一一、 巻の八(上・下) 八八、巻の九 三七、巻の十 四七、巻十一 三八、巻十二 三七、付録一 一○五、付録二 四五、本編六七五、付録一五○、総計八二五 丁の大冊(凡そ四○○,○○○字)となる。

さて『塩逆述』の学習に当たっては、野市勇喜雄氏に大変御協力戴いている。 氏の正確無比の釈文と解説によって、参加者はどれだけ助けられているか計り知 れない。ここに記して感謝の意を表する次第である。

参加者の数は、最近増えているようで、毎回十五人から二十人である。新聞各 社に案内がのっているせいか、新規入会者が毎回見られるのはうれしいかぎりで ある。大阪人の「大塩の乱」についての関心の深さをみることができる。大塩事 件研究会にとって慶賀に堪えない。

『塩逆述』の内容については、幾つかの特徴を指摘しうる。

、転写を重ねた写本だけに誤字・脱字・当て字の類が多いことである。
、伝聞、噂、風説の類を書留めたものが多く、事実とは異なる記述がしばしば 見られる。たとえば、「天満橋中程を切落し」とあるのは、天神橋の誤りで ある。また二月十九日に大塩格之助が「玉造方同心衆鉄砲にて打取」られた としているがこれも誤りである。ついで二十三日に東奉行所に鉄砲を打ち掛 けるものがあったり、守口宿の白井某は同勢五百人計りを催したとか、大筒 は五六十も車に乗せて所々ヘ打ち込んだ、などなど針小棒大に誇張されて書 き留められているものがある。尤も書いた当人も「三千人程と申事ニハ御座 候得共夫程の事無御座候由も申何レも風聞強ク皆々心配御座候」などと、風 聞などは信じられぬ心情を書きのこしてもいる。
、老中より大名への通達、留守居・家臣よりの届け・書状、商家の書状、個人 の覚書、落書、辻々の張り札、場所・旗などの図面、奉行所の口書、など種 々雑多の資料が書き写されている。資料は博捜され、ほとんど全国に及んで いる。資料を分類整理して編纂したとはとても思えないので丹念に読むしか 方法がない。しかし、各巻の目次をみると注目すべき内容がある。五の巻に は、「土井殿届塩賊焼死事」、「水戸殿江奉書大塩風説」、「大塩後素写」 などがある。七の巻には、「江川太郎左衛門届」、「篠崎小竹之書」があり、 八の巻には、みよしや五郎兵衛宅の見取図がのる。全体の十分な検討が必要 である。
、これだけの資料を蒐集し、書写した『塩逆述』の著者は一体誰であろうか。 謎という外はない。大坂の斎藤町の医師の手によるという『浮世の有様』や松浦静山の「甲子夜話」などにも匹敵する資料集であり、この資料の質など から推測して幕閣の周辺に関係するものであろうか。
我々はまだその第一巻を読了したに過ぎないが、この過程での間題点を整理し ておこう。ひとつは、情報の伝わり方の問題である。幕閣の一員である水野越前 守が松平甲斐守(大和郡山)の家臣に宛てた通達に「早打之義品ニより候はハヽ 大坂表さヽヘ候義も難計候二付其心得にて可被申付候」とある。すでに大坂城は 落城しているかもしれないので、その心得をもってゆけといっているのであるか ら、ことは重大である。したがって江戸へは大塩勢の反乱の正確な情報は伝わっ てはいなかったと見るほかはない。しかし、万一の事態を踏まえた心構えを指示 するあたり、ざすがである。

次の問題は、大塩の乱に際して大坂周辺の諸藩は軍事動員を命ぜられた。打ち 続く太平の時代、各藩ともどのような軍事編成をもち、非常に備えた訓練などは 行われていたのかという点などについて質問がでた。巻数が進むにつれてより精 細に記述されると思うが、とりあえず、一巻の範囲だけで見てみよう。

まず大和郡山藩であるが、十九日の午前九時頃大坂天満与力町より出火大火と なったので、兼ねて用意の一番手の人数を差し出したとある。兼ねて用意とある ので、平常こうした非常事態に備えた体制が整えられていた事が分かる。しかし、 この時点ではまだ大塩反乱の状況はつかまれていない。この時一番手から連絡が 入り、出火は御城近辺におよび場所柄も大切の様子というので二番手を出動させ ている。同時に三番手を暗峠まで配置し、翌二十日使番をもって大坂城代土井大 炊頭にその後の行動の指示を仰いでいる。城代からは、火は鎮火したが折角の人 数であるから追手先まで差し出すべしと下命があった。よって一番手・二番手は 追手先まで繰り込む。この時弓鉄砲などの用意もしていることを申し達したとこ ろ、「此度ハ出火而已二ても無之異変之義二付弓鉄砲等早々繰入候様相達」しが あり、初めて異変という認識に至っている。これにより、三番手の人数も王造口 辺まで出張っている。以上によってみると弓鉄砲などの準備も普段からされてい たことが判明する。

また各番手の編成なども書き出しがあるのでみておきたい。


   一番手  物頭一騎  使番弐騎  目付壱騎  注進使番三騎  用金方一人  
           徒目付二人 (計十名)
   二番手  番頭壱騎  物頭壱騎  使番壱騎  注進役番弐騎  用金方一人
           送者一人  徒目付一人  厩子頭一人 (計九名)
   三番手  年寄壱騎  物頭壱騎  番方組頭壱騎  馬廻五人  大小姓五人
           武具方三人  具足師壱人  武具師壱人  徒目付組頭壱人 
           徒目付壱人  用金方一人  中番小頭壱人  代官手代壱人  物書一人
          (計二十四名)
              (大和郡山藩は十五万千二百石)
これによると各番手の総人数はわずかに四十三名にすぎない。しかし、『浮世の有様』「大坂警備の模様」によると、


           同廿一日早朝駆付、暮書前に御引取
    和州郡山城主十五万石松平甲斐守殿より番頭廿五騎但し何れも騎馬・大纏一
    本・大馬印一本・弓五十挺・鉄砲五十挺・長柄三十筋同勢三百余人
とある。いかにも人数が違い過ぎるが、その間の事情について『浮世の有様』の 筆者は、「以上御城内外備立の次第、并に近国より駆付し諸候の人数等、御城同 心糟谷助蔵が所持する処の大塩一件を記せる本也とて、或人の写せるを借り得て、 爰に書添えぬ。されども余が始めに記るせし如く、大塩が乱妨の節には大狼狽に うろたへしのみにして、決してかゝる厳重の備立をいたし得ず。其翌日至りてう ろたへながら、ようようとそこそこに人数配りをして、其さまおかしかりし事な りしと云。こはむかしよりいひ伝へぬる、喧嘩過ぎての棒千切にて、抱腹に堪え ざること也。されども公儀への書上げ程能せざれば相済かたきことゆヘ、跡にて いろいろ評定をなして如此よきさまに書記せしもの也。」という。してみれば、 『塩逆述』がより実態に近いものであったのであろうか。

一方泉州岸和田(五万石)城主岡部内膳正の届によると、

  壱番手人数書  物頭弐人  大目付壱人  賄役之者一人  外科一人
            右以下小役人足軽等都合弐百人余
                 但武器長持四棹 琉球包五  小箱五 
    二番手人数書  物頭壱人  番頭壱人  賄役之者一人  右五十人余  外壱人
            右以下小役人足軽共都合四百人余何レも火事具着用差出申候
                 但武器長持十六棹琉球包十一箱
            右之通り御座候
とあり、一・二番手の合計では六百人余になる。『甲子夜話』には、さらに詳 しい備え立ての記述があり、『塩逆述』の記載とも合するので岸和田藩の場合 は事実に近いとみられる。大坂に近いということもあるが、岸和田藩の場合よ く大部隊を繰り出す事が可能であったのは、外に理由があったとも考えられる。 届の中「琉球包」とあるが、後の書状にみる「三ッ判飛脚」とともに意味が判 明していない。

次ぎに、二月廿六日の日付のある「石川近江守大坂蔵屋敷家来よりの書状」 の記事に、大塩勢が「虎屋と申饅頭名代の方にて昼食致し候由」とあり、虎屋 の饅頭について質問が出された。早速事務局の努力で虎屋饅頭に関する資料が 集められ、我々は虎屋饅頭についておおいに学習することができた。『浪華百 事談』巻之四に「虎屋饅頭」の記事があり、『摂津名所図会』にその店頭風景 がのせられているのを知ることができた。この饅頭は、大塩も愛好したという。 虎屋で大塩勢が昼食をとったというのも事実であろう。

また前記書状に「御城代其外家来衆も具足の上へ火事羽織懸候方多く遠藤但 馬守殿同様着込之上へ火事羽織二御座候。大坂陣以来之珍事二御座候」とあり、 火事羽織のことについて質問があった。これも事務局が『絵でみる時代考証百 科』から図入りの解説を紹介した。巻の一の終わりに、大塩の『洗心洞箚記』 や「辞職詩并序」などの抜き書きが見られる。箚記の抜き書き部分は、わたし もアンダーラインを引いて注目していた箇所で、偶然の一致とはいいながら先 人のみるところと軌を一にした点で、意を強くするところがあった。今後は各 巻の読了後に報告文を書くこととしたい。

なお、国立国会図書館への問い合せや、「虎屋饅頭」「火事羽織」などの資 料紹介は事務局のNさんが担当された。記して感謝する次第である。 (一九九五・八・三一)


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