Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.6.28

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大塩の乱関係論文集目次


「疑問が残る堂々日本史」


−大塩の乱の歴史的位置付けに関連して
「檄文」の思想の分析が埋解の鍵−

向江 強

大塩の乱関係資料を読む会会報 13』1998.5.18より転載


◇禁転載◇


NHKの堂々日本史「腐敗した世に志高く〜大塩平八郎反逆の役人人生〜」が4月14日に放映された。幕藩体制下の天保時代の政治腐敗が現代の政治的動向と類似していることから、大塩の乱の歴史的意味を考えるという構想になっていて、時宣を得た企画でなかなか興味深く面白かった。大塩役には、秋野大作があたり、ゲストとして俳優の高島忠夫、エッセイストの麻生圭子、帝塚山学院大学学長の脇田修、評論家の佐高信の各氏が出演され、大塩事件研究会の会長酒井一、同会副会長の井形正寿も顔を揃えるなど、顔触れも申し分がなかった。

ただ私にとっては、いくつかの疑問が残り、大塩の乱に関する歴史的評価に関しても不満が拭い切れないものとなった。

とりあえず間題を列記すると、

第一には、大塩の陽明学との出会いについてである。大塩の学問とその変遷については、大塩自身による佐藤一斎宛の千紙(天保四[1833]年)に詳しいが、それによると大塩の陽明学への接近は、中国明の呂新吾の著『呻吟語』を通じてのことであるのが明確なので、テレビでは、あたかも中江藤樹がその機縁であるかのような誤解を生ずる描きかたになっていた。

第二には、西町奉行所の組与力弓削新右衛門の取り上げ方である。テレビでは、弓削の不正は、賄賂の受け取りと不正無尽による蓄財との認識であるが、弓削は今一つの大きな犯罪と関わっていた。大塩は弓削の摘発には、重大な決意をもって臨んでいる。『浮世の有様』には、弓削の驚くべき所業が詳しく記載されているので、ここでは簡略に述べる。

大阪には、四ケ所(鳶田・天王寺・千日前・天満)に非人の集団が住んでおり、与力や同心の手先をつとめていた。弓削は鳶田の清八、天満の吉五郎などの非人の長吏や新町の八百屋新蔵などを使って悪事を働いた。中でも清八などは、寺へ強盗に入って四人を殺害、金銭を強奪するなどの凶悪な事件を起こした。かねて清八などとつるんでいた弓削は、事件を知りながらこれを見逃している。警察が泥棒と結託して悪事を働くようなもので、当時の奉行所組織の腐敗が恐るべき危機的状況にあったことを証している。このほか罪なくして罪を得、入牢・遠流・追放などの刑にあい、財を掠め取られるものなどが続出、また内々に金をとって博変を許しながら、官には通報して召し捕るなど「世に害あること甚だし」という状況を呈していた。弓削の一件は、大塩の三大功績の一つで、外に文政十(1827)年のキリシタン逮捕一件、文政十三(1830)年の破戒僧処断事件などを大塩は解決している。

第三は、大塩の不正無尽の捜査が大塩自身の判断によるもののように描かれていることである。これは藤田覚氏が明らかにしたように、老中水野忠成(みずのただあきら)の指示によるものと思われるので事実に相違している。大塩の不正無尽の取調書は何らかの理由で大塩のもとに返されていたのであって、幕閣ははじめからこれを全体として問題にはしなかったのである。つまり水野忠邦の証拠隠滅工作を許すほどのものであったのである。

したがって第四の問題は、大塩が乱のあと、一ケ月以上にわたって逃亡潜伏していたのは、大塩が幕府を信じ、かつ彼の挙兵の真意が幕閣に伝わるものと考え、そのリアクションを待っていので、そのリアクションがなかったのは、彼の建議書が老中へは結局届かなかったからだとしていることである。これは三重の間違いである。建議書は、箱根山中から江川太郎左衛門の手中に入り、書き写されたのち幕閣に提出された。また大塩の真意(?)が伝わっていれば、幕府が何らかの反応を示すという判断を大塩がしていた、とするのもかなり、恣意的な推測である。不正無尽の問題はすでに暮府によって握り潰されていたし、矢部駿河守・内藤隼人正・久世伊勢守・内山彦次郎など大塩が建議書で告発した人物の処断については、簡単に決着がつくような問題ではないし、まして反乱をおこした謀反人の頭目である大塩の意見など、到底とりあげられるものではないことは、大塩白身がよく知るところであったであろう。

最後に第五の間題としては、大塩がなぜ血族の禍を犯してまで、挙兵反乱にふみきったのかという問題がのこる。大塩は幕府の安泰をねがって挙兵した、しかし、結果は倒幕運動を呼び、明治維新を早めた、というのがどうもこの堂々日本史の結論であるようである。意外にこの大塩観は世間一般に普及している。しかし、単純にそう言えるのかというのが、我々の研究の出発点であった。大塩の「檄文」の詳細な検討、大塩の主著『洗心洞箚記』をはじめとする大塩の陽明学の研究、天保期の政治・経済とくに大阪のそれの分析などなど、研究はその深さと広がりを示しつつある。私は特に「檄文」において大塩が展開した「日月星辰の神鑑にある事にて、詰まる処は、湯・武・漢高祖・明太祖民を吊、君を誅し、天討を執行侯誠心面巳にて」という箇所に注目したい。易姓革命を宇宙の法則として理解し、民をとぷらい、君を誅し、天討(天誅ではないことに注意)するという大塩の決意は、ここまでくれば、幕府の安泰を願うもののそれではない。まして「是迄地頭村方にある年貢等にかかわり候請記録帳面類は都て引破焼捨可申候」というに至っては、封建性の基礎である年貢収取のための土地台帳を焼き捨てようというのであるから、これは全く封建体制を否定にみちびくものと言わなければならない。

このほか二三、事実関係や気になる点を指摘しておきたい。一つは天保八(1937)年頃の大坂の人口であるが、テレピでは約40万人としていた。しかし、『新修大阪市史』(第四巻)などでは333,187人という数字があり、以後幕末まで40万人台には回復しなかった。

大塩が武術の習練に励んだとして十手術を紹介していたが、大塩の場合玉造口与力柴田勘兵衛に佐分利流の槍術を学び、免許皆伝であったことなどを取り上げた方が良かった。

また大塩がその潔癖さの故に同僚と折り合うことはついぞなかったという指摘があるが、これは如何であろうか。大塩の学塾洗心洞を通じて心を通わせた与力や同心も少なくなかったのであって、大塩の理想主義がまったく同僚たちから孤立していたのではなかった。

したがって、大塩をドン・キホーテのように言い、彼の行為が愚鈍な理想主義であるかに、描き出すことには大いに抵抗を感ずる。三谷秀治さんによれば、私などはさしずめ心酔派で、民衆がつくりだした、理想像を捏ね回しているに過ぎないのかもしれないが、できるだけ客観的な大塩像をつくり出すべく努力している。高島忠夫さんが、大塩は見果てぬ夢を追うものであって、同情の念を禁じ得ないと感想を述べたのには、共感した。


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