Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.27

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
その8

村 上 義 光

『郵政考古紀要 第13号』1988 より転載

◇禁転載◇


(八)まとめ

 徳川幕府が、当初よりの「武断」的機構重視の形態を、強固に或は漫然と墨守し、「文治 」的機構軽視の形態がこれ又その侭に永続した。これが幕 藩体制の基本的な一つの骨格であるが、元禄期頃より実質的に「文治」的機構の重要牲が 増大、「武」重、「文」軽の比重が全く逆転しているにも拘 らず、旧態依然たる骨格の侭に推移した所に重大な矛盾と欠陥が生じ、これが幕府瓦解に 繁がる素因の一つでもあったと思はれる。

 右の基本的骨格の縮図の投影が、大坂城付与力と町奉行付与力にもあてはまる。 永年の泰平と鎖国に、城付与力の「武」は形骸的自負に支へられるのみの無用の長物化的 存在となり、町方与力は、隠然たる商業流通資本の上に 立つ、富商・商人に実質的な経済的支配力を握られ、なすすべもなく只、両者共其なりの 努力をしつヽ、家職・家緑を世襲し最後は、慶応四年鳥羽 伏見の敗戦に徳川慶喜が大坂城放棄脱出時、その倉皇の間に、無情にも次の一片の通達状 を置き、全与力・同心を解職している。 『久松家文書』(No. 五七)に左の如き通達が記録されている。 「……次後、随意に方向を定むべし……」と。 この一片の通達により慶安以後弍百弍拾余年の大坂城付与力・同心、町方与力・同心の制度と組織は消滅した。

 最後に紙面の限定により紹介したい、両与力の詳細な職務内容、外多数の史料を省略、概論のみにとどまった点、御詫びしたい。未完 (傍点すべて筆者)


  Copyright by 村上義光 Yoshimitsu Murakami reserved


村上義光・島野三千穂 「大坂城玉造口定番組与力久松家文書


「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
目次/その7

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ