村 上 義 光
『郵政考古紀要 第13号』1988 より転載
(八)まとめ
徳川幕府が、当初よりの「武断」的機構重視の形態を、強固に或は漫然と墨守し、「文治
」的機構軽視の形態がこれ又その侭に永続した。これが幕
藩体制の基本的な一つの骨格であるが、元禄期頃より実質的に「文治」的機構の重要牲が
増大、「武」重、「文」軽の比重が全く逆転しているにも拘
らず、旧態依然たる骨格の侭に推移した所に重大な矛盾と欠陥が生じ、これが幕府瓦解に
繁がる素因の一つでもあったと思はれる。
右の基本的骨格の縮図の投影が、大坂城付与力と町奉行付与力にもあてはまる。
永年の泰平と鎖国に、城付与力の「武」は形骸的自負に支へられるのみの無用の長物化的
存在となり、町方与力は、隠然たる商業流通資本の上に
立つ、富商・商人に実質的な経済的支配力を握られ、なすすべもなく只、両者共其なりの
努力をしつヽ、家職・家緑を世襲し最後は、慶応四年鳥羽
伏見の敗戦に徳川慶喜が大坂城放棄脱出時、その倉皇の間に、無情にも次の一片の通達状
を置き、全与力・同心を解職している。
『久松家文書』(No. 五七)に左の如き通達が記録されている。
「……次後、随意に方向を定むべし……」と。
この一片の通達により慶安以後弍百弍拾余年の大坂城付与力・同心、町方与力・同心の制度と組織は消滅した。
最後に紙面の限定により紹介したい、両与力の詳細な職務内容、外多数の史料を省略、概論のみにとどまった点、御詫びしたい。未完
(傍点すべて筆者)
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