Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.24

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大塩の乱関係論文集目次


「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
その7

村 上 義 光

『郵政考古紀要 第13号』1988.6 より転載

◇禁転載◇


(七)城付与力と町方与力の収入について

 両者とも、幕府より給せられる俸禄は、与力切米八拾石、同心十石三人扶持である。(与力知行高弍百石、現米八拾石との表示もあるが内容は同じ)此の俸禄高は与力制度創生期の慶安前後から明治元年の江戸幕府瓦解迄、約弍百弍拾年間、驚くべき事に壱回の増給改訂もなく、不変固定の家禄俸給である事を特記して置きたい。

 但し、両者間の実収入については、大きな相違があった様である町方与力は一説によれば、二千石位の生活を成し得る裏収入があったとの事である。この点については、岡本良一『大塩平八郎』、(P25)にも少し触れられているが、事の内容から、奉行所等の公式記録は勿論、当の与力関係者などからの明確な資料は皆無であるが、他面、近世地方文書の村入用帳や、大坂三郷の町方文書等には、町方与力同心への、租関係や諸公事・火事・風水害・変死・或は、寺社の出開帳・法会・祭礼万般の立会・出役に対して、其の都度の礼銀又、諸株仲間。商人組合からの附け届が、事例史料として挙げる必要も無い程多く明確に記載されている。しかもこれは公然の儀例的なものとして、黙認されていた様である。天下の台所たる大坂の商町人及大坂近郷の農村の行政全般の取り締りに唯一の強権を持つ大坂両町奉行所、その権限を行使する与力に対し、町庶民・農民に取っては、その業務遂行上、やむを得ざる潤滑剤として拠出していた事は事実であらう。又その当然の成り行きとして、権威に溺れ、賄賂を強要公事訴訟すら賄賂によって左右する如き極悪の与力の横行、其の悪風の蔓延を憂い、文政一二年(一八二九)三月東町奉行高井山城守の支援、支持を得て、与力在職中の大塩平八郎が、疾風迅雷、其の首魁西組与力弓削新右衛門を切腹せしめ、余類の与力同心を補縛している。此の事件に対し、石崎東国『大塩平八郎伝』に次のとおり記されている。

「按ズルニ猾吏好卒ノ糾弾ハ先生三大事功ノ最モ著シキモノニ係ル、而モ其ノ事績ノ詳細ナルモノニ至テハ、公文書全ク伝ハラズ、蓋シ東西吏僚之ニ連ル者多シ、或ハ云与力同心十八人ニ及ブ・・・・西組与力吟味役弓削新右衛門、恣暴増長、悪業底極ナシ賄賂ヲ貪リ貨財ニ涜(けが)レ・・・・」

高邁清廉潔白の儒学者であり、公私の区別に峻烈、常規といへども菓子折一つ受取らぬ、大塩にして始めて糾弾し得た事であろうが此の粛清も一瞬の警告に終った様である。(尚京都・大坂・奈良の町方与力の実際収入について偉友「島野三千穂氏」が研究中で、其の発表が待たれる次第である。)

 他方城付与力は、大坂三郷等の行政にも、庶民にも無関係と無縁の職務で、大坂城警固のみの任務につき、永久不変の家禄八十石のみの生活で、もっぱら武術の鍛練に専心する或は専心せざるを得なかったと言うべきかも知れない、まさに「武士は喰わねど高楊枝」的境涯である。


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石崎東国「大塩平八郎伝」その40
島野三千穂「大坂の町組与力・同心の副収入


「大坂城定番付与力と大坂町奉行付与力との基本的相違点について」
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