Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.24

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「堀鉄蔵と其の記録文書について」

−大塩の乱に触発された幕政批判の胎動と其の実証−

その3

村 上 義 光 (1916−1992)

『大塩研究 第23号』1987.12 より転載

◇禁転載◇

(三) 寺田村の米生産高とその領地支配関係とその地域の特異性について

(1)寺田村の米穀生産高と支配関係について

 寺田村の米穀生産高上納の大半が、下表の如く仙洞御料・女院御料用として、終始している(天保期女院料が幕府領支配となっている)。

 領地支配関係 *2 については、右の如き、仙洞や女院料が大半につき、当然朝廷と寺田村との領主的支配関係が考へられるが、実際には直接的な支配関係は一切存在しない。領主としての強権と完全な支配権・行政権は、幕府京都所司代支配下、山城代官 *2 (小堀氏世襲)が掌握している地域であった。これは朝廷と領民との直接的な繋がりを断つ意識的な幕府の遮断政策によるものである。

(2)寺田村地区(南山城地域)の観念的特異性について

 寺田村(南山城地方)は前述の如く、山城代官の完全な支配下ではあるが、朝廷(公家)との精神的な深い繋りを伝統的に持つ地域である事、この事が堀鉄蔵を育成した重要な地域的な特性と考へられるので、左の堀家文書より具体例をひき説明したい。

(イ)『年々雑用記』(鉄蔵祖父寺田村庄屋堀治左衛門筆、天 明四年ゝ寛政十一年公用記録帳)

 その寛政十一年の条に左の記事が見出される。

 右は後桃園上皇六十の賀に南山城十ケ村の惣代として、鉄蔵祖父が祝金持参、京へ参賀、又上皇より御返しとして十ケ村に青銅三貫文が下附された。

(ロ)『諸事覚え書』天保十一年十一月の条に次の記事が見 られる。

 このように祖父治左衛門の記事(寛政十一年)(一九七九)と、四十年後の孫鉄蔵の記事(天保十一年)(一八四○)からも、朝廷との支配関係は皆無にも不拘この地域住民は朝廷に対し深い精神的な絆と親近感を抱いていた事を立証している。

 又平安京以後、京都は日本最高の権力者徳化統治者の地であり、その統治象徴の京への求心力により特に中世以来、新輿地方武力権力者が絶えず此の京への接近を図り、その目的の為に繰り返された戦乱を、目の当りつぶさに見て来た此の山城地方の住民達は、本能的に江戸幕府を絶対的な統治の最高者とは見ず日本の最高権力者徳化統治者は、天皇に京にとの根強い土壌的信仰ともいえる思念を有していたと思われる。

 又、中世を通じて武家の権力支配に抗した山城地方 *3 の土一揆、特に文明十七年から以後八年間に及ぶ有名な山城一揆に見られる様に、本地方の農民・国人による自治の歴史。これらの伝統から寺田村の村政も又自治的傾向が強かったかとも思われる。この点又、左に堀家文書より抽出し紹介する。

 右の如く村役人(庄屋、年寄等)を百姓一同が民主的に選出する例は必ずしも寺田村に限らないが、筆者傍点の如く、寺田村は過去より慣例的ニ百姓一同の自治的選出法が取られていたようでこの形式的願書文面からも窺へる。


参考文献(注)
*2 [古事類苑官位部三]郡代・地方奉行・[柳営秘鑑四]支配禁裏付勤方・[京兆府事記]・[京都御役所向概覚書]小堀仁右衛門京都代官勤方
*3 [資料大系日本歴史]三中世U 大阪書籍


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