Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.14

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎を憶ふ」その10

中野正剛(1886−1942)

『現実を直視して』善文社 1921 より

◇禁転載◇

 中斎が企てし丁酉の乱は、未だ発せざるに先だちて、幕吏の知る所となり、八百人の同勢中、五百人を糾合するのみにて、大阪の焼討を試み、屡々奉行城代の兵を破り、急に富豪の家を襲ひて其金穀を途上に撒布し、洽く窮民をして之を収めしめしが、衆寡遂に敵せず、同勢或は死し、或は散じ、中斎も亦養子格之助と共に爆薬を抱きて自ら焦死するに至れり。中斎妻なし、妾あり、子あり、家門を修むること頗る厳、嘗て妾が中斎の家訓に背き、他より櫛を贈られて之を収むるを知るに及び、遂に髪を断ちて尼とならしめたり。以て廉潔の家風を察すべきなり。罪に坐して三族尽く罰せられ、一子弓太郎後に赦されしも夭折し、中斎の家系全く絶ゆ。然れども中斎は仁を欲して仁を得し者、自ら恨む所なかるべし。中斎が将に乱を発せんとするや、檄を草して摂河泉三国に撒布し、細民をして大阪の巷に踏藉せらるゝ金穀を収めしめんとす、其の豪富と奸吏とを罵れる一節、宛として後世の政商と権略家とを叙するの観あり、曰く、

と。其の富豪と奸吏とが相結託し、腐敗堕落を極むるの状、宛として北九州の疑獄事件を見るが如し。中斎が最早や堪忍なり難く、湯武の勢、孔孟の徳はなけれどもと称し、天下の為に蹶起するに至りしは、其思慮の浅きに因ると曰はんよりは、寧ろ其熱誠の溢るゝなり。今の時は中斎の時と異れり、中斎の時は凶年続きて五穀欠乏せしものなれども、今の時は豊年続きて、米価益々高きなり。由来する所を究めずして、漫に天下に所謂義挙を唱ふるも、窮民は決して救はるべきに非ざるなり。思ふに戦時には戦時の経済政策あり。独逸を始めとして交戦列国が、夙にバンク・ノートの経済を改めて、物資の経済を計りしに際し、独り我帝国が単に輸出の超過、正貨の増加を喜びて、物資の欠乏、物価の騰貴を算中に置かざりしは、今日の禍の由来する主因たり。もし仲小路農相の頑迷、小智を挾みて、与論を顧みず、人工的小策に没頭するが如きに至りては、殆んど跡部山城に髣髴たるものありと雖、今日帝国の食料問題は、畢竟一仲小路農相の処理し得べきに非ざるなり。大政党も過去に於て罪を犯せり、識者も今日まで注意を怠れり。今日は大塩中斎の熱誠を以て、熊沢蕃山の経綸を出すべき時機に逢着せるなり。鳴呼時事日に非にして大塩を憶ふ。平八郎が快挙を慕ふに非ずして、中斎の熱誠を以て、蕃山の経綸を行ふ者を渇仰するのみ。

                (大正八年八月二十一日)


大塩檄文


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