『現実を直視して』善文社 1921 より ◇禁転載◇
中斎が企てし丁酉の乱は、未だ発せざるに先だちて、幕吏の知る所となり、八百人の同勢中、五百人を糾合するのみにて、大阪の焼討を試み、屡々奉行城代の兵を破り、急に富豪の家を襲ひて其金穀を途上に撒布し、洽く窮民をして之を収めしめしが、衆寡遂に敵せず、同勢或は死し、或は散じ、中斎も亦養子格之助と共に爆薬を抱きて自ら焦死するに至れり。中斎妻なし、妾あり、子あり、家門を修むること頗る厳、嘗て妾が中斎の家訓に背き、他より櫛を贈られて之を収むるを知るに及び、遂に髪を断ちて尼とならしめたり。以て廉潔の家風を察すべきなり。罪に坐して三族尽く罰せられ、一子弓太郎後に赦されしも夭折し、中斎の家系全く絶ゆ。然れども中斎は仁を欲して仁を得し者、自ら恨む所なかるべし。中斎が将に乱を発せんとするや、檄を草して摂河泉三国に撒布し、細民をして大阪の巷に踏藉せらるゝ金穀を収めしめんとす、其の豪富と奸吏とを罵れる一節、宛として後世の政商と権略家とを叙するの観あり、曰く、
三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸つけ候利得の金銀竝に扶持米を莫大に掠め取り、未曾有の有福に暮し、町人の身を以て、大名の家老用人格等に取り用ひられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所持し、何不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏れも致さず、餓死の貧人、乞食をも敢て救はず、其身は膏粱の味とて、結構の物を食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘ひ参り、高価の酒を湯水を飲むも同様に致し、此難渋の時節に絹服纏ひ候河原者を妓女と共に迎へ、平生同様に遊楽に耽り候は何等の事に候哉、紂王長夜の酒盛も同じ事、其所の奉行諸役人、手に握り居候政を以て、右の者共を取締め、下民を救ひ候儀も出来難く、日々堂島相場許りを致し、実に禄盗人にて、決して天道聖人の御赦し叶ひ難き事に候。蟄居の我等、最早堪忍なり難く、湯武の勢、孔孟之徳はなけれ共、無拠天下の為と存じ、血族の禍を犯し、此度有志の者と申合せ、下民を悩まし苦しめ候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市金持の町人共を誅戮に及び可申候間、右の者共穴蔵に貯蔵候金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠し置候俵米、夫々分散配当致し遣はし候間、摂河泉之内、田畑所持致さゞる者、仮令所持致し候とも、父母妻子家内の養ひ方出来難き程の難渋者へは、右金米等取らせ遣はし候間、いつにても大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候ハゞ、里数を厭はず、一刻も早く大坂へ向け馳ぜ参るべく候云々
と。其の富豪と奸吏とが相結託し、腐敗堕落を極むるの状、宛として北九州の疑獄事件を見るが如し。中斎が最早や堪忍なり難く、湯武の勢、孔孟の徳はなけれどもと称し、天下の為に蹶起するに至りしは、其思慮の浅きに因ると曰はんよりは、寧ろ其熱誠の溢るゝなり。今の時は中斎の時と異れり、中斎の時は凶年続きて五穀欠乏せしものなれども、今の時は豊年続きて、米価益々高きなり。由来する所を究めずして、漫に天下に所謂義挙を唱ふるも、窮民は決して救はるべきに非ざるなり。思ふに戦時には戦時の経済政策あり。独逸を始めとして交戦列国が、夙にバンク・ノートの経済を改めて、物資の経済を計りしに際し、独り我帝国が単に輸出の超過、正貨の増加を喜びて、物資の欠乏、物価の騰貴を算中に置かざりしは、今日の禍の由来する主因たり。もし仲小路農相の頑迷、小智を挾みて、与論を顧みず、人工的小策に没頭するが如きに至りては、殆んど跡部山城に髣髴たるものありと雖、今日帝国の食料問題は、畢竟一仲小路農相の処理し得べきに非ざるなり。大政党も過去に於て罪を犯せり、識者も今日まで注意を怠れり。今日は大塩中斎の熱誠を以て、熊沢蕃山の経綸を出すべき時機に逢着せるなり。鳴呼時事日に非にして大塩を憶ふ。平八郎が快挙を慕ふに非ずして、中斎の熱誠を以て、蕃山の経綸を行ふ者を渇仰するのみ。
(大正八年八月二十一日)