Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.13

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩中斎を憶ふ」その9

中野正剛(1886−1942)

『現実を直視して』善文社 1921 より

◇禁転載◇

 姚江の学は或る意味に於て、宋明の暴風に反抗して起りたる英雄的心学なり。王陽明の現はれし時、科挙の弊風は漸く極端に達し、学者は試験に及第せんが為に、摸擬剽窃を以て、所謂形式一遍の八紘文を事とし、其経学を講ずる者も、皆程朱の説を奉ずるを以て登龍の捷径なりとなし、姑息因循、官僚学の害毒殆ど一世を糜爛せしむるの観あり。此時に当り言論を以て、滔々たる口頭筆端の徒と争はんは、蛙鳴の間に鶯声を聴かしめんとするに等しく、其煩到底勝ふべからず。是に於てか王陽明は躬行以て衆を率ゐ、知行合一理気一元を信條として、高く旗幟を天下に掲げたり。

 彼の陽明が搏大昌明なる文辞が、滔々たる摸擬剽窃の俗流をして顔色なからしめしは、是れ詞章の力に非ずして、詞章の背後に存する理気の力なり、熱誠の力なり。大塩中斎の出でし時、林家の朱子学は、既に官僚唯一の教育方針となり、之に反する者は皆幕府の迫害を受け。殊に王陽明学の如きは、寛政以後殆んど謀叛の学なりとして、一世の権力者に蛇蝎視せらるゝに至れり。

 然るに朱子学は由来帰納的研究に類し、理路精密にして、庸儒と雖も、之を口にし、之を筆にするに於ては、容易に之を論破するを得ず。此時に当り大塩中斎出で、猛然として王陽明以上、孔孟を以て志となし、理を究め気を養ひ、勇往直前して、儕輩を圧倒するに至れり、されば中斎が天下に盛名を馳せしは、決して詞章の末に非ずして、英雄の心を以て聖賢の域に突入せんとせし意気の致す所なり。されば佐藤一斎の如き先輩は、中斎の洗心洞箚記を評して『万人未発の條、一にして足らず候へ共、堯舜の上善尽くるなし、殊に御年齢強壮の御事、此段幾層御長可有之歟、測る可らず御頼母敷存候』と述べ、山陽の如き眼中人なき学者も、中斎に許すに『小陽明』を以てせしに関らず、記誦詞章を以て学問の本義とせし田中従吾軒の如きは、中斎を以て素人学者となし、傲慢にして忿り易く、話にならぬ人物と評せり。一斎と山陽、各々異なる所あれども、胸中一息の中斎と相通ずるあり、確かに尋常の庸儒と異るを見るべきなり。

 今日の時、学説の紛々として、帰着するところを知らざるは王陽明の現はれし際の如く、学者の気慨なくして、多くは衣冠する幇間に等しきは、大塩中斎の現はれし際の如し。見よ一部の文学者流の奇怪なる、淫邪に陥りて愧ぢず、醜行を公にして憚らず、啻に愧ぢず憚らざるのみならず、却て牽強附会し、飾るに主義云々を以てするの甚しきに及べり。

 道徳の権威なく、正邪の弁別なきこと、今日の如きはなかるべし。此時に当り彼等を口頭を以て誨へんは迂なり。彼等は禽獣の如く行動す、之に対して真に神人の如く行動する者あらば、天下は両者を比較して、何れを仰ぐべきか。彼等は男女の倫を紊り、朋友の道を傷りて意に介せず、之に対して家庭相和し、朋友相信じ、深く養ひ、篤く行ひ、孜々として倦まざる者あらば、世人は此前後者を対照し、何れに向ひて尊敬の念を払ふべきか。畢竟帰向を定むる所以のものは、空論に非ずして、誠意の力なり、意気の力なり、躬行の力なり。是れ吾人が今日に於て、大塩中斎を憶ふ所以なり。中斎の意気込を以て、学を修め、門人を率ゐ、政治に従ふ者あらば、世人は富嶽を雲霧の上に仰ぐの感をなすべきなり。


田中従吾軒「大塩平八郎の話


「大塩中斎を憶ふ」目次/その8/その10

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