中瀬 寿一
『大塩研究 第9号』1980.3より転載
泉屋住友が大塩事件によって、どのような被害をこうむったか、それをどのようにみていたかについて、さきに一九七八年三月、大塩事件一四一周年によせて、最近の研究成果を中心に「大塩事件と泉屋住友」と題して記念講演をおこない、それを『大塩研究』第五号(七八年三月刊)に掲載し、従来の大塩研究や幕藩制研究、明治維新史研究に新しい問題を提起した(拙稿「大塩事件と特権的大町人=泉屋住友−住友家史『垂裕明鑑』巻之一九の紹介を中心に−」)。
さらにその後発掘した新資料を加え(鴻池や越後屋三井のケースもふくむ)、日本経営史学会関西部会(七九年一一月)で「大塩事件と泉屋住友の〃家事改革〃」を報告し、さらにひきつづき日本経営学会関西部会(七九年一二月)では、「泉屋住友の〃家事改革〃の特質−明冶維新とその〃近代化〃過程−」を発表し、その歴史的経過と特質を明らかにしたが、本稿ではそのうち、大塩事件による大きな衝撃以後、天保改革にかけて、泉屋住友がどのような〃家事改革〃をおこない、当時の情勢に対応しようとしていったかについて、未公開の史料を中心に明らかにしてみたいと思う(より詳しくは、共同研究として、すでに発表の「幕藩体制下泉屋住友の歴史的研究」「幕藩制末期における泉屋住友の歴史的研究」『大阪産業大学学会報』第一一号、第一二号をはじめ「大塩事件と特権的門閥町人層の動向−三井・鴻池・泉屋住友を中心に−」『大阪産業大学論集(杜会科学篇)』八○年三月号、その他の続稿をぜひ参照されたい)。
すでに前稿(本詰第五号)において、大塩事件のまっただなかで、泉屋住友が鰻谷(銅吹所その他)から大坂城にむけて鉛八千斤(弾丸)を三度にわけて必死で上納運搬し、幕藩権力にいかに忠勤を励んでいたか、その癒着ぶりを明らかにするとともに、他方、泉屋住友の「豊後町分家別家久石衛門・喜三郎掛屋敷の内、備後町・錦町・太郎左衛門町三カ所」およびおなじ特権的門閥町人として親類筋の「鴻池屋善石衛門・同善之助・平野屋五兵衛・同郁三郎」が、「大塩焼け」でやられたことを明らかにした。
なお、これまで大塩事件の歴史的意義を明らかにした研究も数多く発刊されたが、今日のいわゆる「労農同盟」が成立しなかった原因について、どちらかといえぱ大塩の思想的限界にのみ帰着させる論者が少なくなかったように思われる(七九年秋の大塩事件研究会でも活発な論争が展開されたが、私は少なくとも「檄文」を克明に分析するかざり、大塩が批判攻撃の対象としたのは、これまでいわれていたような大坂町人一般ではなくて、明らかに一部の特権的門閥町人層がその対象だった、と考えており、その再検討をつよく提起したいのである)。
だが、この点にかんしていえば、幕藩権力と癒着した大坂の門閥的特権町人による大坂の町政支配や貸家・不動産所有など、都市構造の実態、さらに彼らによる近郊農村支配の進行と商業的農業の発達状況をもっと明らかにする必要があり、七九年七月、大塩事件研究会、民衆思想研究会における乾宏巳氏の興味深い報告「天保期大坂の町人社会」でも、この点の指摘があったが、大坂市中の町民が容易にたちあがれないように網の目がはりめぐらされていたことを、もっとつよく指摘しておくことが、今日大いに重要であろう(これらをぬきにして、藤田東湖『浪華騒擾紀事』などが、大きな危機感をもって指摘しているような「大坂市中殊之外平八郎を貴候ひ候由、甚しきは焼たくられ候共迄少しも怨み不申、小者迄も大塩様と貴ひ…」という民衆意識がながくのちまで存在した根拠を明ら方かにすることができないであろう)。
特権的門閥町人層の所有による大坂の借家総数、そしてそれらを管理続制する家守総数がどれはどに達し、すみずみまでその支配がおよんでいたか、さらにこれらに対する恩恵的施行による分製、懐柔策がどのように進められていたか、などについて、今後もっともっと研究する必要があるが、その一端として泉屋住友のケースを、ここでまず明らかにしておくことにしたい。
『近世に於ける住友の不動産業−序論』(『泉屋叢考』第15輯)によれば、泉屋住友では「宝永年間(一七○四〜一○)より抱屋敷(囲・家屋を建設した屋敷地)売買のことが増え、その後逐次増加して、享保十年(一七二五)頃には大阪市中で二十八箇所、京都・江戸で各五箇所、長崎で一箇所の抱屋敷があった。以来増減のことはあったが、大阪・京都・長崎・江戸を併せ概ね数十箇所の抱屋敷を有していたよう」な史実が明らかにされている。
泉屋住友の「抱屋敷は大阪の場合、上町(東横堀川の東部一帯)・船場・島の内を主として堂島・中之島・堀江・天王寺などにも散在し」「その種類も…幾通りかあったようで」、「順慶町(船場)・内本町太郎左衛門町(上町)・信保町(天満)などのように建坪六畳ないし九畳を主としたもの」、「一抱屋敷内に二十数軒ないし四十軒余あるもの、備後町(船場)・富島二丁目(川口)・南堀江二丁目橘通・堺筋南米屋町(島の内)・北堀江一丁目など一抱屋敷の内に大は五十畳、小は八・九畳までの数種類、軒数にして十数軒のものから百三十余軒の貸家が集まっているもの」、「谷町のようにほとんどが二十二畳(二十二軒のうち十五軒)で編成されているもの」など、あったという。そして「抱屋敷の経営には、それぞれに家守(管理人)をおき、本家の家賃方にて業務を統括した」のであった。ことに「享保年間の大阪の三十余箇所、元文年間の大阪約十箇所、寛保の大阪の六箇所、宝暦の七箇所」というように、「享保・元文期に数多くの抱屋敷を取得した」といわれている(同書三〜六頁)。こうして膨大な借家をもち、収奪をかさねつつ、他方では、米価高騰のなかで、泉屋住友なども、借家人や出入方に、ある程度の施行をおこない、都市打ちこわしに参加しないように分裂・懐柔策に躍起とならねばならなかった、と考えられる。たとえば『垂裕明鑑』(巻之十八)にも、次の通り書かれている−。
「是年(注、天保四年=一八三三)十月中句頃ヨリ米価高直ニ相成、公儀ヨリモ種々手配有之、十一月二至り少シ下低スレトモ、元来今年ハ北国東国筋凶作ニテ世上有米払底シ、諸商売不振、市中ニ窮困者多分有之、依テ米銭施行ノ沙汰モ有之二付、当家借家其外出入方ノ者へ施行ス、此時白米一升二付百三十五文ヨリ百四十文マテノ相場ナリ、
天保五年(一八三四)にも、次の通りしるされている−。米十八石八斗三升 三百六十五軒分 此代銀弐貫四百三十九匁七分五厘 内 拾六石八斗 借家三百六拾大戸 弐石三斗 家守 弐十九戸 米 六石四斗壱升 百二十五軒分 此代銀八百三拾目四厘五毛 内 出入方 八人 一人ニ七升宛 手伝其他 四十一人 一人ニ五升宛 吹屋大工手伝十六人 同 上 下働 五十八人 同 上 吹屋出入方 三人 一人ニ付五升 茂左衛門町鰻谷十二人 同 上 合 百二十五人 銭 拾九貫八百五十文 山本新田百姓 七十五人 総計 米 弐拾五石弐斗四升 此代銀三貫弐百六拾九匁七分八厘 三口合 三貫四百五拾壱匁四分三厘 施行高」
「是月(五月)、市中窮困者救助ノ為メ銭七百貫文差出ス、融通方御用並十人 両替一統ヨリモ救助銭ヲ出ス、合計壱万七千弐百貫文
右ヲ大阪三郷ニ割合 四千弐百五拾三貫文 北 組 九千四百六拾弐貫文 南 紺 三千四百八拾五貫文 天満組」 (『垂裕明鑑』巻之十八)
天保七年(一八三六)にも、次の通り書かれているのである−。
「今年秋以来米価高値ニ相成、九月中句ヨリ益騰貴シテ市中ニ難渋者多ク、公儀ニ於テモ種々救助方ニ手ヲ尽サレ、又市中冨豪ノ町人共へ施行可致御沙汰モ有之、依テ当家ヨリハ左ノ通差出ス
一 銭 千貫文 市中難渋者施行 一 銭 十五貫文 町内難渋者へ施与 一 銭 三十四貫八百文 吹所大工手伝等五十八人ヘ 一 銭 弐百貫文 抱屋敷借家中吹所出入の者へ」 (『垂裕明鑑』巻之十八)
こうしたなかで、大坂の一般の町人、職人層など(いわば「平民的反対派」に属する人びと)が、大塩事件には、容易に参加できにくくされていたであろうことが大いに推察されるのである。
つぎに徳川幕藩体制を根底からゆり動かし、越後屋三井などの特権的門閥町人層に「誠に絶言語、前代未聞の大変」(『稿本三井家史料−小石川家第六代三井高益』六五〜七○ぺ−ジ)と叫ばせ、「其恐懼シキ事不可云」「今日之大変…国初以来凶変実不可言」と『天保日記』(天保六年七月八日〜同八年三月八日)の筆者(筆者不明。ただし大阪市立博物館の相蘇一弘氏の興味深い報告「大塩の乱と知識人」によれば加島屋某と推定されている)をして叫ばせた大塩事件による襲撃を契機とする泉屋住友の〃家事改革〃の動向を具体的史料で、できるだけ詳細に明らかにしていくことにしよう。なにしろ大塩事件以後、天保改革をへて明治維新期にいたる三井の〃家政改革〃については、すでに三井礼子氏のきわめて興味深い実証的研究(「幕末三井〃家政改革〃についての覚書」『三井文庫論叢』第二号、「維新期における三井〃家政〃改革」同第五号)があるが、住友のそれについては、同研究(後者の脚注)のなかで簡単にふれられているにすぎす、国際的にも国内的にも比較財閥史研究の重要性が叫ばれ、幕藩制末期における町人資本の役割の再検討が緊急の課題となっている今日、なおその研究のおくれはいちじるしい、といっても決していいすぎではないであろう。
ところで、第九代当主友聞(ともひろ)(甚次郎)の名で出された先述の「銅山稼方困難ニ付、倹約法申渡によれば、別子銅山で「昨年弟地(おとじ)炭宿出火」につづいて、「当春大阪表大火(注、大塩事件による)、豊後町店并抱屋敷夥敷致焼失」、そのうえ、「江戸表米店も御用金過分相掛」り、そのほか「不時の損失打続」き、米、塩、味噌などの値段もあがり、別子銅山への費用(下(さげ)銀)もかさんで大変なので、本家も諸取締費を節約する、ついては藤右衛門をさしむけるから、老若に限らず腹蔵なく話しあい、「各身分倹約」第一とし、「長久永続銘々精勤」にはげむように、ときびしく命じているのである。
是月(註、三月)銅山稼方困難二付倹約法ヲ申渡ス
一 銘々存之通、 去酉年(注、文政八年) 其表鋪中不時の湧水有之、 広大の失墜相掛り、漸々相防候得共、今以定水に相滅不申、其後未年 (注、天保六年)余計炭蔵焼失又候、昨年(注、天保七年)弟地炭宿 出火、続て〈当春〉大阪表大火、豊後町店并抱屋敷夥敷致焼失、江戸 表米店も御用金過分相掛候、其外色々不時の損失打続、銅山之儀諸色 共高直に相成、鋪中【金通】先も相細り、炭木迄遠山仕成苦敷右等にて下銀 追々相増、殊に近年諸国とも凶作にて米穀高値に付、買請御米代銀一 倍、其外塩味噌に至迄高直、御山納銀相嵩候に付、追年大阪勝手向に も甚繰合にて心痛依之御公儀へ種々手を替へ追々願上候に付、御憐憫 之御手当被下置候処、最早昨年限にて相止段々歎願致し度、厚及評議 候得共、御公辺厳重の御時節柄にて、此上手段モ無之候、然上ハ本家 諸取締費相省候様可致外無之候、右に付今度共表へ藤右衛門差向け、 重役共始諸事可及熟談候間、益にも相成候義、老若に不限勘考致し、 心付候義ハ腹蔵なく被申出、永続の工風肝要の事に候、尤藤右衛門よ り我等存意の趣を以仕法相立可申渡間、一統堅被相守、第一各身分倹 約、諸事行末立身候様致度申入候趣意事繁候て書洩の儀ハ、藤右衛門 へ申含候条、承知可有之候 右之趣に候条、此上ハ長久永続銘々精勤次第の事に候間、被申合一入勤 仕給リ度候、以上 天保八酉年三月 甚 兵 衛
つぎに「末家中取締法」では、末家の本人や妻女が年始、盆などのさい着用する衣服や櫛、かんざしにまで指示し、法事や元服・出産・結婚その他の慶弔のこと、さらに近火の場合のことや金銭の借用、衣食住のことにまで、こまごまと倹約を要求して、七力条にわたって、次のように命じている−。
末家中取締法ヲ定ム 定 一 末家中本人并妻女、年始盆礼衣服縮緬羽二重絹ハ小紋たりとも無用、 秩父紬、越後等可相用、紫色ハ可為遠慮候、臨時女房罷出候節、右同 断差物ハ櫛笄の外簪ハ鼈甲まかひ、銀まかひ、各一本宛、供ハ一人た るべき事 一 本家法事并施餓鬼等の節香奠一人前二匁宛実相寺へ差出可申事 一 末家中年回の節、本家より香奠向後壱匁五分宛相定候間、茶の子等差 出候ハヽ、饅頭印紙一枚に可致事 一 嫁娶養子相続之節、本家へ差出物ハ、蒸物計り可差出、贈物ハ始て目 見の節計、安産元服等ハ届計、差出物に不及、半元服鉄漿付等ハ届に も不及候事 一 近火非常之節ハ、早々本家へ駆付可申、并末家中近火の節ハ、相互に 可致世話事 一 是迄聞済の外、借用等の儀難取用事 一 末家中衣服、飲食、造作、諸付合、万事に付、倹約相守長久之基可被 致事 右ハ文化十一戌年、文政十一酉年申渡置候得共、年数相立候儀に付尚又改て 申渡候事 天保八酉年三月 甚 兵 衛
さらに源兵衛・藤右衛門・芳兵衛・勇右衛門・連蔵などの連名で出された「店方吹所取締法」では、近頃役場の欠席が多いこと、若年者の「他行」、朝帰りが多いこと、「子供」の行儀が悪いこと、元服以後三カ年「子供」同前たるべきこと、役頭以下の衣服のことなどについても、つぎのような指示をあたえている−。
店方吹所取締法ヲ定ム 一 店方不行跡に相成、役場欠席多相聞へ候、別して近頃ハ無人の事故互に 申合、役場不明様可致候 一 若年の者猥に他行致、翌日迄も不帰者も有之様相聞、心得違の事に候、 若輩の間ハ差して内用と申事も無之儀に付、他行致候得ハ何れ聊にても 雑費の掛る事に可及候間、精々相慎可申事 一 元服より三ケ年間ハ、子供同前たるへき趣ハ前々より申渡置候処、近来 猥に相成心得違の者も有之様相聞へ候、急度重役より可被申渡事 一 著用物、役頭以下ハ紬限の事、袴ハ糸縞葛布可相用候事 一 子供、算筆行儀近頃不行跡にて、来客の節不取扱に相成、且見苦敷事に 候間、台所方ハ勿論、店方に於ても精々可致教諭事 右之趣被申渡候条、向後心得違無之様、急度御守能々御申合精勤可被成候 天保八酉年三月 源 兵 衛 藤石衛門 芳 兵 衛 勇右衛門 連 蔵 本 家 吹 所 御 詰 合 中
だが一方、こうして質素倹約を力説しつつ、他方、吉田候からの金三○○○両の御用金依頼に応じて、一三○貫目および六○貫目を調達しているのが目立つ(もっとも以前の調達金一一○貫目の返却をうけてはいるが)。なお同年の両替手形便覧によると、十八両替として、泉屋住友から「北久太一 和泉(いづミや)利十郎」と「豊後町 同甚次(治)郎」の名が見出される。また延岡侯に対しては、以前の調達金五三○○両の返却を歎願している。
大塩事件勃発の翌年(一八三八=天保九年)、江戸城(西城)が火災で焼けたのに対して、吹銅一○万斤を献上し、西尾侯には銀二二貫目、大野侯には金三○○両、川越侯へは銀一○貫目を調達している(詳しくは表1参照。なお、大野侯へはすでに調達金二四三○両があり、三カ年の利息が五六六両二分となっている。川越侯へは一八二九年に二一貫八四○目八分調達し、その後元利とも、一八三二年には八貫八○○目にへったが、さらに一八三六年にも一五貫目を調達している)。
表1 幕末・維新期、泉屋住友の御用金・大名貸の動向
一八三七(天保八) 〈大塩事件〉 | 吉田侯へ御用金一九○貫目調達 |
一八三八(天保九) | 幕府へ吹銅一○方斤献納 西尾侯へ御用銀二二貫目調達 大野侯へ御用金三○○両調達 川越侯へ御用銀一○貫目調達 |
一八三九(天保一○) | 浜松侯へ住友・鴻池など七人で銀二二五貫目調達
土浦侯へ御用金五○○両 大野侯へ御用金四○○両 浜松侯へ銀六○貫自 |
一八四○(天保一一) | 大野侯へ四○○両 西尾侯へ六四貫目 吉田侯へ一三○貫目 川越侯へ三○貫目 |
一八四一(天保一二) 〈天保改革開始〉 | 浜松侯へ六○貫目
吉田侯へ一七○貫目 |
一八四二(天保一三) | 浜松侯へ三五貫目 |
大坂城修復のため、住友吉次郎、
泉屋甚次郎各七五○○両、泉屋六郎右衛門一万両献金 若州、川越、芸州、作州、対州、土浦、延岡、明石、館林の諸侯へ御用金返戻を願出る | |
一八四四(弘化一) | 幕府ヘ、火災につき金五○○枚献上 土浦侯へ銀二○貫目 |
一八四五(弘化二) | 吉田侯へ豊後町名儀二○貫目をあわせ一○○貫目 |
一八四六(弘化三) | 幕府へ冥加金(三朱御手当金二○貫七七一匁、五分銀
一○貫八匁、一分五厘)献上出願 吉田侯へ銀二○貫目 |
一八五二(嘉永五) | 土浦侯へ御用金一○○両 |
一八五四(安政二) | 土浦侯へ御用金一○○両、銀一○貫目幕府へ銀一○○枚献上(異国船渡来、西丸普請のため)
西尾侯へ四○貫目 |
一八五六(安政三) | 京都別荘を対州侯へ献上、大野侯へ金三○○両調達 |
一八五九(安政六) | 松山侯へ吹銅七○○○斤献上
松山侯へ御用銀一○○貫目調達 小田原侯へ御用銀二○貫目調達 |
一八六○(万延一) | 西尾侯へ御用銀一四五貫目調達
幕府へ御用銀三八貫七○○目献納 暮府へ浅草出店より金一五両上納 |
一八六一(文久一) | 掛川侯へ御用銀五○貫目 |
一八六二(文久二) | 松山侯へ御用銀一七○貫目 |
一八六三(文久三) | 松山侯へ御用銀三○貫目 |
一八六四(元治一) | 松山侯へ御用銀五○貫目
南部侯へ御用金一万一八五○両を新証文に書きかえ 明石侯への御用金一二八六貫目証文書きかえ 幕府へ御用銀一七○貫目上納 幕府へ海防費金一○○両献金 吉田侯へ御用金二四○○両調達 浜松侯へ御用銀二○貰目調達 |
一八六五(慶応一) | 松山侯へ御用銀一三三貫目調達
津山侯へ御用銀三○貫目調達 紀州侯へ御用銀一○○貫目調達 宮津侯へ御用銀四五貫目調達 田安侯へ御用銀三○貫目調達 浜松侯へ御用銀二八貫目調達 津山侯へ御用銀三○貫目調達 西尾侯へ御用銀二五二貫目調達 番頭一二人、御用金二二○両上納(長州征伐のため) |
一八六六(慶応二) | 幕府、長州征伐のため御用金一二五○両上納
西尾侯へ御用銀二二○貫目調達 津山侯へ御用銀三○貫目調達 芸州侯へ御用銀五○貫目調達 |
一八六七(慶応三) | 前橋侯へ御用銀四○貫目
宮津侯へ御用銀六○貫目 土浦侯へ御用銀五○貫目 松山侯へ御用銀一三六○貫目(長州征伐のため) 津山侯へ御用銀一二○貫目 芸州侯へ御用銀三○貫目 |
また泉屋住友の菩提寺で、先祖の墓が並ぶ、庭の美しい実相寺(現在の近鉄上六の北、西鶴の墓の東むかい)にも寄進し、その第一四世和尚の性誉上人が、「天保八酉年、米穀諸色高直之節、大塩平八良二月十九日天満ヨリ焼立大火ト相成、当地益々諸色高直困窮之所江住友甚次良殿ヨリ銀五百目助成二預り為報謝」(同寺所蔵過去帳)としるしていることも、ここでつけ加えておこう。
一八三八(天保九)年はまた大坂に緒方洪庵の適塾がうまれた年であるが、翌一八三九(天保一○)年は、〃蛮社の獄〃で渡辺崋山・高野長英らが弾圧された年であった。こうしたなかで泉屋「住友家ノ財計頗ル困難ニ赴キ、万事不取締ニテ銅山ニモ得益少ク、年々経費不足ニテ如何ニモ為シ難」き状況がつづき、支配人として鷹藁源兵衛は「大ニ恢復ニ尽力」したが、結局この年病気で辞任を申出る始末であった(なお源兵衛は、すでに天保六年=一八三五年に、浜松侯〔水野越前守忠邦〕の名代として三人扶持が加増され、同年、泉屋住友でも支配副役にとりたてられていることを、ここでとくに指摘しておきたい。詳しくは後述。次号参照)。だが、家長の友聞(ともひろ)につよく慰留され、「今改革セサレバ主家ノ存亡ニ関シ黙止難」い、として一一月一三日付で源兵衛は次のような熱烈な改革意見書を提出している−。
謹奉言上候 一 近年六ケ敷峙節柄、殊に第一の御家産予州御銅山出銅相衰ヘ、年々夥敷御 損銀有之、既ニ昨戌年中勘定百五拾貫目余不足二相成、此上減銅仕候得ハ、 弥御不足に可相成、就てハ本家勘定も不相立、昨戌年中百五拾貫目不足相 成、是全諸家様方御仕法等にて自然と利受相減、利払相嵩候故に御座候、 并吹所迄も不勘定に相見ヘ、是等ハ私共不案内之儀に付、巨紬の訳ハ不弁 候得共、昨戌年精帳の表にてハ格別御益共不相覚候、且江戸浅草御店迚も 打続臨時出金多、是迄貢金二千両宛相廻候儀も難出来様相成、其上近年米 価高直に従ひ、御上向調達金も過当に相成候故、此度追々米直段下落仕候 得ハ自然と勘定も難相立道理に押移可申、彼是算考仕候得ハ年々夥敷不利 に相当り、其上当年より西尾御講方年々百三拾貫目余、五ケ年間返済相廻 り、弥以追年御勘定六ケ敷成行、毎春御米代上納の手当も追々術計尽果候 得ハ、往々如何可相成、此儀ハ旦那様一統に心痛仕候得共、懸念のみにて 打過候得ハ、終にハ御家の安危に抱り可申、乍去御倹約に於てハ最早勘弁 の仕方も無之、此上強く御省略被仰出候共、人気を崩し候のみにて、却て 御為筋不宜、夫よりハ只可然御仕法立の御賢慮不被為在候てハ、最早八九 分迄手後れ戦競の場に相成候間、老分始重役の者被為召出、格別の御評議 願度奉存候、且又近年店方不取締に相成、法令不相立、急度御改革無之て ハ、追々増長仕候、御上ニハ御存知不被為在候得共、近頃ハ新古の差別な く、何時にても、無断勝手に他行仕候風儀に相成、依て、役庭悉く無人之 事ハ折々有之、支配人も是を政道不仕事も無之、自然と用事も相怠り、第 一ハ不用心にも有之、既に一昨年の大変幸ひ北方角にて事済候故無故障候 得共、万一南辺にて箇様の変事有之候ハ、忽可及大事儀に御座候、是等ハ 常々其備立置不申てハ、其時ニ臨ミ後悔仕候ても不及事に御座候、只今の 如く人気崩れ有之てハ、大事の場に至り、身命を抛ち相働候者無之様成行 可申、臣ハ君の御手足に候ヘハ素より御哀憐厚候得共、御奥深被為在候故、 乍恐御目の不為届所も有之、其の為の御目代に被差置候、支配人なれ共法 令不相立時ハ、銘々侮気を抱き、自然と御名代の名目を亡ひ、御威光の薄 く成行道理に御座候、其本乱れて末治まらさると承り候得ハ、其元の本家 法令乱れ候得ハ、其末の諸店迄も政道難行届哉に奉存侯、是等の儀ハ如私 浅智短才の者今更不及申立候得共、追々増長士弥末治まらさる様成行候、 二葉の内に不刈ハ斧を用ゆるの諺に相当候間、是又御賢慮願度奉存候、余 ハ御推察被為在候様奉願上候以上 亥十一月十三日 源 兵 衛
これによると、別子、立川銅山の損失も一八三八年は一五○貫目あまり(本誌第五号掲載の表によれば、一五八貫五一九匁となっている)に達し、本家勘定も一五○貫目不足となり、江戸浅草店も、臨時出費多く、「貢金二千両宛相廻候儀も難出来様相成」り、このまま「懸念のみにて打過候得ハ、終にハ御家の安危に」かかる事態となる。しかし、「倹約に於てハ最早勘弁の仕方も無之」、これ以上節約しては「人気を崩」すだけで、老分はじめ重役たちを召集して「格別の御評議」のうえ、緊急に改革し、労働関係をひきしめる必要がある。
二年前の「大変」(大塩事件)は「幸ひ北方角にて事済」んだが今度「万一南辺にて箇様の変事有之候ハゝ」たちまち「大事におよぶことが予想され、いまその予防策を講じておかなければ「其時ニ臨ミ、後悔仕候ても不及」、ことにこのままでは「大事の場ニ至り、身命を抛ち相働候者無之様成行」く可能性がつよく、もし「本家法令乱れ候得ハ、其末の諸店迄も政道難行届」、と深刻に憂慮しているのである。
源兵衛のこの危機感にみちた意見書をよんだ友聞は、さっそく老分の連蔵と相談のうえ、あらためて源兵衛に具体的な意見書を提出させることとした。そこで、源兵衛がしたためた「愚存書」は次のとおりであった−。
愚 存 書 源 兵 衛 仕法立の儀ハ、差当り愚存も無御座、乍去聊にても存付候儀を不申ハ却て 不忠の至に御座候間、誠に愚存奉申上候間、万一思召に相叶侯義も有之歟、 又ハ老分中存意に符合仕候事も有之候ハゝ、御取上被遊、若齟齬仕候時ハ、 御用捨被遊候様、奉願上候 一 近来御屋敷様方御仕癖不宜、兎角音信の義理を掛、大金の調達を貪る工夫 にて、表ハ
を以懇意を結ひ、内心ハ至て簿情に御座候、適御実意の御方 も有之ても何れハ御転役被成候故、跡役の御方ハ何の義理も無之、亦々無 体の御頼談被仰掛、不承引の時ハ御仕法被仰出、夫を厭ひ候てハ追々深入 に相成、後にハ元利共に失ひ候様に成行申候、依て松山様及御扶持方等も 被仰付有之方ハ格別、其余の御屋敷方ハ、総て御名代勤に被仰付、可成丈 旦那様方御直勤不被遊様相成候ハゝ、自然と義理合も簿く候故、過分の御 頼談も難被仰様押移可申哉、勿論新規御屋敷御舘入等の儀ハ幾重にも御断 申上、手を縮め候工夫に仕度、追々手広に相成候程御物入多、且御附合も 相増、自然と雑費相掛候道理に御座候、是等の儀御賢慮願度奉存侯 一 近年御役所掛殊外御繁務に相成、一入御苦労も相増、就てハ御心配も被為 在侯御儀と奉存候、尤右等ハ御内意事の御都合にハ至極宜候得共、折々御 懇命深被仰付、終にハ御交代等の節御差支之御用弁なと御頼相成候方も有 之、左様の時にハ難遁ものに御座候、勿論御在阪中ハ御取扱厚御外聞にも 宜敷候得共、御帰府後ハ追々御縁遠成行、兎角速に御返金ハ難出来候、是 又敬して遠かる時ハ自然と義理合も薄く候故、御頼談等も難被仰掛様押移 可申哉に奉存候、併御用方の御勤向も御座候故、夫ハ御省略も可被為在と 奉存候 一 吹所勘定、近来不宜様相覚ヘ、全く予州の響其外買入物不仕故、自然と御 益筋薄相成候儀と奉存候得共、元来久々御執調子無之故、本家の如く省略 も不行届様相見候間、取調子方被仰付可然乎と奉存候 一 店方取締の儀ハ、別紙之通改て被仰付度、且出精不出精の者ハ賞罰の御沙 汰被仰付度、左候得ハ向後一統の励にも相成、精実に相勤候得ハ、御用弁 も宣自然と銘々心を付候得ハ、失墜等も無御座、都て詰る所ハ御省略の筋 にも可相成と奉存候
このなかで源兵衛は、大名貸引締めの件や御役所掛の件、吹所勘定調査の件、店名取締りなど労務管理強化の件等々、四カ条を提起し、大塩事件による、なまなましい衝撃を最大限に利用しつつ、泉屋住友の〃家事改革〃をおしすすめていくこととなる。それらは、ひろく一般庶民に対して、泉屋住友の経営不振、赤字宣伝となり、もはや再び打ちこわしにあわずにすむだけでなく、泉屋の従業負に対しては、合理化と首切り、産銅高の増大を強制し、幕府に対しては、御用銅買上げ値段の増額と御手当銀の支給その他の優遇策による純益増大への転換、そして当時なりの〃財閥転向〃を通ずる資本蓄積の強行−等々のために最大限に活用されるわけである