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2002.3.7修正
1999.7.22

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大塩の乱関係論文集目次


大塩事件と泉屋住友の〃家事改革〃(下)

−天保改革前夜を中心に−

中瀬 寿一

『大塩研究 第10号』1980.10より転載

◇禁転載◇



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五、泉屋住友の〃家事改革〃の開始

 こうして泉屋住友の〃家事改革〃が開始され、一八三九(天保一○)年一二月二日には、「転役賞罰」がおこなわれ、「掛札条目」改革も、次のとおり実施にうつされ、支配人・老分その他の職務が明らかにされるにいたった。すなわち−

 この結果、「月々一・六日には自分も立会、家事其外用談向、老分・支配人共可致談合、都て相談向之儀ハ一・六の日に溜置、立会の上銘々存寄申立、其宜き所を以て取極候様致度候事」というように定期的な会議によってきめられることとなった。また「以前ハ内宅と申事ハ極秘密」のことであったが、このころ内宅をもち、在勤中に勝手に「下宿」する者もふえたのに対しきびしく警告し、元締は、「中二日位置き夕方より休息」、役頭も「中三日位置き」同じく休息してもよい(ただし、支配方に届出る)こととなった。

 また役頭・格式が定められ、「精勤次第昇級」し、「不勤ならハ役下」げもあると、いわば信賞必罰・能率主義の勤務評定が採用され、吟味方・大払方・家賃方・小払方・買物方・普請方・台所方の各係が設置され、その責任者の地位も明確にされた。銅吹所についても、吹所・差配人,銭払方・炭方・その他が区分された。また病気のときのことや、役頭以下の衣服のこと、子供の行儀のこと、支配人の勤務評定のことなどもとりきめられた。

 さらに「諸役庭勤方心得書改正」が、次のとおりおこなわれ、吟味方・大払方・家賃方・不信方・小払方・買物方・台所方・書翰方・家賃方助役・小払方助役などの任務と、あらためて指示された−。

 一八四○(天保一一)年は〃別子開坑一五○年〃にあたり、五〜六月に友聞の息子の万太郎(友視)が別子におもむき、稼人六二四人、床屋下財二八五人、炭方稼人四八人、杣方一○○人、新居浜日雇船頭八二人、中宿荷持出入方二五○人などに別個に酒を響応し、一一月には「祝事」をして、「分家別家其他縁故アル方へ蒸物」がおくられた。なおこの年正月には末家の泉星卯兵衛が家事不取締りとなったため、手代の義助や覚兵衛を派遣し、家事取締りを強化している。

 また同年未、鷹薬源兵衛は再三病気を理由に支配役の辞職を申しでている。そもそも源兵衛にとっては、「既ニ諸事改革ハ出来タレ共、唯表面ノミニテ、友聞君始メ真実二改革ヲ行フヘキ決心モ未タ確定セス、依テ何程尽力スルモ其功ナキモノト見認メ辞退」(同巻之一九)しようとしたのであったが、許されず、そこで次のような「取調書」を提出し、本年も製銅損失は大きく、「最早立直り候儀モ不相覚、一年ニテモ早ク勘弁不仕候テハ不安心」だとして、「格別ノ評議ヲ以テ改革」すべきだと力説したのであった。

 さらに、(1)「銅山へ本家より下銀不仕、銅代銀、御手当銀丈、予州表へ差下」し、それをもって「銀山仕入并諸雑費」をまかなうよう別子・立川銅山の〃独立予算制〃の確立を提起し、(2)「出銅不進」により、「御定数滅相願立聞済無之候ハハ、休山」するよりほかないこと、(3)別子・立川銅山がいまや「古鋪にて雑費多く」、このため幕府に対して強力に「拝借金相願候事」などを忠言したのであった。なお源兵衛は、この年の一一月に泉屋住友から老分日勤を命じられ、家督銀(銀一二貫目)、普請料(二貫目)、諸道具料(二貫目)、婚礼賄料(一貫五○○目)、世帯料(二貫目、三ケ年間)などを与えられ、「此上共精勤」を期待されている。そしてこの翌年に源兵衛は、安堂寺町松屋町一丁東に家屋敷を購入しているが、このときにも、銀二二貫目を泉屋から貸与されている。

 これまで鷹藁源兵衛については、広瀬宰平の名にかくれれてあまり知られていなかったが、幕末・維新前夜において彼のはたした役割はまことに大きく、広瀬宰平をはるかに上まわるものであり、いわゆる〃家宰政治〃 〃番頭政治〃確立の功労者、〃家事改革〃の推進者といってもよく、天保改革以降、幕府をむこうにまわしてのその役者ぶり、政商的手腕と面従腹背ぶりは大したものであり、これについてはのちにもっと明らかにしていきたいと思う。

 六、幕府権力と泉屋住友の癒着状況 −天保改革の「プルジョア的側面」−

 幕府が天保改革の布令を出し、「自今諸制享保度・寛政度に法るべき」(前掲『大阪市史」第二、五三二ページ)ことを告げた一八四一(天保一二)年五月一五日直後には、泉屋住友は待ってましたとばかりに息子の万太郎(友視)を別子銅山に下向させ、同月中に、はやくも「倹約法」を申し渡し、すみやかに対応しているのはきわめて興味深い。その具体的内容は、別に詳しくのべることとして、ここでは、もう少し幕藩体制と泉屋住友の癒着状況をふりかえり、水野忠邦による天保改革の「限界」、いいかえればそのいわば「ブルジョア的側面」も若干明らかにしておきたいと思う。  なにしろ大坂城代や両町奉行は、しばしば泉屋の鰻谷銅吹所を巡見に訪れており、大変なもてなしをうけていた、と推察されるのである。げんに大塩事件直前の二月一四日には、両町奉行の跡部山城守良弼・堀伊賀守利堅が吹所を訪れ、一二月には、城代の間部下総守詮勝も見分にきている。

 いま文政〜天保期における城代・町奉行などの泉屋銅吹所訪問その他、幕府権力との癒着をしめす重要な史実を、住友家史『垂裕明鑑』を中心にひろってみると、次のようになる−。 

表2 大坂城代・町奉行
(*この表についてはわかりやすくため、数字は算用数字に改め、就職年・退職年の書き方は変更しました。管理人)

就職年 城  代 退職年
文化1229 松平右京太夫輝延 文政5
文政5 松平周防守康任 13
13 水野左近将監忠邦 11 23
  9  11 23 松平伯耆守宗発 11 11 22
11 11 22 太田摂津守資始 天保2 25
天保2 25 松平伊豆守信順 11
11 土井大炊頭利位 16
16 堀田備中守正篤
  8 20 間部下総守詮勝 11
  9 11 井上河内守正春 11 11
11 11 青山因幡守忠良 弘化元 1228
弘化元 12 28 松平和泉守乗全 18
18 松平伊賀守忠優 嘉永元 10 18
嘉永元 1018 内藤紀伊守信親
土屋采女正寅直 安政5 1126
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就職年東町奉行退職年
文化13彦坂和泉守紹芳 文政3 10 17
文政3 11 15 高井山城守実徳 天保元 10 27
天保元 11 曾根日向守次孝 28
28 戸塚備前守忠栄
大久保讃岐守忠実
24 跡部山城守良弼 10 10
10 10 徳山石見守秀起 13
  13 水野若狭守忠一 弘化4
弘化4 20 柴田日向守康直 嘉永4 26
嘉永4 24 川路左衛門尉聖謨 10
10 佐々木信濃守顕発 安政4 24

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就職年西町奉行 退職年
文化1212 荒尾但馬守成章文政317
内藤隼人正矩佳1228
文政12 15 新見伊賀守正路天保210
天保210 久世伊勢守広正 20
矢部駿河守定謙 20
11堀伊賀守利堅12 20
1224 阿部遠江守正蔵14 24
14 久須美佐渡守祐明 弘化元 10 24
弘化元 12 27 永井能登守尚徳 嘉永2 11 28
嘉永211 中野石見守長風 * 16
24 本多加賀守安英 28
19 石谷因幡守穆清 安政元 20

(『大阪市史』第二、五二七ページ、七三六ページ)
管理人註 『柳営補任 5』 では就任は12月。

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表3
 大塩事件・天保改革前後における泉屋住友と大坂城代両町奉行・長崎奉行および老中(とくに水野忠邦)との密接な関係
(*この表についてはわかりやすくするため、年月は算用数字に改めました。管理人)
 
1821年
文政4
10月長崎奉行=間宮筑前守より紋付上下、銀二枚下賜。
1822
文政5
11月老中=松平和泉守、吹所見分。
1825
文政8
3月大坂城代=松平周防守康任、江戸で扶持米(十人扶持)下賜、「酒肴ヲ賜フ」。
5月寺社奉行=水野左近将監、江戸で袷一着、麻絹上下、十人扶持下賜、「料理被下」。
6月内藤備後守(西町奉行?)、紋付上下および「酒肴ヲ賜フ」、さらに三人扶持、水野左近将監より五人扶持下賜。
1826
文政9
7月長崎奉行=本多佐渡守より御用金千両の申入れとともに、紋付上下下賜さる。
11月水野左近将監(越前守)より、紋付時服白銀五枚、 麻上下賜わる。
1827
文政10
4月松平周防守老中栄転により、継上下、白銀七枚など下賜。
6.2大阪城代=松平伯耆守、吹所見分。
1828
文政11
10月長崎奉行=大草能登守より上下一具、銀一枚など下賜。
1829
文政12
6.22大坂城代=太田備後守へ太田摂津守資始?)、吹所見分。
9.11東西町奉行=新見伊賀守、高井山城守ら吹所見分。
9月豊後町泉屋甚次郎へ十人両替。
11月長崎奉行=本多佐渡守より上下一具、銀一枚下賜。
1830
天保1
閏3月大坂城代=太田備後守より十人扶持。
1831
天保2
3月東町奉行=曾根日向守、吹所見分。
11月城代=松平伊豆守(吉田侯)吹所見分。
1833
天保4
4月城代=松平伊豆守、三五人扶持下賜、御用金五○貫目調達。(鴻池・加島屋、豊後町分家とも四家 で二○○貫目調達依頼)
1834
天保5
1月淀川その他の川浚手浚手伝につき褒賞として銀二五枚下賜、東町奉行科戸塚備前守忠栄、西町奉行科矢部駿河守定謙より申渡し。
10.1城代=土井大炊頭利位、町奉行=矢部駿河守ら、吹所見分。
11月松平和泉守より、蔦唐草盃下賜。
1835
天保6
5月吉田侯(松平伊豆守)に銀五○貫目調達。
7月浜松侯(水野越前守)より、御用金五○○○両依 頼、 一一○貫目調達(鴻池、米平とも合計二○○貫目調達)、これまで三十人扶持のところへ二十人扶持加増、名代の源兵衛にも五人扶持のうえ三人扶持加増。
1836
天保7
5月吉田侯に銀五○貫目調達(一○月にも五○貫目、一一月扶持米加増、一二月凶作 で五○貫目調達
7.12西町奉行=跡部山城守良弼・矢部駿河守定謙ら、吹所見分。
12月浜松侯(水野越前守)に津波凶作による銀六○貫目調達。
1837
天保8
2.14両町奉行=跡部山城守、堀伊賀守、吹所見分。
10月吉田侯へ一三○貫目および六○貫目調達。
12月金銀引替御用申渡さる、(江戸にて)。
12月大坂城代=間部下総守詮勝、吹所見分。
1838
天保9
閏4月江戸西城火災、吹銅一○万斤献納。
8.23大坂城代=井上河内守、吹所見分。
9.11 吹直銀引替御用命ぜられる。
    浜松侯領内凶作、鴻池、加島屋その他とともに二二五貫目調達。
1839
天保10
2月浜松侯一万石加増につき、入費手当として用達組合一一人へ銀三五○貫目依頼あり、泉屋住友より六○貫目調達。
12.11両町奉行=堀伊賀守、徳山石見守ら、吹所見分。
1840
天保11
11月浜松侯より名代=源兵衛ヘ二人扶持加増。吉田侯へ一三○貫目調達。(旧来の分九九貫目返却)
1841
天保12
4.27城代=青山下野守、吹所見分。
7月浜松侯、用達一一人へ金六○○○両依頼、住友六○貫目調達。(計四五五貫目)
9月吉田侯へ一七○貫目調達。
11月両町奉行=阿部遠江守、徳山石見守ら、吹所見分。
1842
天保13
4月江戸西城普詩に吹銅献納、賞誉として銀四○枚下賜、古銅銀吹分につき吹屋仲間へ銀五枚賞賜。
8.9長崎奉行=伊沢美作守、吹所見分。
9月西町奉行=阿部遠江守、水野若狭守ら、吹所見分。
9月一朱銀引替御用命ぜられる。
11月浜松侯、日光御社参供奉入費につき銀四二一貫目依頼、組合として二五○貫目引受、うち住友三五 貫目調達。
1843
天保14
9月大坂城大修造のため、大坂町人一五五人に一五五万五五○○両献納させる。
    住友吉次郎、泉屋甚次郎七五○○両づつ、泉屋六郎右衛門一万両、その他鴻池善右衛門、加島屋久右衛門、加島屋作兵衛ら一○万両づつ、三井八郎右衛門五万両、三井元之助二○○○両。

   (より詳しくは、中瀬編著『住友財閥形成発展史年表』近刊予定*、参照)


 それはともかく、一八三五(天保六)年七月には、浜松侯からの御用金依頼(五○○○両)があり、泉屋住友は鴻池や米屋平右衛門とともに合計銀二○○貫目を調達し、名代の鷹藁源兵衛には三人扶持が加増されている。しかも同年秋に、源兵衛が支配副役へと、泉屋のなかでも昇進していっているのが、とくに注目にあたいする。あくる一八三六(天保七)年には水野越前守の浜松領内で津波不作がおこり、泉屋は銀六○貫を調達している。大塩事件勃発の翌一八三九(天保一○)年一月にも泉屋鴻池・加島屋その他で銀二二五貫を調達し、年末には万石加増による入用のため銀六○貫を調達している。

 しかも同月泉屋住友では源兵衛を支配役へと昇進させている。そればかりか一八四○(天保一一)年には浜松侯から源兵衛は二人扶持を加増されている。こうしてみてくれば、浜松侯=水野越前守忠邦と泉屋住友=鷹藁源兵衛の結びつきが、たとえ直接的でないにせよ、かなりあざやかに浮びあがってくるのではないだろうかと思う。

 こうして一八四一(天保一二)年五月一五日の天保改革の布令と同時に、泉屋住友の当主友聞(ともひろ)の息子・万太郎(友視(ともみ))の別子銅山出張、倹約法の申渡しとなるのである。天保改革開始直後の七月には泉屋は、はやくも浜松侯へ六○貫目、翌一八四二(天保一三)年一一月には同じく三五貫目を調達し、さらに水野失脚直前の一八四三(天保一四)年七月には、大坂城大修造のために、住友吉次郎・泉屋甚次郎らが七五○○両づつ、泉屋六郎右衛門が一万両(その他、鴻池善右衛門や加島屋久右衛門・加島屋作兵衛らが、それぞれ一○万両、辰己屋久右衛門・千草屋宗十郎らが各六万両、三井八郎右衛門・炭屋安兵衛・平野屋五兵衛らが各五万両、そして総計一五五万五五○○両)を献金しているとみられるのである。(「大坂城誌」中 四一四〜四一八ぺージ)

 以上を要するに、株仲間の解散が天保改革の重要な一環をなすものであったにもかかわらず、両替屋株がその停止の除外となった根拠が明らかとなるばかりでなく、天保改革のもつ「限界」ないし、ある意味での「ブルジョア的」側面を−たとえ、ささやかな要因であるとしても−みおとしてはならない。この点の再検討の必要があると痛切に考えられるのである。

〈付記〉
 このあと、「天保改革と泉屋住友の改革」がつづくのであるが、紙数の関係 上それは別稿でひきつづき明らかにしていくこととしたい。ぜひご教示ご批 判をおねがいする次第である。なお本稿執筆にさいしては、西尾治郎平氏を はじめ、酒井一・佐古慶三・安藤重雄・藤本篤・渡辺武・内田九州男・相蘇 一弘の各氏の御教示を得た。

                    (大阪産業大学)



大塩事件と泉屋住友の〃家事改革〃 (上)

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