中瀬 寿一
『大塩研究 第10号』1980.10より転載
目 次 一、はじめに 二、大塩事件前後における泉屋住友の貸家所有と家守支配 三、一八三七(天保八)年三月における泉屋の形式的改革 四、鷹藁源兵衛の改革意見(以上第九号所収) 五、泉屋住友の〃家事改革の開始〃(以下本号) 六、幕府権力と泉屋住友の癒着状況−天保改革の「ブルジョア的側面」−
こうして泉屋住友の〃家事改革〃が開始され、一八三九(天保一○)年一二月二日には、「転役賞罰」がおこなわれ、「掛札条目」改革も、次のとおり実施にうつされ、支配人・老分その他の職務が明らかにされるにいたった。すなわち−
定 一 支配人ハ家の政事を掌り、表方にて主人の眼の不届所を為目代置候儀に付、 其身厳重に相守候儀ハ勿論、人の善悪相糺少も依沽の沙汰無之様、明白に 致し、且精勤有之者ハ其旨申立、聊にても可及褒美、不勤有之者ハ、是又 急度咎申付、或ハ役下可申付、賞罰共可及沙汰事 一 老分の者ハ日々本家へ可致出勤、用向無之時ハ暫時にて引取可申、尤支配 人用向并自用等にて他出致候節ハ申合居残可申候事 但日勤差免候老分ハ一六日に可致出勤事 一 月々一六日にハ自分も立会、家事其外用談向老分支配人共可致談合、都て 相談向之儀ハ一六の日に溜置、立会の上銘々存寄申立、其宜き所を以て取 極候様致度候事 一 兼て役場不明様申渡置候得共、近年猥に相成無断他行致、剰翌日迄も不帰 者も有之、且帰店致候ても役庭に不相詰、或ハ二階等へ引籠り、自然と用 事も相怠り、向後ハ支配人へ無断他行難相成候間、其段急度可相心得事 一 内宅有之者にても、在勤中ハ勝手に下宿不相成候、以前ハ内宅と申事ハ極 秘密に候事故、適ならてハ休息に帰り候事無之処、近頃ハ他行多候故、店 方無人に相成、世間躰も不宜、第一ハ不用心にて有之間、是又以来ハ不相 成候、併年齢に依て少々宛の差別も可有之事故、改て左の通相定置候事 元締 中二日位置き夕方より休息可致 但無拠儀有之時ハ格別之事 役頭 中三日位置き右同断 以下ハ遠慮可有之、尤邂逅にハ、相断休息可致、且無拠義有之共奉公 の身分にてハ、成丈け可致遠慮事 右何れも支配方へ相届不申候てハ、暫にても勝手に他行不相成、若又支配 方不詰合時ハ、次役の者へ相断可申、尤無拠義有之とも無人の節ハ可致遠 慮事 一 是迄定置候事に候得共、役頭并格式、左の通相定候間、精勤次第追々昇級 可申付候、不勤ならハ役下可申付間、其旨可相心得事 吟味方 元締 大払方 元締 家賃方 役頭 小払方 役頭 買物方 以下略之 普請方 台所方 右之通役場順f申付候、尤書方ハ其者に依て、手跡の出来不熟も可有之事故、 役順の外に立置出精次第何れも役庭へ昇役可申付、并諸役場助役の間ハ其者 の器量試候事故、是又役順の外にて出精次第昇役可申付事 一 吹所ハ勤方も違ひ、不案内にてハ便利悪敷事も有之候間、吹所にて昇役可申 付候、尤席順ハ是迄之通本家と見競候様可致候、払方以下の者ハ其節の繰合 に依本家へも交代申付候事 吹所差配人 元締 銭払方 役頭 炭方 以下吹所掛板の通可相心得、尤転役之節ハ炭方迄も本家にて申渡候事 一 当病の節ハ、庭座敷又ハ二階等にて養生可致、尤大病の節ハ時宜に依り可致 下宿、且病気之節ハ互に介抱致食事等台所より心を付可申事 一 著用物役頭以下ハ紬限の事、袴ハ絲縞葛布等可相用事 一 子供算筆行儀不宜、来客の節不取扱に相成見苦敷候間、台所方ハ勿論、於店 方も精々可致教諭事 一 支配人勤方善悪ハ、老分相糺可申付事 右之通堅相守一統可致精勤事 天保十己亥年十二月
この結果、「月々一・六日には自分も立会、家事其外用談向、老分・支配人共可致談合、都て相談向之儀ハ一・六の日に溜置、立会の上銘々存寄申立、其宜き所を以て取極候様致度候事」というように定期的な会議によってきめられることとなった。また「以前ハ内宅と申事ハ極秘密」のことであったが、このころ内宅をもち、在勤中に勝手に「下宿」する者もふえたのに対しきびしく警告し、元締は、「中二日位置き夕方より休息」、役頭も「中三日位置き」同じく休息してもよい(ただし、支配方に届出る)こととなった。
また役頭・格式が定められ、「精勤次第昇級」し、「不勤ならハ役下」げもあると、いわば信賞必罰・能率主義の勤務評定が採用され、吟味方・大払方・家賃方・小払方・買物方・普請方・台所方の各係が設置され、その責任者の地位も明確にされた。銅吹所についても、吹所・差配人,銭払方・炭方・その他が区分された。また病気のときのことや、役頭以下の衣服のこと、子供の行儀のこと、支配人の勤務評定のことなどもとりきめられた。
さらに「諸役庭勤方心得書改正」が、次のとおりおこなわれ、吟味方・大払方・家賃方・不信方・小払方・買物方・台所方・書翰方・家賃方助役・小払方助役などの任務と、あらためて指示された−。
諸役庭勤方心得書改正、左之通掛板相渡 一 何事に不寄、不益の筋見聞次第、申達 吟味方 候義ハ勿論、諸買物時々無懈怠相改、 筆紙墨に至まて無益の失墜無之様可致、 且本場台所無人ならさる様心を付、別 て火の用心等大切に致させ可申候 一 穴蔵金銀預り候儀ハ不及申、両替屋振 大払方 手形、印形預吟味の上押切致、諸方取 替銀、証文預り、元利期月取立等相調 子、且小払方溜銀時々請取可申候 一 借家明塞月々相改、家賃滞候ハゝ時々 家賃方 催促致、普請方工数顔付并諸買物勘弁 普請方 相尽、日々通付入吟味方改受、無益の 人夫相省、溜金銀銭役庭に不差置、其 時々小払方へ相渡、月々勘定仕立改受 可申候 一 銀子諸払時々帳面付入預り、銀拾貫目 小払方 内外溜候節ハ大払方へ相渡、入用二付 請取毎季勘定仕立改受可申、且内分取 替等の義ハ決して不相成候 一 諸買物相糺無益の品相省、諸品直段承 買物方 り合不益無之様致、日々通に付入させ、 吟味方改受可申、其外役庭に相詰、出 入の者に心を付、且台所向繁多の節ハ 倶に心添可致候 一 世帯入用買物直段相糺、日々通帳付入、 台所方 吟味方改受、炭薪等に至る迄心を用ひ、 泉蔵諸道具紛失不致様気を付可申、且 此度規式帳相改候間向後其通相守、其 時々吟味方談合執計可申、其外子供行 儀算筆稽古致させ、并下男女勤方相糺 出入の節ハ心を付火の用心等大切に可 致候 一 都て贈答物、時々進物帳に付入、年頭 書翰方 暑寒其外定例物等、其時々心掛、無失 念執計且紙類失墜無之様、心を用ひ可 申候 一 勤方本役に相準し候儀勿論、借家普請 家賃方 等有之節ハ時々見廻り家賃滞其時々取 助役 立可申候 一 勤方本役に相準し候義勿論、就土蔵諸 小払方 道具帳面類出入等入念に取扱、且小遣 助役 帳無益の買物無之様、心を付可申候 右之通掛板諸役庭へ相渡候事
一八四○(天保一一)年は〃別子開坑一五○年〃にあたり、五〜六月に友聞の息子の万太郎(友視)が別子におもむき、稼人六二四人、床屋下財二八五人、炭方稼人四八人、杣方一○○人、新居浜日雇船頭八二人、中宿荷持出入方二五○人などに別個に酒を響応し、一一月には「祝事」をして、「分家別家其他縁故アル方へ蒸物」がおくられた。なおこの年正月には末家の泉星卯兵衛が家事不取締りとなったため、手代の義助や覚兵衛を派遣し、家事取締りを強化している。
また同年未、鷹薬源兵衛は再三病気を理由に支配役の辞職を申しでている。そもそも源兵衛にとっては、「既ニ諸事改革ハ出来タレ共、唯表面ノミニテ、友聞君始メ真実二改革ヲ行フヘキ決心モ未タ確定セス、依テ何程尽力スルモ其功ナキモノト見認メ辞退」(同巻之一九)しようとしたのであったが、許されず、そこで次のような「取調書」を提出し、本年も製銅損失は大きく、「最早立直り候儀モ不相覚、一年ニテモ早ク勘弁不仕候テハ不安心」だとして、「格別ノ評議ヲ以テ改革」すべきだと力説したのであった。
取 調 書 一、六拾貫目余 酉年(注、天保8)損銀 一、百七拾貫目余 戌年(注、天保9) 一、四百貫目余 亥年(注、天保10)損銀 子年(注、天保11)凡積算考 銅七拾二万斤 戌定数 内二万斤 拝借銅返納ニ付差引 四万斤 闕欠 差引六拾六万斤 此代銀九百弐拾貫五百六拾八匁 又弐百弐拾二貫目 御手当三口 合千百四拾二貫五百六拾八匁講銀高 内七百五拾貫目 当年下銀 米八千三百石代 四百三拾貫目 願通相成と見て 六十八万斤吹賃 六拾六貫目 吹所へ渡 七貫目 山手銀口銅代 拾二貫目 三田入用 二拾貫目 諸方雑費入高 合千二百八拾五貫目 出高 差引百四拾二貫目 損分 右之通当年モ損銀ト相覚ヘ、右様損銀相立チテハ所詮引合不申、年々出銅薄 ク成行最早立直り候儀モ不相覚、一年ニテモ早ク勘弁不仕候テハ不安心ニ奉 存、一応老分召出存意モ御聞被遊、其上私愚存モ奉申上候右二付源兵衛へ封 書ヲ以テ存寄可申出被(ママ)衛ヨリ意見申上ル事左ノ通 一 銅山へ本家より下銀不仕、銅代銀御手当銀丈予州表へ差下、夫を以銀山 仕入并諸雑費相賄候事 一 出銅不進の廉を以御定数滅銅願立聞済無之候ハゝ、休山仕候より外致方 無之事 一 古鋪にて雑費多く、新に取明け可仕旨申立、拝借金相願候事
さらに、(1)「銅山へ本家より下銀不仕、銅代銀、御手当銀丈、予州表へ差下」し、それをもって「銀山仕入并諸雑費」をまかなうよう別子・立川銅山の〃独立予算制〃の確立を提起し、(2)「出銅不進」により、「御定数滅相願立聞済無之候ハハ、休山」するよりほかないこと、(3)別子・立川銅山がいまや「古鋪にて雑費多く」、このため幕府に対して強力に「拝借金相願候事」などを忠言したのであった。なお源兵衛は、この年の一一月に泉屋住友から老分日勤を命じられ、家督銀(銀一二貫目)、普請料(二貫目)、諸道具料(二貫目)、婚礼賄料(一貫五○○目)、世帯料(二貫目、三ケ年間)などを与えられ、「此上共精勤」を期待されている。そしてこの翌年に源兵衛は、安堂寺町松屋町一丁東に家屋敷を購入しているが、このときにも、銀二二貫目を泉屋から貸与されている。
これまで鷹藁源兵衛については、広瀬宰平の名にかくれれてあまり知られていなかったが、幕末・維新前夜において彼のはたした役割はまことに大きく、広瀬宰平をはるかに上まわるものであり、いわゆる〃家宰政治〃 〃番頭政治〃確立の功労者、〃家事改革〃の推進者といってもよく、天保改革以降、幕府をむこうにまわしてのその役者ぶり、政商的手腕と面従腹背ぶりは大したものであり、これについてはのちにもっと明らかにしていきたいと思う。
幕府が天保改革の布令を出し、「自今諸制享保度・寛政度に法るべき」(前掲『大阪市史」第二、五三二ページ)ことを告げた一八四一(天保一二)年五月一五日直後には、泉屋住友は待ってましたとばかりに息子の万太郎(友視)を別子銅山に下向させ、同月中に、はやくも「倹約法」を申し渡し、すみやかに対応しているのはきわめて興味深い。その具体的内容は、別に詳しくのべることとして、ここでは、もう少し幕藩体制と泉屋住友の癒着状況をふりかえり、水野忠邦による天保改革の「限界」、いいかえればそのいわば「ブルジョア的側面」も若干明らかにしておきたいと思う。
なにしろ大坂城代や両町奉行は、しばしば泉屋の鰻谷銅吹所を巡見に訪れており、大変なもてなしをうけていた、と推察されるのである。げんに大塩事件直前の二月一四日には、両町奉行の跡部山城守良弼・堀伊賀守利堅が吹所を訪れ、一二月には、城代の間部下総守詮勝も見分にきている。
いま文政〜天保期における城代・町奉行などの泉屋銅吹所訪問その他、幕府権力との癒着をしめす重要な史実を、住友家史『垂裕明鑑』を中心にひろってみると、次のようになる−。
表2 大坂城代・町奉行
(*この表についてはわかりやすくため、数字は算用数字に改め、就職年・退職年の書き方は変更しました。管理人)
就職年 | 月 | 日 | 城 代 | 退職年 | 月 | 日 |
---|---|---|---|---|---|---|
文化12 | 4 | 29 | 松平右京太夫輝延 | 文政5 | 7 | 1 |
文政5 | 7 | 8 | 松平周防守康任 | 8 | 5 | 13 |
8 | 5 | 13 | 水野左近将監忠邦 | 9 | 11 | 23 |
9 | 11 | 23 | 松平伯耆守宗発 | 11 | 11 | 22 |
11 | 11 | 22 | 太田摂津守資始 | 天保2 | 5 | 25 |
天保2 | 5 | 25 | 松平伊豆守信順 | 5 | 4 | 11 |
5 | 4 | 11 | 土井大炊頭利位 | 8 | 5 | 16 |
8 | 5 | 16 | 堀田備中守正篤 | 8 | 7 | 9 |
8 | 7 | 20 | 間部下総守詮勝 | 9 | 4 | 11 |
9 | 4 | 11 | 井上河内守正春 | 11 | 11 | 3 |
11 | 11 | 3 | 青山因幡守忠良 | 弘化元 | 12 | 28 |
弘化元 | 12 | 28 | 松平和泉守乗全 | 2 | 3 | 18 |
2 | 3 | 18 | 松平伊賀守忠優 | 嘉永元 | 10 | 18 |
嘉永元 | 10 | 18 | 内藤紀伊守信親 | 3 | 9 | 1 |
3 | 9 | 1 | 土屋采女正寅直 | 安政5 | 11 | 26 |
就職年 | 月 | 日 | 東町奉行 | 退職年 | 月 | 日 |
---|---|---|---|---|---|---|
文化13 | 5 | 1 | 彦坂和泉守紹芳 | 文政3 | 10 | 17 |
文政3 | 11 | 15 | 高井山城守実徳 | 天保元 | 10 | 27 |
天保元 | 11 | 8 | 曾根日向守次孝 | 3 | 6 | 28 |
3 | 6 | 28 | 戸塚備前守忠栄 | 5 | 7 | 8 |
5 | 7 | 8 | 大久保讃岐守忠実 | 7 | 3 | 8 |
7 | 4 | 24 | 跡部山城守良弼 | 10 | 9 | 10 |
10 | 9 | 10 | 徳山石見守秀起 | 13 | 8 | 6 |
13 | 8 | 6 | 水野若狭守忠一 | 弘化4 | 9 | 3 |
弘化4 | 9 | 20 | 柴田日向守康直 | 嘉永4 | 5 | 26 |
嘉永4 | 6 | 24 | 川路左衛門尉聖謨 | 5 | 9 | 10 |
5 | 10 | 8 | 佐々木信濃守顕発 | 安政4 | 2 | 24 |
就職年 | 月 | 日 | 西町奉行 | 退職年 | 月 | 日 |
---|---|---|---|---|---|---|
文化12 | 8 | 12 | 荒尾但馬守成章 | 文政3 | 3 | 17 |
3 | 4 | 1 | 内藤隼人正矩佳 | 12 | 3 | 28 |
文政12 | 4 | 15 | 新見伊賀守正路 | 天保2 | 9 | 10 |
天保2 | 10 | 5 | 久世伊勢守広正 | 4 | 6 | 20 |
4 | 7 | 8 | 矢部駿河守定謙 | 7 | 9 | 20 |
7 | 11 | 8 | 堀伊賀守利堅 | 12 | 6 | 20 |
12 | 6 | 24 | 阿部遠江守正蔵 | 14 | 2 | 24 |
14 | 3 | 8 | 久須美佐渡守祐明 | 弘化元 | 10 | 24 |
弘化元 | 12 | 27 | 永井能登守尚徳 | 嘉永2 | 11 | 28 |
嘉永2 | 11 | 中野石見守長風 | * 3 | 5 | 16 | |
3 | 8 | 24 | 本多加賀守安英 | 5 | 4 | 28 |
5 | 5 | 19 | 石谷因幡守穆清 | 安政元 | 5 | 20 |
1821年 文政4 | 10月 | 長崎奉行=間宮筑前守より紋付上下、銀二枚下賜。 |
1822 文政5 | 11月 | 老中=松平和泉守、吹所見分。 |
1825 | 3月 | 大坂城代=松平周防守康任、江戸で扶持米(十人扶持)下賜、「酒肴ヲ賜フ」。 |
5月 | 寺社奉行=水野左近将監、江戸で袷一着、麻絹上下、十人扶持下賜、「料理被下」。 | |
6月 | 内藤備後守(西町奉行?)、紋付上下および「酒肴ヲ賜フ」、さらに三人扶持、水野左近将監より五人扶持下賜。 | |
1826 文政9 | 7月 | 長崎奉行=本多佐渡守より御用金千両の申入れとともに、紋付上下下賜さる。 |
11月 | 水野左近将監(越前守)より、紋付時服白銀五枚、 麻上下賜わる。 | |
1827 文政10 | 4月 | 松平周防守老中栄転により、継上下、白銀七枚など下賜。 |
6.2 | 大阪城代=松平伯耆守、吹所見分。 | |
1828 文政11 | 10月 | 長崎奉行=大草能登守より上下一具、銀一枚など下賜。 |
1829 文政12 | 6.22 | 大坂城代=太田備後守へ太田摂津守資始?)、吹所見分。 |
9.11 | 東西町奉行=新見伊賀守、高井山城守ら吹所見分。 | |
9月 | 豊後町泉屋甚次郎へ十人両替。 | |
11月 | 長崎奉行=本多佐渡守より上下一具、銀一枚下賜。 | |
1830 天保1 | 閏3月 | 大坂城代=太田備後守より十人扶持。 |
1831 天保2 | 3月 | 東町奉行=曾根日向守、吹所見分。 |
11月 | 城代=松平伊豆守(吉田侯)吹所見分。 | |
1833 天保4 | 4月 | 城代=松平伊豆守、三五人扶持下賜、御用金五○貫目調達。(鴻池・加島屋、豊後町分家とも四家 で二○○貫目調達依頼) |
1834 天保5 | 1月 | 淀川その他の川浚手浚手伝につき褒賞として銀二五枚下賜、東町奉行科戸塚備前守忠栄、西町奉行科矢部駿河守定謙より申渡し。 |
10.1 | 城代=土井大炊頭利位、町奉行=矢部駿河守ら、吹所見分。 | |
11月 | 松平和泉守より、蔦唐草盃下賜。 | |
1835 天保6 | 5月 | 吉田侯(松平伊豆守)に銀五○貫目調達。 |
7月 | 浜松侯(水野越前守)より、御用金五○○○両依 頼、 一一○貫目調達(鴻池、米平とも合計二○○貫目調達)、これまで三十人扶持のところへ二十人扶持加増、名代の源兵衛にも五人扶持のうえ三人扶持加増。 | |
1836 天保7 | 5月 | 吉田侯に銀五○貫目調達(一○月にも五○貫目、一一月扶持米加増、一二月凶作 で五○貫目調達 |
7.12 | 西町奉行=跡部山城守良弼・矢部駿河守定謙ら、吹所見分。 | |
12月 | 浜松侯(水野越前守)に津波凶作による銀六○貫目調達。 | |
1837 天保8 | 2.14 | 両町奉行=跡部山城守、堀伊賀守、吹所見分。 |
10月 | 吉田侯へ一三○貫目および六○貫目調達。 | |
12月 | 金銀引替御用申渡さる、(江戸にて)。 | |
12月 | 大坂城代=間部下総守詮勝、吹所見分。 | |
1838 天保9 | 閏4月 | 江戸西城火災、吹銅一○万斤献納。 |
8.23 | 大坂城代=井上河内守、吹所見分。 | |
9.11 | 吹直銀引替御用命ぜられる。
| |
1839 天保10 | 2月 | 浜松侯一万石加増につき、入費手当として用達組合一一人へ銀三五○貫目依頼あり、泉屋住友より六○貫目調達。 |
12.11 | 両町奉行=堀伊賀守、徳山石見守ら、吹所見分。 | |
1840 天保11 | 11月 | 浜松侯より名代=源兵衛ヘ二人扶持加増。吉田侯へ一三○貫目調達。(旧来の分九九貫目返却) |
1841 天保12 | 4.27 | 城代=青山下野守、吹所見分。 |
7月 | 浜松侯、用達一一人へ金六○○○両依頼、住友六○貫目調達。(計四五五貫目) | |
9月 | 吉田侯へ一七○貫目調達。 | |
11月 | 両町奉行=阿部遠江守、徳山石見守ら、吹所見分。 | |
1842 天保13 | 4月 | 江戸西城普詩に吹銅献納、賞誉として銀四○枚下賜、古銅銀吹分につき吹屋仲間へ銀五枚賞賜。 |
8.9 | 長崎奉行=伊沢美作守、吹所見分。 | |
9月 | 西町奉行=阿部遠江守、水野若狭守ら、吹所見分。 | |
9月 | 一朱銀引替御用命ぜられる。 | |
11月 | 浜松侯、日光御社参供奉入費につき銀四二一貫目依頼、組合として二五○貫目引受、うち住友三五 貫目調達。 | |
1843 天保14 | 9月 | 大坂城大修造のため、大坂町人一五五人に一五五万五五○○両献納させる。
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それはともかく、一八三五(天保六)年七月には、浜松侯からの御用金依頼(五○○○両)があり、泉屋住友は鴻池や米屋平右衛門とともに合計銀二○○貫目を調達し、名代の鷹藁源兵衛には三人扶持が加増されている。しかも同年秋に、源兵衛が支配副役へと、泉屋のなかでも昇進していっているのが、とくに注目にあたいする。あくる一八三六(天保七)年には水野越前守の浜松領内で津波不作がおこり、泉屋は銀六○貫を調達している。大塩事件勃発の翌一八三九(天保一○)年一月にも泉屋鴻池・加島屋その他で銀二二五貫を調達し、年末には万石加増による入用のため銀六○貫を調達している。
しかも同月泉屋住友では源兵衛を支配役へと昇進させている。そればかりか一八四○(天保一一)年には浜松侯から源兵衛は二人扶持を加増されている。こうしてみてくれば、浜松侯=水野越前守忠邦と泉屋住友=鷹藁源兵衛の結びつきが、たとえ直接的でないにせよ、かなりあざやかに浮びあがってくるのではないだろうかと思う。
こうして一八四一(天保一二)年五月一五日の天保改革の布令と同時に、泉屋住友の当主友聞(ともひろ)の息子・万太郎(友視(ともみ))の別子銅山出張、倹約法の申渡しとなるのである。天保改革開始直後の七月には泉屋は、はやくも浜松侯へ六○貫目、翌一八四二(天保一三)年一一月には同じく三五貫目を調達し、さらに水野失脚直前の一八四三(天保一四)年七月には、大坂城大修造のために、住友吉次郎・泉屋甚次郎らが七五○○両づつ、泉屋六郎右衛門が一万両(その他、鴻池善右衛門や加島屋久右衛門・加島屋作兵衛らが、それぞれ一○万両、辰己屋久右衛門・千草屋宗十郎らが各六万両、三井八郎右衛門・炭屋安兵衛・平野屋五兵衛らが各五万両、そして総計一五五万五五○○両)を献金しているとみられるのである。(「大坂城誌」中 四一四〜四一八ぺージ)
以上を要するに、株仲間の解散が天保改革の重要な一環をなすものであったにもかかわらず、両替屋株がその停止の除外となった根拠が明らかとなるばかりでなく、天保改革のもつ「限界」ないし、ある意味での「ブルジョア的」側面を−たとえ、ささやかな要因であるとしても−みおとしてはならない。この点の再検討の必要があると痛切に考えられるのである。
〈付記〉
このあと、「天保改革と泉屋住友の改革」がつづくのであるが、紙数の関係 上それは別稿でひきつづき明らかにしていくこととしたい。ぜひご教示ご批 判をおねがいする次第である。なお本稿執筆にさいしては、西尾治郎平氏を はじめ、酒井一・佐古慶三・安藤重雄・藤本篤・渡辺武・内田九州男・相蘇 一弘の各氏の御教示を得た。
(大阪産業大学)