Я[大塩の乱 資料館]Я
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「旧鴻池邸と大塩事件のルポ
『浪 華 市  奇 火 災 見 聞 之 記』

―旧鴻池邸表屋 町人文化史料館の宮崎家文書紹介― 」

その1

中瀬 寿一 (1928−2001)

『大阪春秋 第39号』1984.3より転載

◇禁転載◇

 一八三七(天保八)年の大塩平八郎らの事件によって焼打ちされ *1 、その数年後に再建された大坂船場の鴻池本家邸は、まさに大坂船場町人の心意気と誇り、そして喜びと悲しみ、さらにいわば〃官財癒着〃の動向を当時なりにくしくも象徴するものであった。そこには大塩事件と天保改革、ペリー来航と幕末維新の激動、新撰組の来訪や勤皇倒幕の嵐、大名貸やたびかさなる幕府の御用金要請、維新をへて自由民権派新聞への資金提供と善九郎(当主善右衛門の弟)の福沢諭吉門下への入門、そして〃お家騒動〃と〃家政改革〃の歴史、歴代善右衛門夫人の苦悩と悲哀…等々がこめられている。

 鴻池本家表屋門はじっとそれらを静かに見守り、何かを私たちにいまも語り伝えようとしているかのようである―。大正期に道路拡張のため「軒切り」があったが、幸い空襲からもまぬがれ、無事に昔の姿を残して最近まで保存されてきた。それが破壊されそうになったとき、大阪はもちろん、全国の心ある人たちの胸は痛んだ。

 ところが、文化財保存に意をそそぎ、尽力してこられた三宅一真氏の〃義挙〃により、その表屋門と本宅の一部約二〇〇坪分の払いさげをうけ、一年余の歳月をへて、生駒山をこえるとはいえ、あたかも、大塩事件一四五周年〃にあたる一九八二年に、ともかく奈良市富雄に見事移築=完成されるにいたった。この意義はきわめて大きいといわなければならない。

図 「鴻池邸表屋」 【省略】


 こうして旧鴻池邸表屋 町人文化史料館が一九八二(昭和五七)年五月から開館のはこびとなり、美しい静かな中庭を眺めながら、大塩事件研究会や船場を語る会などの講演会その他、いろんな歴史的・文化的会合が開かれ、大坂町人史への興味と関心も急速に高まりつつある。いまイギリスではインダストリアル・アーケォロジー(産業考古学)の運動 が盛んで、一九八○年にそれを丹念に調査して大きな感銘をうけたが、いよいよ大坂町人の歴史、家憲や家訓をはじめ、分家・末家・別家の制度や帖簿組織、番頭・丁稚・小僧・職人など〃大坂のええしでない町人〃など庶民生活の実態、そして美しい妻・妾たちの秘められたロマン…などを掘りおこす、新しい契機ができたことを、〃人類の未来への遺産〃として心から祝福したい。

 なお鴻池本宅は、全盛期に「今橋通りに間口三六間、蔵数二十余棟の大店として偉容を誇った」といわれ、「つい最近まで一部二階建て六百坪の邸宅が千坪の敷地に保存され、江戸時代の面影を伝えてきた」(『毎日新聞』八一年四月一三日)。だが〃高度成長〃政策のなかで、今は大広の建物やガレージその他となり、表屋門も大阪美術倶楽部の近代的な建造物に変ってしまった。しかし、その奥には、昔の建築や中庭が残っており、大塩事件の折、焼けたという庭石などもあって、奥座敷からの風景はいまも同事件当時を思いおこさせるにたるものがある。また、表屋門の移築開始後、奈良市富雄の三宅邸で三宅一真・浮田光治氏を囲んで大塩事件研究会のメンバーとの間でおこなわれた研究会(八〇年一二月八日)席上「こんどの解体移築過程でわかったことだが、大塩事件以前の古い材木が意外に多く使われており、今までの通説のように鴻池本宅が〃丸焼け〃になったというのはまちがいで、土蔵も一六棟のうち、七割が焼け、あとの三割は残ったという話がのこっている」と、こもごも語りあわれていたこともつけ加え、今後の再検討を提起しておきたい。


〔注〕
*1 最近いちじるしく進展した大塩研究の動向については、大塩事件研究会の機関誌『大塩研究』(第一五巻まで既刊)や中瀬「大塩事件と自由民権運動(上・中・下)」(『科学と思想』第四六〜四八号)および「大塩平八郎の先祖―今川説、生誕―大坂説その他の論争史的考察――幸田成友・岡本良一『大塩平八郎』の再検討」(『大阪産業大学論集(社会科学)』第五七号)など参照。


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「旧鴻池邸と大塩事件のルポ」目次/その2

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