Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.9.7修正
2000.2.6

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大塩の乱関係論文集目次


「旧鴻池邸と大塩事件のルポ
『浪 華 市  奇 火 災 見 聞 之 記』

―旧鴻池邸表屋 町人文化史料館の宮崎家文書紹介― 」

その1

中瀬 寿一 (1928−2001)

『大阪春秋 第39号』1984.3より転載

◇禁転載◇

図 「当時の鴻池本宅の略図」 【省略】


 この鴻池建築の歴史的・建築史的意義については、すでに『大阪経済雑誌』(一九〇〇=明治三三年一月一五日号)が、次のように書いていたのが想起される―。

「天五(天王寺屋五兵衛の旧宅は嘗て大阪日報社となり、今は弁護士高谷恒太郎氏の居宅となれり)、平五(平野屋五兵衛の旧宅はさきに藤田組となり、今は田辺甚三郎氏の住宅となれり)の両家は、夙既に倒れたりと雖とも、独り鴻池は、今尚其外形に於ては、僅かに其旧態の依然たるを見る。下図の如く、西洋室は則ち当主善右衛門氏の居室にして、小間なる所ろは夫人の居間なり。台所までは上草履を穿て往来するも、特に許可を得る者に非ざれば、納戸より奥に入る事能はず。

 昨年までは、表ての入口に、破れたる暖簾を釣り、浪花橋筋の外囲ひには、金網を張たる窓を明て、之に往来安全の常灯を点じたるなど、其外観に総て守旧の精神を現はしたれども、家政の改革と共に、大ひに其外形を修築し、破れたる暖簾を取外し、之に代るに五十燭光の電灯を以てし、外庭には二三両の自用車を飾り、外囲ひは一面に船板を打替ヘ、表て格子の煤を掃ひ、玄関前の石を洗ひ来客あれば必ず応接の間に招じて、茶菓を饗するなど、旧来の鴻池とは、全たく其趣むを異にするの観あり。

 然れども其全体の建築より云へば、素より金を惜まずして構造したる者なるが故に、鴻池若し不幸にして倒産する事あるも、此家屋は日本の一大美術として、永く国家の保有物たらしめざる可らず、試ろみに見よ、其外囲ひより表格子に至るまで、外形甚はだ粗なるが如しと雖ども其良材を撰びたる、其構造を成るべく質素に工夫したる、其細工其意匠の、頗ぶる精妙を極むるの点に於ては、蓋し何人と雖とも感歎して措ざる処ろなるべし。 之を要するに、天下の豪富を以て目せられたる事なれぱ、幕府御用金の命令頻繁なるのみならず、天保度水野越前守の無謀なる大改革ありてより、百万両の黄金を有する家も、五万両十万両の生活をなし、有ても無きが如くに装ふを以て、幕府の御趣意に適ふものとなしたるの結果、一寸目には甚はだ華美ならずと雖ども、通常人の目の及ばざる処ろに、格段の意匠と全力を費やしあるが故に、常に今橋鴻池の家を見るもの、アレが日本一長者の家なるかなど笑ふ者なきに非ずと雖ども、コハ畢竟皮相の観察にして、所謂其建築の底いたりしたる、微妙の意匠にまで看至らざるが故なり、則はち一寸見た処ろにては、如何にも尋常の家屋なるが如しと雖ども、ヨクヨク注視すれぱ、果して金力を費やしたる、意匠惨憺の大建築たると肯知するに足ものあらん。

写真 「今も残る旧鴻池宅中庭風景」 【省略】


 この町人文化史料館に対しては、いちはやく船場町人の宮崎産業株式会社(江戸期の冨屋−釜屋で、戦災にあったときも、土蔵は焼けずに残り貴重な古文書類が保存された)その他から数多くの貴重な古文書類が提供され、そこには『覚 釜屋店』(文化二年)、「御伝馬所鑑札」(文政一○年)、『』(天保二年)をはじめ、大塩事件のなまなましいルポルタージュ『浪華市奇火災見聞之記』(天保八年)や『別家証文』(天保九年)、『御公役町入用高寄帳』(同年)、『鍋釜鑢鞴鋳物師仲間名簿帳』(嘉永四年)、『鍋釜吹取締連判帳』(文久二年)、『慶応弐寅年 御用金相勤帳銀高名前控』、『鎌鞴鋳物師組合規則』(明治七年)、『大勘定』(明治五−三二年)その他数十冊におよぶ帖簿等々、学界やマスコミ界をゆるがす文献・資料も少くなく、今後いっそう各方面から古文書だけでなく、伝統的な民具類その他、町人文化をしめすあれやこれやの提供がぞくぞくはじまろうとしており、幅広い協力が大いに期待されるところである。

 さて、鴻池善右衛門の前で篠崎小竹が講義しようとしているときに大塩事件が勃発したという場面をいきいきとえがいた堺利彦の「講談 大塩騒動(一〜一一)」(『愛国新聞』一九二四年四月一一日〜七月二一日号 *2 )をはじめ、鴻池本家が焼けるところをなまなましくえがいた「天保日記」(相蘇一弘氏により加島屋某筆とされ、大阪市史編纂室所蔵 *3 )、大塩事件による被害の実態を調査し記録した、鴻池新十郎家の「北辺火事一件留」(大阪商業大学資料室所蔵 *4 )、同家の一八四○(天保一一年および一八四九(嘉永二)年の「大福帳」(前者は大阪城天守閣所蔵、後者は大阪商大所蔵)、そして〃家政改革〃の一端をしめすと思われる同家の『上下一統永続亀鑑改正基本帳』(天保十四年同じく大阪商大蔵)、さらに大塩事件の被害による出費を計上した鴻池本家の『算用帳』 *5 (天保八=一八三七〜嘉永六=一八五三年三和銀行本店所蔵)、一八三九(天保一○)年の条に仮普請建築下の鴻池・三井の有様をえがいた、陸奥の『多志南美草』(八戸図書館) *6 、そして自由民権運動と関係の深い旅宿・紫雲楼がかつて鴻池(駒次郎家)別邸だったのではないか *7 等ということが、あらためて掘りおこされ、歴史が大幅に書きなおされようとしている。

 鴻池先祖=山中鹿之介説も事実に反する〃神話・伝説〃として否定され *8 、研究の本格的な再出発が始まろうとしている。鴻池邸表屋門移築=完成と船場町人文化史料館発足の意義はこうしてはかり知れないほど巨大なものとして眼の前にあらわれつつあるのである。

図 「表屋門移転以前の旧鴻池宅平面図」 【省略】



〔注〕
*2 西尾治郎平氏の提供による。その詳細は前掲『大阪産大論集』第五七号所収拙稿参照。
*3 中瀬「大塩事件と特権的門閥町人屆の衝撃―鴻池・三井を中心に」(『大阪産大論集(社会科学)』第五三号所収)参照。大塩事件の衝撃による住友の家政改革については『大塩研究』(第五号、第九〜○号、第一四〜一五号)所収の拙稿や『経営史学』(第一七巻第三号)の拙稿、さらに「開港と嘉永・安政期住友・三井の家政改革」(『大阪産大論集』第五八号)など参照。
*4 安藤重堆「大塩の乱と和泉町鴻池」(『大阪商業大学論集』第五六号)および『大阪産大論集』第五三号所収拙稿など参照。
*5 この点、竹内一男氏の大塩事件研究会(一九八二年一一月二三日、旧鴻池邸町人史料館)における興味深い研究発表「天保期の鴻池と大塩事件」など参照。
*6 みちのく双書第二八集『多志南美草』第一巻一七六頁参照。
*7 中瀬「愛国社再興と〃民権ブーム〃」(『宣伝研究』第二○三号、日本機関紙協会大阪本部刊)参照。
*8 中瀬「日本財閥のルーツにかんする科学的考 察――三井・鴻池・住友の〃家系図づくり〃の再検討」(『大阪産業大学学会報』第一四号) 参照。


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堺利彦「講談大塩騒動」


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