中瀬寿一
『大塩研究 第15号』1983.4 より転載
こうして一八四四(天保一五=弘化一)年をむかえると、三月には白目買上げ値段が、前年より一〇〇斤につき三〇目増額し、都合二三〇目で買上げられることとなった(吹屋六人の出願による)。ついで四月には、銅座より「借入銀利足下付」が申渡され、元銀二三九五貫目に対し、同年より五年間にわたり毎年四七九貫、掛屋両家出銀二六一〇貫目に対しても同じく八年間にわたり利息が支給されることとなった。
しかし、まだ一方では「是年本家財政益困難ニテ抱屋敷・田畑等悉皆抵当に差入、且豊後町負債モ多分之レアリ、実ニ危難ノ場合ニ迫」りつつあったという。その真偽はともかく、そうしたなかで、末家の鷹藁源兵衛が、
同一八四四年八月、二〇カ条におよぶ長文の、画期的な意見書を提出し、友聞・万太郎父子に大胆にも本家の改革まで訴えたのは注目にあたいするところである。きわめて重要なので全文を引用すると、次のようなものであった(『垂裕明鑑』巻之二十)―。