Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.12.20

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「大塩事件・天保改革と 住友の〃家政改革〃

―〃家宰〃鷹藁源兵衛を中心に―」

その12

中瀬寿一

大塩研究 第14号』1982.11 より転載

◇禁転載◇

四、別子・立川両銅山改革法
   ―休山か、「新法実施、省略専要」か(一八四三年)― (6)

 このようにして、賃下げ合理化で引きあわない者は「何の山へ成共勝手」にいけ、「此上は如何躰騷動に及共、外ニエ夫も無之」、「休山」か、賃下げ合理化か、二つしかないのだ、と、銅山全労働者を脅迫しつつ、「山方・吹方・竃大工・炭方・中持等ヨリ夫々請書ヲ出サ」せ、「新法実施、省略専要」一九七四〜五年不況以降の、「減量経営」の、まさに先駆的形態とでもいうべきもの)が断行されていったのである。

 しかも謎に包まれているのは、すでにこれよりさき同年一〇月に、大坂銅座から予州銅山手当金年五〇〇両下付の通達があり、同年から五年間、山元仕入金償手当も年五〇〇両あて支給されるはこびとなっているのである。こうした情報がどこかで握られながら、極秘にされ、他方、〃危機〃宣伝と〃合理化〃が強行されていったにちがいない。そこには家族主義・温情主義の名にかくれた家父長的な、しかも現代にも通ずる住友の労働者支配の巧妙さ、したたかさをみることができるのである。

 いずれにせよ、これらの結果、銅山経営が一八四五(弘化二)年からいっきょに黒字へと好転していったのはいうまでもない(表参照)。しかもそれがいわゆる水野越前守失脚による天保改革の流産の時期と符合しているのが大いに注目されるところであろう。天保改革下の〃首切り〃〃合理化〃いわば〃減量経営〃が、泉屋住友の鉱山・銅吹製錬マニュとしてのぜい肉を切りとり、資本蓄積の基盤をつくり、一八四〇年代なかば以降、阿片戦争以後の新たな内外情勢のもとで、大きな純益をうみだすひとつの中心的柱となったと考えられるのである。ここに天保改革の一方の特質をよみとることができるであろう。

 他方、鴻池本家の改革については今後の史料発掘にまちたいが、一八四三(天保一四)年に鴻池新十郎家で帳簿を中心に大改革がおこなわれていることも最近明らかとなった(この点、別稿参照)。

 こうして大塩事件は「幕府に対する、民衆の衝撃の第一歩」となり、「水野忠邦の諸改革は、畢竟…農民=都市庶民の間に蔓延せる変革的昂揚を基本とする、在来の封建体制の内在的矛盾の激化に当面して、今や幕府自身が、その支配体制を〃原始蓄積国家〃的なものへ向って 再編成せむとする努力を物語るもの」(小林良正「明治維新に於ける商工業上の諸変革」『日本資本主義発達史講座」第一部、五頁)とならざるをえなかったのである。 したがって、天保期(一八三〇〜四〇年代前半)というのは試行錯誤のジグザグのなかで、「近代化への展望が切り開かれた時期」であるとともに、泉屋住友などのマニュファクチュア資本をはじめ、「都市の商人資本における一つの転換期」(青木美智男・山田忠雄編『天保期の政治と社会』有斐閣八一年刊四〜一四頁)でもあり、「農村工業を起動力として国内市場の形成がすすみ、それが民族的統一の経済的基礎条件をつくりあげ」ていき、「それ故にかえって、幕藩的統一性が分裂・解体に決定的に向った時点」(中村哲『世界資本主義と明治維新』四〇頁)でもあったのである。

(以下次号)(大阪産業大学)


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