Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.2.27

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

『日本英雄伝 第2巻』
(日本英雄伝編纂所編 非凡閣 1936) より

◇禁転載◇


大塩平八郎

   暗 黒 世 界

 徳川幕府の政治は乱れに乱れ、財政は窮迫し、官吏の私曲、武士の堕落は甚しく、窮乏した農民は各地に蜂起し、封建制度の矛盾は極点に達してゐた。武士階級は内部から腐れ朽ち始め、町人階級が漸く跋扈しようとして来た転換期。そうした只中の文化三年(一八○六)大塩平八郎は初めて大阪天満与力見習として役所に出仕した。

 寛政五年(一七九三)二月二十二日 *1 に生れた平八郎は、その頃はまだ十四歳に過ぎなかつたが、父平太郎敬高が七歳の時に亡くなつたので、代々天満与力で表高二百石を領してゐた関係上、早くから見習に出仕したのであつた。

 出仕して間もなく、彼の若い純な胸を蝕みはじめたものは、一つの暗い疑惑であつた。

『これで(よ)可いのか知ら?』

 周囲に見る諸役人達は、寄れば出世の手蔓掴みか金儲けの話、出来得る限り狡く悧巧に立ちまはる方策ばかりを練つてゐた。しかも彼等は傲然と反りかえりつつ、恐怖に度を失つてゐる庶民達を裁くのである。果して彼等に人を裁く資格があるだらうか。さう考えると、平八郎自身限りない不安に襲はれるのだつた。そこで彼は深く自ら戒めて、 勉学と真理の探求と、人格完成にひたすら励むやうになつた。

 かくて、二十五六歳に達した頃には、中島流の砲術を善くし、佐分利流の槍術を極め、殊に学は陽明学を極め、人物見識共に抜群の風格に大成してゐた。さればこそ文政三年、近藤重蔵が大阪の弓奉行に赴任して来ると、直ちに平八郎と親交を結び、ついで其の翌年高井山城 守が東町奉行の任に就くと、一と目で、平八郎の人物を見込んで吟味役という枢要の地位に抜擢したのである。時に平八郎二十八歳であつた。

   辣 腕

 山城守の知遇に、しばし気を静めてゐた平八郎も、不当な権勢、情実の圧迫を坐視するに堪へず、当時の暗黒社会に巣(すく)ふ邪悪不正に対して、断乎として辣腕を揮ふことになつた。

   文政十年、京都の八坂に豊国神なる祈祷所を設けて怪しげな女弟子、医者、還俗坊主、浪人者などを配下として、京阪から播州地方に奇怪な邪宗を弘めてゐた、豊田貢といふ女が、平八郎の網に引つかかつた。これは貴族や大官にも関係あるところから、京都町奉行所で容易に手出し出来ないでゐたものだつた。三力月間に亘つて京摂地方で縛についた連累六十有余人、さしもの邪教も遂に根こそぎにされた。

 その頃、西組与力に弓削新右衛門といふ奸物がゐて、時の奉行の内藤隼人正に取入り、吟昧役の職権を悪用し、配下無頼漢と気脈を通じつつ、新町遊廊の楼主等と結託して、良民を苦しめ私腹を肥してゐた。この暴状を見て平八郎は、奉行所に蟠(わだかま)る罪悪の巣窟に十手を突き込んだ。その検察正に疾風迅雷の如く、無頼の役人共は礫刑に処せられ、弓削は切腹となつた。

 平八郎の各方面における功績は、市民の大きな感謝となり、また高井山城守からの破格の待遇となつた。けれども彼は絶えず辞意を抱いでゐた。彼の身には年久しく病む肺患があり、権力と情実との搦みあつた煩瑣なる公職に在ることは、彼の鋭い良心が許さず、また凝(ぢつ)と世相を眺め渡してゐた心には、まだ他になすことがあつた。

 天保元年、彼は山城守が老齢のために幕府に辞職願を出した際、自らも迫つて、すつぱり辞職してしまつた。これより彼は在野の高士として己れの塾たる洗心洞に隠れ、専ら育英の事業に心身を傾注することになつたのである。

   天保の大饑饉

 しかし、三十八歳を以て官を退いた平八郎には、決して安閑たる月日は許されてゐなかつた。彼の塾に集る塾生並ぴに通学生、または彼の風を募つて遠近の諸藩より来学する人々に対する講学のことがあり、一方、この間、精魂こめてなしてゐる著述の仕事があり、加ふるに、この頃大阪へ転じて来た奉行矢部駿河守の招聘にも時を割かねばならなかつた。駿河守は夙(はや)くから平八郎の名声を耳にしてゐたので、大阪に赴任して来ると、まづ其の子を洗心洞に入門させ、平八郎を客分に待遇して、何かと政治上の意見を聴いたのであつた。

 当時、文政末よりの不作続きに加へて、その頃又もや暴風雨の襲来があり、米価は十五六倍にも騰貴し、饑ゑを訴へる声が漸く四方に満ちはじめた。が駿河守が幕府に建言して、八方奔走の結果、窮民への賑恤を計つたので、大阪は比較的平穏を保ち、平八郎もやつと胸をさすりつつ、この間、『洗心洞剳記』『同附録抄』『古本大学刮目』『奉納書籍聚跋』『儒門空虚聚語』『増補孝経彙註』『洗心洞学名学 則』等の述作に従事することが出来た。

 然るに、天保七年、二月の頃より霖雨しとしとと降りつづき、五六月頃といふに冬の冷気を帯び、更に七月に入つで全国的大暴風雨となつた。稲も麦・稗も生ひ立たず、田園は荒涼として濡れ腐り、遂にかの天保の大饑饉となつたのである。折も折、名奉行矢部駿河守は勘定奉行として江戸に去つて了ひ、その代りに来たのが愚味陋劣なる政治屋跡部山城守であつた。

   天下の苦悩は我が苦悩

『治国平天下の道は、王陽明先生の所謂、人は天地の心、天地万物はみな我と一体なりといふ真の理を悟り、直ちに其れを行ふことだ。天地万物、すでに我と一体なれは、天下の人民の苦しみ悩みは、即ち我が身内の疼(うづき)だ、痛みだ。然るに見よ、現時当路の役人輩を。民の患を己れの患とせねばならぬ身が、利慾に迷ひ、町人共より賄賂を貪つては彼等の暴利を恣にするを見遁し、正直な民百姓の苦悩は、まるで、何処に風が吹くかとの顔付ではないか。今や天災打続き、前代未聞の大饑饉となつて、饑ゑて死したる者の屍、累々と道に横はる。此の悲惨なる状態を前にして、彼等はそも何をしてゐるか!』

 洗心洞講堂で、多くの門下生に対して時世を憤り、窮民を憐れむ熱情を炎の如く迸(ほとば)しらせてゐるのは、新奉行跡部 山城守の仕打に対して悲憤慷慨やる方なき平八郎であつた。
 彼は己れの跡を襲いで奉行所に出仕してゐる養子格之助を通じ、再三奉行に献策したが、用ひられるところとならざるのみか、奉行は極瑞なる積出制限令を発して、京伏見行の米を阻止せしめ、あまつさへ、餓鬼の如くよろめきながら大阪に米を求めて忍びこんだ京伏見の民を片端から捕縛し、その上、袖の下に丸められて、奸商共が米を買ひしめ、米価を釣り上げることを黙許してゐた。ために餓死するもの十幾万。この惨状を眼前に眺めつつも、幕府の鼻息を窺ひ、己れの利害のみに汲々たる奉行は、なほ江戸へはどしどし廻米してゐたのである。遂に怺(こら)え切れなくなつた平八郎は、自ら奉行宅に乗り込んでゆき、

『お上の米倉の開放をお願い致したい。』

と迫つた。が、奉行は冷笑しで突つぱねるのであつた。『与力の隠居の其方が申でる幕とは違うわい。』

『しかし幾十万の者が飢え凍えて死のうとしている此の場合、御邸内の米倉には米俵が山と積まれて居りますのに……』

『黙れ。あれこそは、明春、御代替りに際し西の丸様の将軍家にお立ち遊ばす御式典あるに就き、そが準備御用金充当として御蓄へあるものなるぞ。』

『然しながら民あつての将軍家で、将軍家あつての民ではござりますまい。今眼の前に民はば饑ゑ――』

『ぶ、無礼きはまる今の一言、二度と申さば、捨て置かんぞ!』

 無念の涙に頬を濡しながら奉行宅を出た平八郎は、最後の一策として己れ自身及び同志、門弟等の俸禄を担保として、鴻池その他の富豪に対し賑恤金六万両の借入を申込んだ。彼が此の用件で鴻池家を訪れた時も、流石に平八郎らしく、自ら握飯を持つて行つて居て、先方の御馳走を断つたといふ。

 ――しかし此の最後の一策も又もや跡部山城守の干渉によつて、空しく蹴飛ばされることとなつた。

   (ほこ)をとつて蹶起

 かくて平八郎は、沢山あつた己の蔵書の全部を売却して、その代金六百五十両を三十三カ町村の窮民に分ち与へ天保八年(一八三七)二月十八日、檄を近畿の地に伝へ、同志を糾合しで奮ひ起つた。

 『不義の俗吏を誅戮し、不正の遊民を打懲すのだ。財宝はすべてこれ天下のものだ。今こそ我等が天の奉行! 一同用意せい!』

 かくて十九日未明、東照公を祀つた建国寺砲撃にはじまり、天満一帯に火を放つた義軍は、追々集つて彼等を助ける民衆と共に船場の方に進んで、鴻池家をはじめ三井、岩城屋、島屋等を襲つた。跡部山城守等は、纔(わづ)かに天神橋を切つて落して城を防いだまま傍観の体であつたが、賊兵の出動と共に漸く接戦しはじめた。夜に入る頃、義軍も衆寡敵せずして、ついに壊散し、平八郎父子は行衛を不明にした。

 それより一カ月後の三月二十七日、彼等は油掛町美吉屋五郎兵衛方に潜んでゐたが、捕吏の囲むところとなり、平八郎は格之助を刺して自刃し、四十五歳を以つて散つた。


管理人註
*1 大塩平八郎は寛政五年(一七九三)一月二十二日生まれとされる。
 石崎東国『大塩平八郎伝』 その3



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