徳川氏二百有余年の太平殆んど其極点に達し、天下万衆太平の夢を結
ぶの時に当りて、青天の霹靂、平地の波瀾、俄然、突如として一旗幟
を翻へして、以て天下の耳目を襲動すもの、実に是れ大塩平八郎なり、
泰西に於ては夙に社会党其団結あり、而かも東洋に於ては未だ嘗て真に
社会党と名づくべきものあるなし、彼の所謂百姓一揆、竹鎗、席旗、豪
家闖入、破毀狼籍、是れ即ち社会党に似て、未だ其規律体形を為さゞる
ものなり、然り而して天保の際、平八郎の叛旗に於て、始めて稍々社会
党の規律体形を備へたるものあるを見るなり、是れ固より野史氏の採ら
ざる所、而かも其胆雄は亦以て見るべきものあり、
大塩平八郎は四国阿波の人、寛政六年、同国美馬郡脇新町、即今の岩倉
村字新町に生る、其姓素と三宅氏、生れて未だ幾許ならず父を亡ひ、又
母を亡ふ、実に孤身平々たる不運の児として、遥かに海波を隔てたる浪
華の大塩家に養はる、実に其先は今川義元の末葉なり、平八郎は素と父
其徳川氏の猛将本多平八郎の武勇を欽慕して、以て我児も亦斯くあれ
かしとの希望、遂に平八郎と名づけしと云ふ、然るに父の希望目的、
都て蹉跌し、早く孤身知らぬ他郷の育児と為り、以て具さに辛酸を嘗
め、其性、既に苦境に養はる、他日天下に直立せずして社会を横行す
るの叛旗を翻へす、亦其素養の然らしむるものあるに似たり、然れど
も鈍児は此の境遇に至らず、敏児にして始めて此の境遇に至るべし、
是に於て乎、野史氏、其敏を取りて其心を取らずと云ふ、
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