Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.6.9修正
2000.12.16

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 と 与 力 荻 野」

荻野凖造

『大塩研究 第42号』2000.11より転載


◇禁転載◇

 天保八年二月十七日夜、東町奉行所で跡部山城守と堀伊賀守が碁の対局をしている。伊賀守は新任間もない西町奉行である。そこへ東組の同心平山助次郎が慌ただしく駆け付け、大塩謀反の計画を密告する。跡部は直ちに東組老分与力荻野勘左衛門と西組の吉田勝右衛門を呼び付け、両人から意見を聞く。

 魁劇団公演、水木寒蘭作・演出の『義挙前夜』の幕明けの場面である。平成四年八月、大塩研究会から切符を貰って神戸オリエンタル劇場へ芝居を見に行った。俳優中村信行扮する勘左衛門の姿に初めて先祖の面影を彷彿させたのである。劇中荻野勘左衛門は「勘右衛門」となっているが、『大阪府史』も「左」が「右」になっている。大して知名度もない与力だから校正の人も気がつかなかったのであろう。 史実では平山は山城守の役宅を訪れて陰謀を密訴、翌十八日は公事日にて早朝より伊賀守が東役所に来たので相談の上、荻野と吉田に一味の召捕を命ずる事となる。勘左衛門とその伜四郎助が山城守に進言したのは

 「大塩の謀反など思いも寄らぬことで、平山の密告も疑わしい。ともかく明日の奉行巡見を中止して様子を見た方がよろしい。」ということである。四郎助は磯矢頼母、平山助次郎、吉見父子らと共に洗心洞の門人で大塩から学問上の指導は受けてはいるが、深い人間関係はないということで、跡部も進言に同意し召捕を中止した。その結果早くも翌朝決起の炎が燃え上がる。勘左衛門は之より十日前の二月七日にも、跡部奉行の命を受けて、窮民一万人に対する施行の禁止を伝える為に平八郎を訪れるが、この時も穏便主義にて蜂起を防止する機を失している。いわゆる危機管理が今一だった。

 大坂町奉行与力は大坂冬の陣及び夏の陣に功績のあった下級武士が秀忠将軍時代に抱えられたと言われ、いわば豊臣方の敵であるが、記録で判明した限りに於いては荻野家の与力は家綱将軍時代の七左衛門が最初である。勘左衛門は数えて六世となる *1 。寛政五年には父勘左衛門氏勝について与力見習を勤め、文化・文政の時代には大塩平八郎と同じ東組与力の同僚として二十余年の親交があった。平八郎が西田家の格之助と養子縁組する時は「公辺の願屆周旋をして無事落着せしを謝し」、又お祝いとして海魚一篭を贈った事への大塩の礼状が記録に残っている *2。日付の九月十日は著者幸田成友氏は天保元年(文政十三年)としているが、最近になって相蘇一弘氏は考証の末、文政十一年が正しいとされている。*3文政十一年と云えば既に辞職を決意している時で、九月十日は縁組成立の重陽の吉日の翌日である。当時の与力の暮らしぶりは禄高二百石程度にも拘わらず、二千石の旗本級にも匹敵する副収入があったといわれる。旗本陣屋の史料として河内農民の役所への付屆の記録がある。勘左衛門の如き「御館入与力」ともなると毎年数回に亙って金一両以上の付届けがある *4

こんな付け届けが何軒あったかは定かでなく推して知るべしだが、この程度では「役得」の範囲で、「悪徳」にはならなかったのかも知れない。後に大塩事件の温床になったことは疑えない。

 大塩平八郎が天保三年に洗心洞門弟の荻野四郎助に宛てた手紙は約一千字に及ぶ長文で、意中を切々と述べた後、忠孝を尽くして表ばかりに善を致さず、人の知らない所においても利心悪念を挟まない様勸めている。手紙の中で、自分は大塩波右衛門の血統であると証明している*5。四郎助は天保八年年頭には勘左衛門と共に見習として与力を勤め盗賊役、遠国役についているが、長じて後は七左衛門と改名し幕末慶応まで地方役その他の要職についている。天保十四年の御用金では播磨屋仁兵衛宛銀六百貫、丹波屋七兵衛宛銀百三十貫の請取証文に東組の朝岡助之丞、西組の成瀬九郎左衛門、内山彦次郎と共に筆頭に署名捺印している *6

 しかし、実父は西組与力早川家六世安左衛門董成である。この人は荻野分家平次が五世早川安左衛門董恆の養子となり、その二女てうを妻にしている。大塩乱妨に際しては消防並びに召捕に出精し、伊賀守より褒美を頂いている。文武に秀で翌年隠退して石斎と号して文筆を事とした。同十五年七十五才で没した。もとく四世荻野杢左衛門の娘が分家して孫右衛門の間に設けた子が平次で、早川へ養子に行き、その子四郎助が荻野本家の養子となって戻って来たものである。

 四郎助は大塩の門弟でありながら挙兵に加担しなかった為に、事件後大塩・瀬田・小泉・大西の四軒が潰され、代わりに八田・磯矢・丹羽・荻野の各分家が与力を創立する *7。かくて瀬田済之助屋敷跡に荻野左弥太が役宅を構え、大塩跡は永久に「御宮火除地」として明けられ、現在滝川小学校が建っている。左弥太の出自は定かでないが、妻は董成(通称平次)の孫娘、四郎助の妹の娘である。天保十二年には闕所役となり、その婿養子慎三は慶応3年塩噌役、目附役となる。新政府に帰順したのであろう、明治初年・及び二年の大阪府職員録にそれぐ外国事務局荷物改掛・聴訴断獄課に慎三の名が見えるが、三年以降は消えている。

 さて遡って本家の一世七左衛門は寛文年間三代目東町奉行石丸石見守組、二世杢左衛門はその娘婿で元禄年間の小田切土佐守組、三世勘左衛門は小笠原壱岐守家来小野孫左衛門の娘を娶り享保年間の鈴木飛騨守組、四世杢左衛門はその娘婿である。五世勘左衛門はその息で、大塩が糾弾した弓削家の先代次郎左衛門は弟である。六世勘左衛門幼名豹太郎は西組与力安藤丈之助の娘を妻としたが実子がなく、前掲早川家より四郎助を養子に迎え、七世七左衛門とする。役宅は川崎与力町、今の泉布観の所に約五百坪の宅地を与えられていた *8。 隣は磯矢宅、大塩家とは約一八〇mである。

この様に係累を辿ると与力同士の親類縁故がいかに多いかが判る。早川家を通ずると、寺西・田坂・片山・勝部が結ばれ、更に勝部を通して八田・成瀬・内山・牧野が、田坂を通して吉田・朝岡が縁故となる。中でも事件前夜勘左衛門と共に奉行に呼び出された吉田勝右衛門、真っ先に庭の槐の木に大砲を打ち込まれた現国道一号線沿い朝岡助之丞、召捕・消防に尽力して褒美を貰った早川平次、勝部益次郎・与一郎、大塩父子の潜伏先を突き止めた内山彦次郎、事件後分家の与力創設を与えられた八田、磯矢などは大塩関連と云える。

 七左衛門には五人の男子が居るが、八世与力は三男彦六が継ぐ。彦六は安政七年〜文久三年には諸役を勤めているが、慶応になると父の名はあるのに彦六は名を消している。また二男主税は京都御所公家屋敷の大炊御門家来、四男簾蔵は同じく錦小路家来、五男啓之助は大坂府兵隊銃士となるが、長男浦次郎の名はどこにも現れないのである。

 以上は私が現役を引退した昭和六十三年、本屋で発見した小冊子「大阪市史史料」をきっかけに、府史や幸田成友氏、白井孝昌氏、大野正義氏らの著書に目を通し、叉大塩研究会等で学んだ事を基にして整理しただけのものに過ぎず、家に伝わったものとしては何もないので誤りあればご叱正願いたい。抑々私が物心ついた時から我が家には墓というものが無かった。友達から「墓がないとは儚いなあ」と言われ、肩身の狭い思いをしたものだが、その理由について父は何も話さなかった。ただ祖母(文久二〜昭和一八)がこんな話をしてくれた。

「荻野の先祖は代々天満与力二百五十石の武士だった。ところが舅の浦次郎が天保の御用金を父に代わって江戸へ持って行く途中京都で遊興、公金使い込みの廉により親から勘当され、士族でなくなった。それでも私が荻野へ来た時には自慢の『裏金の陣笠』や『ひしや』の屋号の入った道具箱が幾つもあったが、逼塞して金になるものはみんな売ってしまい、今は何もない」と。

 御用金をどうして江戸へ運んだか、為替手形があったのか、飛脚に持たせたのか、想像の域を出ないが、あり得ない事ではない。

 先年、その憧れの先祖の墓が見つかった。天満東寺町の曹洞宗龍海寺である。

 『荻野七左衛門藤原氏苗(カ)之墳』とある。源流は藤原姓だったのであろう。寺の話では昭和四十年に道路拡幅のため無縁墓を整理して山と積み上げられている。僅かに側面上部の「明」の一字だけが何かを語りかけている。下の字が見たいものだが、この寺も過ぐる戦災に遭い、以前の記録は何も残っていない。平成四年秋の彼岸に同寺を訪れたら、たまく八田家先代の文枝未亡人が墓参に来ておられご挨拶した所、早速手紙下され以後もずっと年賀状を頂いている。焼け残った古文書の整理に心を砕いておられるようである。

 曾祖父浦次郎(文政六〜明治三三)は天満の油屋土居家の一人娘を娶り、少年寄や戸長、教導職、華道教授、煙草商などを営む。明治二六年には両替町の家、約五十坪を千円余で売り払い、内本町の借家へ引っ越した。そして明治三三年一一月二九日朝、華道出張教授に出んとして倒れ、同夕七十七才で死去した。天保以後再び復縁を許される事なく、万感の思いを脳中にめぐらせながら世を去って行った事であろう。その菩提寺は自ら改宗した浄土宗善導寺にあり、今は無縁墓となっている父、七左衛門の眠る龍海禅寺のすぐ西にある。

 事件以来百六十年、今年も記念の日、旧暦換算三月二十九日成正寺に於いてその名も「怨親平等慰霊」と銘打って呉越同舟の法要が営まれることは郷土文化の発展に意義ひとしお深いものと思い、盛会を祈ります。

 最後に種々ご教示を頂いた大野正義先生はじめ役員の皆様に感謝して擱筆します。

 

以 上
(平成九、三、二〇)


    Copyright by 荻野凖造 Junzo Ogino


「浮世の有様 巻之六 遠州稗原村村上庄司より来状の写 その5


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