長らくの間、待つても前の雛僧は出て来ない。待てども待てども雛
僧は出て来ない。遂に我慢し切れなくなつた大塩は、本堂の階段に
昇つて奥を覗いて見たけれ共、見えるものは阿弥陀如来の仏壇許り。
ずつと上手へ歩み、そつと聞き耳を立てながら奥の様子を窺つて見
る。けれ共何の声も聞えない。大分経過してから前の雛僧、上手か
ら現はれる。
雛僧 まあ、こんな所まで来て居られましたか。その、……………。上
人様が仰せられる所では、大塩様にはずつと以前御会ひしたが、その
大塩様が今時分、此の寺の堂の縁下に居られる筈はないと斯う仰せに
なられるので御座います。そんな方にはどうあつても会はぬと仰せら
れて居ました。早く帰らつしやれ。
大塩 いえ、いえ、拙僧は確かに大塩ぢや。実を言ふなれば今更おめ/\
御面会も出来ない身ぢやが、後生でござる、どうか一目でも会はせて
下され。
雛僧 いや/\、その儀は断じて相成らぬ。それに上人様にはえらい御
憤りですぞ。大塩様はそんな乞食僧にはなられぬ、大塩様は今では何
処迄も立派な学者で居られる。そんな立派な大塩様を名乗つた乞食坊
主には会ふ事が出来るかと偉い御立腹です。たとひ其方が大塩様であ
つても、乞食坊主には会はぬと仰せられて居ます。
大塩 (少し感ずる所ある様子、半ば独り言の様に、)さうだ。数年前
御会ひした時には、此の拙僧にあのやうな大それた事をやつてよいと
は言はれなかつた。うーむ。思へば数年前の御教訓を忘れて了つて、
上人様が御訓し下された真の意味の人民救済を行はずに、過つた。そ
わ し
して御教訓に叛いた行為を成して来た。うーむ此の拙僧は眠つて居た。
わ し
過つた。拙僧は何といふ馬鹿な奴だつた。上人様がそんな大塩ではな
いと思はれるのも御尤もだ。むー、許して下され、上人様。(大声で、)
上人様、許して下され上人様。此の大塩は矢張り剛腹、鉄面の奴に御
座います。おお此の拙僧といふ人間は、よくも上人様の御教訓を破つ
て置きながら、此処まで逃れて来た。むー、上人様の御心の中、よつ
わし
く解ります。あれ程迄御恩を受けた此の儂が、上人様の御心に叛き、
どうしてあの様な馬鹿な真似を……………、魔がさしたといふか、此
の大塩は矢張り上人様が仰せられる通り、所詮、かうなつたからは身
を殺さなければなりません。(網代笠に隠れた両眼からは、止め度も
無く涙が流れて、後は啜り泣く。)
雛僧 どう言ふ事が御ありになつたかしらぬが、上人様も非常な御歎き
で御座いました。其の方が本堂の縁の下に居た事も読経の時にちやん
と心得ていらつしやいましたのぢや。儂が上人様に申し上げた時には
『うん、さうか』と仰せられたまま、見ると上人様の両眼には涙が一
杯、……………。
大塩 おおお、左様で御座つたか。もう其の先を言つて下さるな。もう
わ し
涙が出て来る許りで御座ります。何もかも拙僧の至らなかつた事なの
です。上人様の御心はよつく解ります。さうだ、今から仏道に帰依し
たとて何になり申さう。上人様や其の他の人に御迷惑を御掛け申すだ
けだ。世の人の邪魔物になつたら、拙僧はもう唯一つの道だけが残つ
て居るだけだ。さうだ、その方がよい。はははははは。(淋しい笑ひ、
雛僧も背筋に水を浴びたやうな感じに打たれる。)
雛僧 まあまあ。そんなに御落胆なさらなくともよい。世の中にはどん
な苦しい事があつても生きる道だけはあるもの、御落胆なさるな、日
野山の奥にも生きる道はありまする。大塩 いや/\取る可き手段は
唯一つ、もう何事も事は終りました。世間の鋭い目の下に生きる大塩、
心の奥底より燃え上る懺悔謝罪の念に生きる大塩には、もう取る可き
道は只一つ。此の大塩は、既にやる可き事は成し遂げ尽した。上人様
の御心の奥、よつく解り申しました。拙僧には楽しい世界、極楽浄土
が待つて居るから旅立ちするのも近いこと、嬉しい楽しい日が近づい
て来ましたわい。はははははは。(網代笠の中に笑ふ大塩の淋しさは
雛僧にもよく解る。)
雛僧 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。仏様は三千世界を照しまする。此
の世の風は娑婆に吹く風、極楽浄土に吹く風には及びもつきませぬ。
むー、しかし………。南無三宝。
大塩 色々と御配慮有難う御座る。上人様へは宜しく御伝へ下され。楽
しい門へは直ぐ入れる。一刻も猶予は出来申さぬ。火の車は近くへ廻
り来つた。廻れる車輪の動きには永劫の魂が附随するとか。はははは、
さらばぢや。(淋しい大塩の姿は、待てと腕を捉へる雛僧を振り切つ
て、寺門の方へ歩んで行く。放心の状態に歩む大塩の一歩一歩は深い
轍のやうに刻み込まれて、雛僧に大きな歎きと悔恨とを投げる。)
雛僧 (大塩の姿に対して両手を合せて拝む。心からなる合掌。)南無
阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
上手の本堂阿弥陀如来の前に来て端坐せる真阿上人は静かに合掌し
て大塩の冥福を祈る。上人の両眼は涙に濡れ軈て啜り泣く読経の声
が本堂から洩れて来る。
(昭和九年一月十一日稿)
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