大西経子(発行) 1987 より
『町奉行所旧記』(幸田成友採録、五冊のうち一)中には「四、同組与力同心屋敷坪数」の個所において「一、与力六拾人惣坪数三万坪、但壱人五百坪宛ニ候得共不同」とある。 早川氏の敷地坪数は、建絵図(大塩焼け以降の分)に記載の数字によれば「間口十五間半三分、奥行四拾四間」とあり、掛け算すれば六百八十坪を超える大きな敷地面積である。
早川氏の敷地が平均値の五百坪よりはるかに大きいことは、慶応三年発行の『御役録』に収載の配置図(正確に測量したものではなく略図ではあるが)その他の史料によっても平均を大きく上回っていることは視覚的にも明らかである。
川崎与力町の旧地には早川氏屋敷ではないがかろうじて門長屋のみが保存されている。しかし、大坂町奉行与力衆の役宅の建絵図は他に見い出せない史料のはずである。
早川家文書と田坂家文書は、門真市大西家文書を経て現在は武藤家文書となっているので建絵図に固有名詞の記載がないことで一瞬は判断に迷ったが、『御役録』その他の史料に収載の配置図によって西与力町の田坂直次郎屋敷が南向き玄関であることが確認できるので、本件建絵図を早川邸と判断した。
大塩焼以前 | 大塩焼以後 |
拡大図
「大坂町奉行与力・早川邸図」