Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.5.18

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「大塩格之助の実家 西田家と本照寺」

その1

大野 正義

『まんだ33号』1988.3 より


禁転載

はじめに

 筆者は昨秋『大坂町奉行与力史料図録』と題する本を出版したが、内容は西組与力の田坂家と早川家の新発見の文書の数々を紹介したものである。その田坂家の菩提寺本照寺に墓参した際、はからずも過去帳及び無縁墓地の中から東組与力西田家の史料を見つけ出す機会を得た。大塩平八郎の養子格之助の実家西田家研究は平八郎周辺の人脈を解明するうえで重要なはずだが、しかし史料不足もあってあまり進んでいない。先発の研究では『大塩事件』第三号(一九七七年三月二十七日発行)に収載の相蘇一弘氏の論文「沢田家文書について」が最新のようであるが、それとても史料不足が否めない。本稿では今回発見の新史料紹介に重点を置くつつも若干の考察を試みることで、後発研究ながらいささかの付加価値としたい。

本照寺

 日蓮宗身延山派の光要山本照寺は大阪府八尾市黒谷六三七−一にあり、住職は三田村宗鳳氏で第二十九世日宗上人と申し上げる。『大阪府全志』には「谷町八丁目」の小見出しのところで「本照寺は同町の北部東側にあり、光要山と号し、日蓮宗本国寺末にして(中略)永禄元年四月二十八日日沾(にってん)の開創なリ」とあり、元は大阪市南区谷町八丁目七−三にあったが「都市計画による地下鉄工事」(本照寺諸堂落慶記念誌)もあって、昭和四十三年五月、郊外の八尾市黒谷に移転した。近鉄大阪線の山本駅で乗り替え信貴山口駅で下車徒歩五分、信貴山麓の風光明媚な地にあって法華経の根本道場としては最適環境にある。

 前掲の『大阪府全志』を初め大阪府文書『寺院明細帳』等には檀家の与力衆、西田家や田坂家について記載もなく、与力衆研究のために近世史の研究者が訪ねたことは皆無である。

 地元の郷土史家も他所から移ってきた寺ということで注目しなかった。

金 石 文

 本照寺を支える檀家の多数は大坂商人、町衆であるが、有力な武家衆としては大坂町奉行与力西組の田坂氏と東組の田坂氏(西組田坂氏の分家)及び東組の西田氏の三家が重きをなしたようである。本堂宝前の一対の花立(高さ三○・五センチ)こ及び線香立(高さ一○センチ)には、三氏が刻銘されており、それを物語る。

 今回発見の西田八郎右衛門(西田家七代目当主で青太夫と格之助の実父)及び西田青太夫(九代目)の墓石はいずれも棹石のみが無縁墓地の中に存在している。七代目西田八郎右衛門の養子で、青太夫と格之助の養父に当る八代目西田文太郎(後、八郎右衛門)の墓は現時点では未発見であった。

 まず七代目西田八郎右衛門の墓であるが、タテニ一センチ、ヨコニーセンチ、高さ五三センチの棹石のみで、正面には

とあり、裏面を狭い隙間からのぞくと

「七代目西田八郎右衛門」とある。

 残念ながら左右両横には他の墓石がぴっしリ隙間なく並んでいるので、彫刻があるのか無いのか不明である。石材は花崗岩で無縁墓群の手前下段部、向って左側に位置している。

 九代目西田青太夫主税の墓は一本の棹石に二名の戒名が彫刻されており夫と妻の二霊一塔形式となっている。タテニ九・五センチ、ヨコ三○・五センチ、高さ七四センチの棹石のみで材質は 花崗岩。正面には

 この勇猛院は『西田家過去帳』によって明治十五年一月十五日死亡であることが確認できるが正面には死亡年月日の彫刻がなく、左右両横と背面にはびっしりと他の無縁塔が隙間なく並んでおり無緑塔群の手前右側中段に埋れて下からは見えない。

 西田家関係の無緑塔は右の外、西田治郎右衛門が施主で四代目西田清太夫(芳種院宗林日敷、元文五年九月十九日没)とその妻(香樹院貞林日実、寛延二年五月二十七日没)の二霊一塔で砂岩の石塔及び西田千之丞正頼の初妻本種院妙縁日起大姉(弘化三年九月四日没)の一霊一塔墓を見受ける。千之丞正頼については後で詳しく論じるが、西田青太夫の惣領で分家の西田家の初代となった人物。


大坂町奉行与力史料図録


「大塩格之助の実家 西田家と本照寺」 目次/その2

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