『まんだ33号』1988.3 より
西田家無縁塔の考証に本照寺の各種過去帳は不可欠である。まず標題『一番過去帳』はタテ三六センチ、ヨコ二三センチ、紙表紙の日別の過去帳で析本。巻未に「慶安五壬辰八月吉日」「摂州大坂光要山本照寺四祖、日圭」とあり、さらに「安政七庚申春修覆之、二十三世日顕代」とある。この過去帳には田坂家の情報の
みで西田家の記載は見られない。
次に標題『二番過去帳』はタテ三五・五センチ、ヨコ二四・六センチ、日別の過去帳で表紙は紙製。巻末には『一番過去帳』と同じく「安政七庚申春修覆之、二十三世日顕」とある。西田家
関係の記載は次の通り。
(四日)宝永六己丑二月、林雪妙好十二才、西田清兵衛娘
(十日)享保四己亥九月、本通院妙恵日深、西田清太夫母
(十六日)宝暦三癸酉十月、幻意核子、西田喜右衛門子
(十九日)元文五庚申九月、芳種院宗林日敷、西田次郎右衛門親(無縁墓地に石塔あり)
(二十一日)元禄八乙亥八月、智性院妙性日了、西田清兵衛内室母
(二十四日)宝永七寅八月、本光院道誉日法、施主西田清兵衛
(二十七日)寛延二己巳五月、香樹院貞林日実、西田次郎右衛門母(無縁墓地に夫の芳種院と一緒の二霊一塔形式の砂岩の石塔あり)
三冊目は布表紙で標題が『上』とある日別折本式過去帳で、タテ三一・五センチ、ヨコ一四センチ。朔日から十五日迄の過去帳で、巻末には開基日沾上人以来廿三世日顕上人迄の略歴記載があリ「営住今村日静」「明治十一年三月」とある。西田家関係は次の通り。
(四日)宝永六己丑二月、林雪妙好、西田清兵衛娘
(四日)弘化三丙午九月、本種院妙縁日起大姉、西田千之丞初妻(無縁墓地に石塔あり)
(六日)寛政八丙辰五月、旭遥孩子、西田八右衛門子
(九日)安永六丁酉歳七月、常光院妙精日円、西田喜右ヱ門母
(十日)寛政十二申六月、妙容孩女、西田文治郎嫡女。(文治郎は西田家八代目当主)
(十日)享保四亥九月、本通院妙恵日深霊、西田清太夫母
(十日)文久元酉二月、智清玉夢嬰女、西日寿三郎娘
(十一日)文久二戌六月、諦聴院妙証日念、西田寿三郎内、
(十一日)明治十丑十二月、本行院正頼日仁居士、西田正頼、五十二才
(十三日)寛政七卯八月、照浄院最正坊日具、西田喜右衛門事(六代目西田喜右衛門頼年)
(十三日)文政元寅三月、本光妙瑞、西田三助養女
四冊目、標題に『下』とある布表紙の折本は同寸で『上』の続きであり十六日から晦日迄となっている。西田家関係分は次の通り
(十七日)明治十五年一月、勇猛院妙頼日行大姉、西田寿三郎母八十一才。(夫の勇智院西田青太夫主税と二霊一塔形式の墓が無緑墓地内にあるのは先述した。西田家文書『由緒書』の記載と併せてこの記事は今回発見の考証にとって重要な情報であった)
(十八日)享和三亥五月、即泡孩子、西田文治郎子
(十九日)元文五申九月、芳樹院宗林日敷、西田次右工門(次郎右衛門は施主の立場)
(二十一日)元禄八亥八月、智住院妙性日了霊、西田清兵ヱ(『二番過去帳』によれば正確には西田清兵衛内室の母であり、西田清兵衛は施主の立場にある。また「智性院」とあり)
(二十一日)慶応二寅三月、仁徳院義頼日勇、東、西田千之丞子
(二十一日)大正十一年八月、本成院究意日等居士、西田瀧三郎事(『西田家過去帳』では瀧三郎は「分家弐代」「本家拾代寿三郎長男瀧三郎」とある)
(二十二日)文政七申七月、本地院宗遠日寿、西田青太夫養父(西田家『由緒書』によれば「西田八郎右衛門、初名文次郎」とあリ「寛政九己年二月十五日山口丹波守組与力見習申渡相勤同年四月十五日養父八郎右衛門跡番代被仰付高井山城守組之節文政六未年七月廿二日病気ニ付番代奉願同日病死仕候」とある。この過去帳の記事とは一年の相違がある。九代目青太夫主税が番代したのは文政六年九月十五日である。この八代目文次郎は気の毒な人で養父の跡をついだ寛政九年の同じ年に養父八郎右衛門に実子青大夫主税が誕生しており自分の子は二人とも早死した)
(二十四日)宝永七、八月、本光院道誉日法、西田清兵ヱ(本光院は西田家歴代の当主には該当せず、西田清兵ヱも施主の立場にある人なのか、本光院その人なのか不明。宝永七年の頃の西田家当主は四代目清太夫で、清太夫の死亡は元文五年九月十九日である。)
(二十四日)天保七申十二月、良然智清童子、西田青太夫(はとけに対する青太夫の立場は施主のはずで、多分青太夫の子であろう)
(二十七日)文政八乙酉七月、演暢院宗義日実、西田青太夫実父(九代目青太夫の実父演暢院の死亡年月日は西田家文書『由緒書』の七代目西田八郎右衛門についての記述と一致している。即ち「俊明院様御代安永五申年三月八日室賀山城守組与力見習勤申渡相勤天明三卯年二月七日土屋駿河守組之節父喜右衛門跡番台被仰付山口丹波守組之節寛政九巳年四月十五日病気ニ付番代奉願文政八酉年七月廿七日病死仕候」の内容と合致しており、院号演暢院の七代目八郎右衛門は九代目青大夫の実父なのである)
(二十七日)寛延二、五月、香樹院貞林日実、西田次郎右衛門(次郎右衛門は施主の立場にある。前述した『二番過去帳』には「西田次郎右衛門母」とあり、無縁墓地内の芳樹院と香樹院夫妻の二霊一塔式墓碑の背面にも「施主西田治郎右衛」とある。「次」と「治」との相違は問題なしと考えてよい)
(二十九日)安永八己亥十月、寂止院妙円日融、西田喜右衛門妻
(二十九日)安政五戊午五月、勇智院頼次日正居士、西田寿三良父(西田家本家拾代が寿三郎であることは分家の西田家過去帳の二カ所に検出されるので、勇智院は九代目西田青太夫主税である)
以上は日別の過去帳だから日付毎に年代が古くから新しい分まで様々である。
五冊目は『新霊記』と題するものでタテニニセンチ、ヨコ十五センチ、本来は上下二冊の冊子本だが一冊本に製本してある。表紙に
「文政四 上下 新 霊 記 七月上句ヨリ」
とあり裏表紙には
「光要山十九世 日遵代」
とある。寺によれば新寂帳とも称し年代傾に死亡者を記帳していく。日遵上人の死亡日は天保元年十二月二十五日。日別遇去帳相互間でも重複情報となっているのに加えてこの『新霊記』の内容は日別過去帳へ転記する以前の元帳的なものだから、全く情報が重複してしまうが貴重な史料のこと とてお許し願いたい。
(文政八年)七月廿七日、演暢院宗義日実、西田青太夫(青太夫は施主の立場である。八代目文次郎、後八郎右衛門死亡は七代目八郎右衛門演暢院死亡の一年前の文政七年か、二年前の文政六年の七月二十二日のことだから施主は西田家九代百当主の青太夫となる)
(天保七年)四月十一日、林仰月霊、西田氏子
(弘化三年)九月四日、本種院妙縁日起大姉、西田千之丞サイ(妻)
(安政五年)五月廿九日引、勇智院頼次日正居士、西日寿三郎父チカル行年六十二才(九代目西田青太夫主税の葬儀の施主は本家十代目の寿三郎で当然である。青太夫長男の千之丞正頼は既に弘化三年五月二十四日、二十一歳の時に「与力明跡江別規御抱入」となっており分家初代として一家をたてている。長
男が分家をたてたのは弘化三年の時点での弟寿三郎の年齢が若過ぎたためである。千之丞正頼の年齢は明拾三十一年九月五日発行戸籍騰本で「文政九戌九月二日生」と確認)
(万延二年)二月十日、智清玉夢嬰女、西田寿三郎娘
(文久二年六月)十一日引、諦聴院妙証日念、西日寿三良内室廿五才
(慶応二年)三月廿一日、仁徳院義頼日勇居士、東、西田千之丞忰
(明冶二年)六月十四日、宣夢水子、西町、西田家子