Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.26

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「大塩格之助の実家 西田家と本照寺」

その3

大野 正義

『まんだ33号』1988.3 より


禁転載

西田家分家の創立

 分家の西田家は青太夫主税の惣領千之丞正頼を初代とし今日迄繁栄している。千之丞正頼が作成した『由緒書』によれば

 父青太夫が格之助の実兄でありながら西田家は厳然と存在し続けるのみか、あまつさえ事件の十年後には新しく与力の家を創立して二軒となり繁栄しているのである。大塩の乱で東組の与力は大塩、瀬田、小泉、大西の四軒が欠けた時は、八田、磯矢、丹羽、荻野の与力衆が各々分家を創立しているが、このタイミングでは西田家に適齢の男子がいないのと事件の熱がさめていないこともあって分家を創立できなかったのは判る。しかしそれに続いて浅羽、田中、阿部(いずれも東組)が断絶し新しく与力の家を創設するチャンスが訪れており十年後には西田家からの分家創立が実現したのだ。形を変えた事実上の大塩家の再興などと評価するのはあまりにも行き過ぎた解釈であるが、しかし平八郎の起した事 件についての評価は早い時期に好転したとはいえないまでも、何らかの変化があったと推理できる。与力衆の家は東西各々三十軒で計六十軒の枠組が幕末まで厳格に守られており、新家の創立は必ず既存の与力衆の中から分家する方式となっている。既得権がこのような守られ方をしている場合は、どのような法理で説明すればよいのだろう。

 分家の西田家の二代目は千之丞正頼の養子千一郎が早世したこともあって弟寿三郎の子瀧之助(後、瀧三郎、弁護士)が二代目となり、瀧三郎に実子が無かったので姉(西田寿三郎の娘)中村ひで(夫、中村包悌)の子三郎を養子にし三代目を継がせた。現在、守口市に御健在の西田はつさんは三代目西田三郎の妻である。四代目捨次郎さんも養子であったがその妻きぬ子さんは西田はつさんの実妹でもある。このように分家の方は家系を伝えているが本家の西田家は十一代竹三郎を最後に男系が断絶している。寿三郎の墓は浜村の鬼子母神(現在は高槻市原)にある。娘が庵主をしていた縁による。

西田家文書

 分家の西田家文書は明治以降の金銭関係分を除いてはわずか十五点を数えるに過ぎない。

 大塩事件の背景研究に有益なのは『由緒書』(タテニ三・三センチ、ヨコ十六・五センチ、全九丁、弘化四未歳作成)、『親類書』(タテ二七センチ、ヨコ八五センチ、元治元子歳作成)、『短柵』(タテ二七・五センチ、ヨコ七・五センチ、明治四年及ぴ五年に作成し明治新政府に提出したもの二点)、『宗旨請状 之事』(タテ二八・五センチ、ヨコ四三センチ、元治元年九月作成分及ぴほぼ同寸で安政三年九月作成分の二点)、同じく冊子の『宗旨請状之事』(タテニ五センチ、ヨコ十七・五センチ、全戸三丁)、『戸籍騰本』(明治参拾壱年九月五日発行)、『西田家過去帳』(仮題、タテ三三センチ、ヨコ十五センチ、木製漆塗 表紙、折本)等であろう。それらを原本に則して忠実に翻刻していは紙数も不足し冗長になるので次のような『西田家歴世表』に総括してそれに代える。

(大塩事件研究会々員)


西田家歴世表 (参考資料)

歴世本名通称名等出生見習番代退番死亡戒名実父実母
伊兵衛寛永3寅3月寛文元丑5月寛文11亥4月5日
清兵衛寛文元丑元禄5申2月元禄9子7月2日
郷右衛門元禄5申2月元禄9子3月元禄9子3月25日
清太夫元禄9子5月享保21辰2月元文5申9月19日芳樹院宗林日敷香樹院貞林日実
次郎右衛門享保21辰2月29日宝暦8寅11月朔日安永4未3月26日本珠院精光日耀芳種院
清太夫
香樹院貞林日実
頼年喜右衛門寛延2巳4月2日宝暦8寅11月朔日天明3卯2月朔日寛政7卯8月13日照浄院最正坊日具寂止院妙円日融常光院妙精日円
八郎右衛門安永5申3月8日天明3卯2月7日寛政9巳4月15日文政8酉7月27日演暢院宗義日実
文次郎
八郎右衛門
寛政9巳2月15日寛政9巳4月15日文政6未7月22日文政6未7月22日本地院宗遠日寿
主税青太夫寛政9巳文化10酉2月19日文政6未9月15日安政5午5月29日
  62歳
勇智院頼次日正青山伊賀守家来
森田九右衛門娘
勇猛院妙頼日行
演暢院
  八郎右衛門
10寿三郎明治38巳10月27日清寿院頼勝日常諦聴院妙証日念
  25歳
勇智院
  青太夫主税
勇猛院妙頼日行
分家
初代
正頼千之丞文政9戌9月2日天保10亥3月19日弘化3年5月24日
別規御抱入
明治10丑12月11日本行院正頼日仁初妻、本種院妙縁日起
後妻、ぬい(本正院)
勇智院
  青太夫主税


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