Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.10.5

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「大坂町奉行与力西田家文書等について

―与力史料評価視点の転換を求めて―」

その19

大野 正義

『大塩研究 第29号』1991.3 より


禁転載

七、与力衆の資金運用 (4)

〔八田家文書〕

 次に、八田家文書に右の視点の補強史料を求めたい。八田家文書では現在までのところ直接的な借金の証文は検出していない。しかし、関連史料として、明治六年四月発行の地券之証の写二点が残っている。これは、八代目当主の八田良成が明治八年一月十二日に死亡したのに伴い、妻の毛登(松平遠江守の家臣、堀小三郎の娘)が明治十年二月に名前切換えの際に整えた文書群の控の中から検出されたものである。それによれば、河州日下村において、「田、壱町五段五畝拾弐歩、此高拾七石六斗四升六合」「畑、三段五畝歩、此高弐石九斗九升壱合」「屋敷地、六畝歩、此高六斗壱升弐合」(以上は第百三十六号の地券)、及び、「小池反別壱畝歩、此高九升」(第十七号の地券)もの不動産を所有していた。

 これらの土地取得がいつの時点であったかは証文が残っていないので不明である。正式に土地売買の禁制が解除されたのが、明治五年二月のことだから、それ以降に所有権移転があったのか、あるいは旧幕時代に質流れで事実上所有していたのか不明である。しかし、いずれにせよ土地と金銭は現象形態が異なるように見えても、本質的には同一のものである。資金運用の手法として土地が選ばれることは現代でも当り前のことである。余裕資金を土地に投資してその年貢収入を消費すれば、財座は恒久的に保持できる。利殖の一形態にすぎない。維新後多くの士族が経済的に逼塞していく中で、旧与力衆は逆に繁宋しているのである。これは、明治になってからマネービルに成功した例外的なケースとして説明すべきものだろうか。旧暮時代にタンス預金していたお金を、明治に入ってからは旧与力の経済と全融の知識を生かして公然と利殖しはじめて大いにもうけた、と理解すべきなのか。金は回転してこそ真に機能を発揮するという知識を経済官僚としてよく承知しながら、幕未までは、ひたすら禁欲してタンス預金に専念していたのだろうか。

 さらに注目すべきは、茂登未亡人は明治十五年二月十九日付で、金拾二円で畑地壱畝歩と山林八畝歩とを、同じ日下村内で買い増しているのである。この『売渡証券之」は原本で残っている。さらに、明治十五年四月十五日付の『約定証書之事』においては「金六拾円也」の契約で、自己所有に係る溜池の土地改良工事を実行しているのである。ようするに地主として土地経営に積極的だったのである。八田家の家風に資金運用なり、資産運用なり、利殖の家風がなければ、未亡人としての思いつきで、急に大胆な資産管理ができるはずがなかろう。


「大坂町奉行与力西田家文書等について」
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