Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.6.28訂正
2002.6.22

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大塩の乱関係論文集目次


「大坂町奉行与力西田家文書等について
―与力史料評価視点の転換を求めて―」

その4

大野 正義

『大塩研究 第29号』1991.3 より


禁転載

四、本照寺過去帳

 西田家無縁塔の考証に本照寺の各種過去帳は不可欠である。まず、標題『一番過去帳』はタテ三六・〇cm、ヨコ二三cm、日別の折本仕立ての過去帳で、表紙は紙製である。巻未に「慶安五壬辰八月吉日」「摂州大坂光要山本照寺四祖、日圭」と記載されている。さらに「安政七庚申春修覆之、二十三世日顕代」とあるが、この過去帳にほ田坂家関係の情報のみで西田家関係分はない。

 次に、標題『二番過去帳』はタテ三五・五cm、ヨコ二四・六cm。これも折本仕立、日別の過去帳で、表紙は紙製である。巻末には「安政七庚申春修覆、二十三世日顕」とある。この過去帳には西田家関係の記載が七件も見られる。大塩事件との関連性は薄くても、西田家の全体像解明のためには貴重な史料なので次に示す。

(四日) 宝永六己丑二月、林雪妙好十二才、西田清兵衛娘
(十日) 享保四己亥九月、本通院妙恵日深、西田清太夫母
(十六日) 宝暦三癸酉十月、幻意核子、西田喜右衛門子
(十九日) 元文五庚申九月、芳種院宗林日敷、西田次郎右衛門親(無縁墓地に石塔あり)
(二十一日) 元禄八乙亥八月、智性院妙性、日了、西田清兵衛内室母
(二十四日) 宝永七寅八月、本光院遣誉甘法、施主西田清兵衛
(二十七日) 寛延二己巳五月、香樹院貞林日実、西田次郎右衛門母(無縁墓地に夫の芳種院と一緒の二霊一塔形式の砂岩の石塔が残っている)

次に三冊目の過去帳であるが、標題が『上』とあるのは、上下二冊の内の上巻という意味である。布表紙製本の日別の折本式の過去帳で、タテ三一・五cm、ヨコー四・〇cm、朔日から十五日迄の過去帳である。巻末には開基日沾上人以来廿三世日顕上人迄の略歴記載があり、「営住今村日静」「明治十一年三月」と明記されている。西田家関係の史料は次の通りであるが、前掲史料と同一の情報内容であっても、あえて掲出したい。

(四日) 宝永六己丑二月、林雪妙好、西田清兵衛娘(二番過去帳でも検出)
(四日) 弘化三丙午九月、本種院妙縁日起大姉、西田千之丞初妻(無縁墓地に石塔あり)
(六日) 寛政八辰五月、旭遥孩子、西田八郎右衛門子
(九日) 安永六酉歳七月、常光院妙精日円、西田喜有ヱ門母
(十日) 享保四亥九月、本通院妙恵日深霊、西田清太夫母
(十日) 寛政十二申六月、妙容孩女、西田文治郎嫡女(文治郎は西田家八代目当主で、大塩格之助の実父)
(十一日) 文久二戌六月、諦聴院妙証日念、西田寿三郎内
(十一日 明治十丑十二月、本行院正頼日仁居士、西田正頼、五十二才(西田家分家初代の干之丞)
(十三日) 寛政七卯八月、照浄院最正坊日具、西田喜右衛門事(六代目西田喜右衛門頼年)
(十三日) 文政元寅三月、本光妙瑞、西田三助養女

 以上の情報の内、西田喜右衛門情報については西田家由緒書等の記事と併せ、大塩事件関係者の人物情報を豊富にする。相蘇氏が紹介した『沢田家親類書』や『西田家親類書』との比較検討も可能となる。

 次に四冊目の過去帳であるが、標題に『下』とあり、『上』の続きとして、十六日から晦日迄の記載がある。『上』と同じく布表紙製本の日別の週去帳であり、寸法も同一である。西田家関係分は次の通りである。

(十七日) 明治十五年一月、勇猛院妙頼日行大姉、西田寿三郎母八十一才。(夫の勇智院西田青太夫主悦と二霊一塔形式の墓が無縁墓地にあるのは先述した)
(十八日) 享和三亥五月、即泡孩子、西田文治郎子(養子に来た八代目西田八郎右衛門の西田家における動静を伝える情報である)
(十九日) 元文五申九月、芳樹院宗林日敷、西田次右衛門(次郎石衛門の「郎」が脱落している。次郎右衛門は施主の立場にあり、芳樹院宗林日敷は『二番過去帳』の記載にもある通り「次郎右衛門親」の位置にある。)
(二十一日) 元禄八亥八月、智性院妙性日了霊、西田清兵ヱ(『二番過去帳」によれば、正確には西田清兵衛内室の母であり、西田清兵衛は施主の立場にある)
(二十一日) 慶応二寅三月、仁徳院義頼日勇、東、西田千之丞子
(二十一日) 大正十一年八月、本成院究意日等居士、西田瀧三郎事(『西田家過去帳』では、瀧三郎は「分家弐代」「本家拾代寿三郎長男瀧三郎」とある)
(二十二日) 文政七申七月、本地院宗遠日寿、西田青太夫養父(西田家『由緒書』によれば、「文政六未年七月廿二日病気ニ付番代奉願同日病死」とあるが、この過去帳の記載の方を信用すべきであろう)

(二十四日) 宝永七、八月、本光院道誉日法、西田溝兵ヱ、(本光院は西田家歴代の当主には該当せず、また、西田清兵ヱも施主の立場に置かれた人物なのか本光院その人なのか不明である。二代目当主の西田清兵衛は元禄九年七月二日に死亡し、三代巨西田一郷右衛門も元禄九年三月二十五日に死亡している。宝永の前後は四代目溝太夫の時代で、清太夫の死亡は元文五年九月十九日、かなり後年のことである)
(二十四日) 天保七申十二月、良然智清童子、西田青太夫(ほとけに対する青太夫の立場は施主のはずで、この童子は多分青太夫の子であろう)
(二十七日) 文政八乙酉七月、演暢院宗義日実、西田青太夫実父(九代目青太夫の実父演暢院の死亡年月日は、西田家文書『由緒書』の七代目西田八郎石衛門についての記述と一致している。すなわち「山口丹波守組の節寛政九」年四月十五日病気ニ付番代奉願支政八酉七月廿七日病死仕候」の内容と合致している)

(二十七日) 寛延二、五月、香樹院貞林日実、西田次郎右衛門(次郎右衛門ほ施主の立場にある。前掲の『二番過去帳』には「西田次郎右衛門母」とあり、無縁墓地内の芳樹院と香樹院夫妻の二霊一塔式墓碑の背面にも「施主西田治郎右衛門」とある。「次」と「治」との相違は問題なしと考えてよい)
(二十九日) 安永八己亥十月、寂止院妙円日融、西田喜右衛門妻
(二十九日) 安政五戊午五月、勇智院頼次日正居士、西田寿三良父(西田家本家捨代当主が寿三郎であることは、分家の西田家過去帳の二カ所に検出されるので、勇智院は九代目西田青太夫主税である)以上は日別の週去帳だから、日付毎に年代が古いものも新しいものも入りまざっている。

 次に五冊目の過去帳は『新霊記』と題するもので、タテニニcm、ヨコ十五cm、本来は上下二冊の冊子本だが、二つ合せて一冊本に製本してある。表紙には、

とあり、裏表紙には 「光要山十九世 日遵代」 とある。この形式の過去帳は、お寺によっては『新寂帳』とも称し、年代順に死亡者を記帳していくものである。帳面の性格としては、日別の過去帳へ転記する以前の元帳的なものといえようか。したがって、前掲の日別過去帳とは当然のことながら情報が重複してしまうが、史料相互間で情報を補強し補完するので、西田家関係で検出された史料は全て紹介しておく。

(文政八年) 七月廿七日、演暢院宗義日実、西田青太夫(青太夫は施主の立場にある。八代目当主の文次郎、後に八郎右衛門の死亡は、七代目当主だった八郎右衛門すなわち演暢院死亡の一年前の文政七年か、二年前の文政六年の七月二十二日のことだから、文政八年の時点では青太夫は施主の立場におかれている)
(天保七年) 四月十一日、林仰月霊、西田氏子
(弘化三年) 九月四日、本種院妙縁日起大姉、西田千之丞サイ(妻)
(安政五年) 五月廿九日引、勇智院頼次日正居士、西田寿三郎父チカル事行年六十二才(九代目西田青太夫主税の葬儀の施主は本家十代目の寿三郎だから「寿三郎父」という表現になる。青太夫長男の千之承正頼は、すでに弘化三年五月二十四日、二十一歳の時に「与力明跡江別規御抱入」となり、分家初代として一家をたてた。)
(万延二年) 二月十日、智清玉夢嬰女、西田寿三郎娘(文久二年六月)十一日引、諦聴院妙証日念、西田寿三郎内室廿五才
(慶応二年) 三月廿一日、仁徳院義頼日勇居士、東、西田干之丞忰
(明治二年) 六月十四日、宜夢水子、西町、西田家子

 以上が本照寺の過去帳五冊の中から検出された西田家関係の情報の全てである。


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