Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.6.28訂正
2002.6.15

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大塩の乱関係論文集目次


「大坂町奉行与力西田家文書等について

―与力史料評価視点の転換を求めて―」

その3

大野 正義

『大塩研究 第29号』1991.3 より


禁転載

三、本照寺金石文

 本照寺を支える檀家の多数は大阪商人であるが、有力な武家としては、大坂町奉行西組の田坂氏と東組の田坂氏(西組田坂氏の分家)および東組の西田氏の三家が重きをなしていたようである。本堂宝前の花立(高さ三〇・五cm)および、線香立(高さ一〇cm)に右の三氏が刻銘されておりそれを物語る。

 発見した史料の内、特に重要なものは無縁墓地群の中にあった。西田家七代目の当主西田八郎右衛門の墓石や、九代目当主西田青太夫主税の墓石がそうで、棹石のみが無縁墓地の中にあった。 〔七代目八郎石衛門の墓)  まず、七代目西田八郎右衛門の墓であるが、タテニ一cm、ヨコ二ーcm、高さ五三cm、棹石のみで、正面には

「    文政八乙西歳
 妙法 演揚院宗義日甘居士
     七月二十七日」

とあり、裏面を狭い隙間からのぞくと
「七代目西田八郎石衛門」と、俗名が刻まれている。

 残念ながら左有両横には他の墓石がびっしり隙間なく並んでいるので、彫刻があるのか無いのか、さっぱり判らない。石材は花崗岩で、無縁墓石群の手前の下段部分、向って左側に位置している。墓石に七代目と刻まれているけは有難いことで、西田家の『由緒書』や『週去帳』など、関連史料を総合比較する際に指標固定効果がある。

(九代目青太夫主税の墓)

 九代目当主西田青太夫主税の墓は、一本の棹石に二名の戒名が刻まれており、夫と妻の二霊一塔形式となっている。タテ二九・五cm、ヨコ三〇・五cm、高さ七四・〇cm、これも棹石のみで材質は花崗岩である。正面には、

「    安政五戊午年五月廿九日
 妙法 勇智院頼次日正居十
     勇猛院妙頼日行大姉」

とある。この勇猛院は『西田家過去帳』によって、明治十五年一月十五日死亡であることが確認できるが、正面には死亡年月日が刻まれておらず、左石両横と背面にはびっしりと他の無縁塔が隙間なく並んでおり、無緑塔群の手前右側中段に埋れて、下からは見えない。

(その他の西田家関係無縁塔)

 西田家関係の無緑塔は、右の外に西田治郎右衛門が施主で、四代目西田清太夫(芳種院宗林日敷、元文五年九月十九日没)とその妻(香樹院貞林日実、寛延二年五二十七日没)の二霊一塔形式の石塔が見つかっている。 材質は砂岩で破損が著しい。加えてもう二基、西田千之丞正頼の初妻である本種院妙縁日起大姉(弘化三年九月 四日没)の一霊一塔墓を見愛ける。千之丞正頼については後で群しく紹介するが、西田青太失の長男で分家の西田家の初代となった人物である。


「大坂町奉行与力西田家文書等について」 目次/その2/その4

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