その6
三村清三郎編 (竹清 1876−1950)
『日本芸林叢書第8巻』六合社 1928 収録
天保四年十二月十四日附 平松楽斎宛 |
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六日付之貴翰、当十一日着拝見仕候、隆寒弥御佳□被成御興居、奉恭寿候、然は二茫全集差出候義に付、御叮寧に被仰下、承知、価一円金慥落手仕候、右ニて宜御座候、御書面之御様子ニては、跡二歩其 賢丈夫*1并鳥谷氏へ御約束も御座候事之由、扨々気之毒千万ニ御座候、遠方知音并手元之社友共へ頒配いたし候故、尚篤与勘弁、幸愚息へ遣し候一部、手元へ為差出、 |
案 鳥谷宗吉、名は粲、 字は精白、安永六年五 月ー日生、松阪平生町 の人、細合半斎門人に て、号を南山といふ、 儒にて煎茶に精し、嘉 永二年八月十二日七十 三にて歿す、松阪樹教 寺に墓あり。 |
(此度一緒にと書置候得共、書状は三日、本ハ六日限、別ニ差出候、無益之飛脚賃之費も道ニ背き候付、□□義ニ御座候、敢て倹吝には無、御明恕可被下候) |
案 此二條原本朱にて、 行間へ書入れありたり |
一 先便鳥谷宗吉長谷川次郎兵衛義ニ付被抑下候、厥後右両家より文通御座候、尊者 |
案 長谷川次郎兵衛は 松阪の豪商にて江戸大 伝馬町に木綿店を開け り次郎兵衛は世襲の名 なれど、此時の人は、 名は元貞、字は禎卿、 薙髪して六有といひし 人なるべし、俳句、詩 歌茶香などに通ぜり、 安政五年四月四日六十 三にて歿し、其地清光 寺に葬る、大塩の手紙 ありしが、乱後禍を恐 れて焼捨てし由、其家 にて言伝ふ。 案 至論 |
一 御従弟様ニ隷候手代中亡命ニ付、尊者伊州へ急ニ御趣のよし、良心を失ひ候御手代と相見、人に難を掛候而已ならす、他人迄難を掛候は、全孝之一字を不被弁より相起候義と相見、気之毒千万奉存候。御文中ニ御慎有之と申義関念仕候、如何之事ニ候や前件手代中之義ニ候はゝ無子細、外事に候はゝ幸便御聞せ安心仕度候、 |
案 仕度なるべし |
一、備藩ニ執法石黒某と申仁所持、藤樹先生致良知之三字、巻軸にいたし、年未諸家之跋候よしにて、夫々染筆相嵩、既ニ両巻ニ相成候、当十一日、鄙生へも跋頼来、不外事ニ付、別帋写候通、早速相認、長文なから巻軸へ汚、相還申候付、右にて致良知之要、御推察可被下候、不苦候はゝ、学術之異同ニ不拘、賢大夫初川村斎藤両君ヘも御見せ可被下候、且真に致良知候は其難キものに御座候、諸儒ニ忌嫌も道理ニ御座候中々父母ニ孩提之愛を真実に尽し候は出来難ク、しかし古昔之聖賢、近古之大儒輩、万事万善共に孩提之愛より生出来候、君子務本、本立而道生、孝悌其為仁之本与ニて、道は本より生候、本は孝悌ニ而、孝之一字ニ止り、孝は赤子知愛親之良知ニ御座候、今時之儒輩、皆其愛を失ひ候て、別段ニ孝弟を造築し来候もの多ク、毫釐千里之誤、只此処之微ニ御座候、藤樹先生之躬行心得も、只此孝之一字ニ御座候、尊者之孝経小本御彫刻も甚美事、然ル処は名の為にあらす、又利之為ニあらす、孩提之愛心より生し候而、尚又今ニも其愛を不失様ニと、真誠惻隠之誠意より出来候義ならは、矢張御自分天稟之良知を御欺不被成候儀ニ御座候、もし真誠惻隠より不出候て、別ニ孝を御尽し之事ニ候はゝ、義襲外求之功相成可申候、尊者ニおいて、決而左様之義は無之候、左すれば赤心之良知良能之発見、充満いたし候義ニて有之、外人博学弘聞之人ニても、此処之微ニ至るニは、実に行而不著、習而不察、百姓は日用而不知勝ニ御座候、鄙文御覧、此思召を以御察し可被下候、今之学者、千石万石十万石百万石之利、前ニ来候はゝ、驚喜必心動キ申候、又一害十害千害万害、後ニ追候はゝ恐怖必其心動キ申候、是皆心術之微処より工夫を不致、淡々文字訓詁ニ力を尽し、道を得候と心得違、肝要之孝上より心力を不尽候付、十か九迄如此ものニ御座候、何れニ孝より不来候ては、天地間之一人ニは難成候、生前皆々自分賢人君子を以相許候得共、棺を蓋し候はゝ、実ニ草滅烟亡いたし、不誠無拘之験ニ御座候、鄙生之誠は如斯存居、鄙夫之言必信行必果とは、聊意味違ひ候間、 |
案 岡山の執政石黒貞 度通称藤兵衛、南門と 号す。 案 利は人の喜ぶ所な り其道を以てせざれば、 取らざる丈のこと也、 害は人の怖るゝ所、其 義に於ては避けざる丈 のこと也、元来心は動 くもの也、動くからこ そ尊き也、心を木石に する様な馬鹿なことが 出来てたまるものに非 ず、若し出来た様に見 ゆることあれば、それ は其時の境遇が、さう させた迄の事にて、境 遇に変化がくると動き 出すなリ、不動心と申 すことは、動くは動く 儘にして、そこが不動 心也、動かぬ心などと 申ものが別にあるべし などゝ心得違して、焦 る故、とう\/神経衰 弱になつて、あんなこ とを仕出かしたるなら む、きの毒なる事なり |