『大塩研究 第41号』2000.3より転載
大塩の乱決起の二月十九日を中心にして、二月十七日より二十一日までの五日間、大塩事件研究会主催、天神橋筋商店街の協力、沢田鉄砲隊の特別出演もあって盛况の内に無事終了することが出来た。
短期間での準備でもあり、果してどれだけの人が集まってもらえるのか不安があったが、新聞各紙の記事や,NHKや大阪テレビでの報道の効果もあり、予想をはるかに超える多くの方が展示場へ、また座談会に、日曜日には史跡を歩く集いにと参加され、五日間で延べ千二百人を数える盛况であった。
本会場での事件関係者子孫の、熱気に満ちた座談会の詳細は「大塩研究」42号で明らかにされると思うので、第二会場での話の二、三を紹介すると
h「大塩事件が明治維新のきっかけとなったのは良いが、なぜ天満宮まで焼いたのか」
i「大塩父子が四十日近く隠れていて、何がきっかけで見つかったのか」
j「大塩父子を初め一族が死罪になったのに、何故ここに大塩さん(司会者である私のこと)がいるのか」
などなど矢継ぎ早の質問が相次いだ。
座長と司会者で分かる範囲は適切に回答している内に雰囲気も和やかになってきたのでほっとし、又このような話し合いの機会を作りたいのでと言うことで、どうにか納得してもらう事が出来、展示場の方をゆっくり見て下さいと案内して事なきを得た。
又、沢田氏所有の古式大炮や古式銃、棒火矢、炮烙玉が五日間会場の中央に展示され珍しさを誘った。
商店街の端までは、演技を終えた鉄砲隊を先頭に出発し、酒井会長、井形副会長、和田委員の案内で成正寺 →連興寺→天満宮 → 川崎東照宮跡 →洗心洞跡碑 → 与力役宅門(改築中)などを二時間半に亘って歩き、無事イベント会場へ帰還した。
尚、この期間中マップ「大塩の乱の跡をたどる」を中心に、檄文や書籍など計二百点を販売した。
更に、朝岡助之丞邸跡に十六年前まであった槐(えんじゅ)の古木の切り株を、和泉市御在住の朝岡氏が国重刄物店中央に出品され、期せずして百六十三年振りで平八郎の愛刀と面会する事となったのは、意義深いことである。
私も論文の入力を少々お手伝いしたこともあり、開設を心待ちしていた一人である。内容もこれから追々充実していくとのことで更に楽しみである。
私はこれまで、偶然なのか近隣、学校、職場での六十有余年、大塩姓の人と一度も一緒になったことがなかったことから、何かどきっとするような気がした。
また大阪市内の会社々長が、平八郎後素の直筆と鑑定されている書や、王陽明など三本の軸を持参された。大阪でもまだこのような貴重な資料が埋もれていることにこれからの発掘が期待される。
10才代から80才代と幅広く来られ、60才代が最も多く 次いで50才代であり、男78%、女22%の比率である。
二、催しを知ったのは、新聞が40%と最も多く、商店会誌「あるっく」は16%で、通りがかって入った人もかなりある。
三、大阪市内から来た人が殆で、他府県からの人は14%と少なかった。
四、大塩の乱展に始めて来た人が85%と常連を凌いだ
五、展示品で関心の高かった順では、古文書35%、写真23%、鉄砲類18%、書籍13%、槐の木とホ−ムペ−ジが5%であり、古文書への関心のさが伺える。
六、「展示会を見ての感想は」の問に、少し解かった人46%、よく解かった人44%と半々だった。
会期中に研究会への入会申込みが四名あり、外に古文書を読む会を一度覗かせてもらえないか、等の申し出も数人あった。
また成正寺様始め、商店会の土井年樹会長、「あるっく」の井上彰編集長、MONO−GOTO館の井勢事務局長、鉄砲隊沢田会長ほか多くの方々の力強い御協力に感謝申し上げる次第です。
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