Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.2

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の乱に大阪に赴く」

大坪武門

『幕末偉人斎藤弥九郎伝』
(京橋堂書店 1918) 所収

◇禁転載◇



四、大塩平八郎の乱に大阪に赴く

 天保八年丁酉二月十九日、大塩平八郎、兵を大阪に挙げて乱を醸し、事態重大なるに及ぶや。弥九郎馳せて大阪に到り、平八郎の徒を剿滅せむと謀りたり。

 大塩平八郎、名は後素、字は不起、平八耶は其の通称にして中斎と号す。深く学を好みて陽明学の蘊奥を極め、大塩中斎と云へば一派の学者として、児童も其の名を知れり、而も身分は纔に大阪天満組の一与力たるに過ぎず。身は纔に市井の一与力にして、其の躯幹亦矮小なりと雖も、胆斗の如く、才能凡ならず、気宇宏潤、音吐朗々、眼光爛々として人之正視する能はず。文は陽明の神髄に徹し、武は槍術剣術の奥儀を極め、歳二十二にして与力に出仕するや、頗る経綸の才あり、策を時の町奉行に献じて大に文武の道を奨励し、三年にして悉く士風を革めたり。此に於て奉行高井山城守、平八郎の用べきを知り之を抜擢して吟味役となし、奉行の最高顧問役たらしむ。平八郎乃ち山城守の知遇に感激し、大に之に酬いむが為めに日夜身一命を賭して公事に尽し、多年の積弊を一掃して山城守の為めに其の治を挙げ、市民亦平八郎の徳を称へて大塩様と呼ぷに至れり。斯くて山城守十数年にして頽齢の故を以て職を退くや、平八郎亦死生を共にするの意を以て業を養子格之助に譲り、身は退隠して予て好める学事に没頭して亦余念なし。

 然るに高井山城守の後を受けて来れる跡部山城守は、平凡の俗吏に過ぎずして心を下に用ゐず、人を用ふる亦其の器を以てせざりけれぱ、人心更に之に帰せずして、時に私利行はれ、衆怨の府となることすらあり。偶々、天保二年辛卯以来、四時順ならず、五穀稔らざるのみか、洪水、地震、海嘯、噴火等の天変地妖到る処に起り、同七年丙申に至りて飢饉最も甚しく、餓野に満ちて、酸鼻目を掩はしむ、其の大阪市中に於ける如き、行人皆飢ゑて路傍に倒れ、之を負ひて運ぱんとする隠坊も共に路上に斃るゝの惨状を呈し、其の惨見るに堪へず。而も奉行跡部山城守は空しく官稟を閉ぢて之を救済せざるのみならず、明年、将軍、職を世嗣に譲るの事あれば、其の用米に充てざる可らずご称して、阪地の貯米を悉く江戸に廻送しければ、平八郎大に之を憤慨し、奉行に迫って敢て救恤の事を行はしめむとせしも、奉行荏苒之を諾せず。平八郎乃ち俗吏の頼むべからざるを見、同志に謀りて自家世禄の与力の株を典して、鴻池其の他の豪商より金一万両を借り、之を以て餓民を救恤せんとせしが、これ亦奉行の圧迫と、豪商等の貪慾とより其の意を果さず、仍て平八郎最後の手段として、命にも替へ難き愛蔵の書籍五万部を悉く売却し、其の金を約一万戸に頒つて一時の急を凌がしめぬ。

 斯の如き非常の惨事に会して、平八郎が空挙何の為すところかあらむ。之を救はむには宣しく上司の手を俟たざる可らず。而も幕吏は斯の天下る如き、行人皆飢ゑて路傍に倒れ、之を負ひて運ぱんとする隠坊も共に路上に斃るゝの惨状を呈し、其の惨見るに堪へず。而も奉行跡部山城守は空しく官稟を閉ぢて之を救済せざるのみならず、明年、将軍、職を世嗣に譲るの事あれぱ、其の用米に充てざる可らずご称して、阪地の貯米を悉く江戸に廻送しければ、平八郎大に之を憤慨し、奉行に迫って敢て救恤の事を行はしめむとせしも、奉行荏苒之を諾せず。平八郎乃ち俗吏の頼むぺからざるを見、同志に謀りて自家世禄の与力の株を典して、鴻池其の他の豪商より金一万両を借り、之を以て餓民を救恤せんとせしが、これ亦奉行の圧迫と、豪商等の貪慾とより其の意を果さず、仍て平八郎最後の手段として、命にも替へ難き愛蔵の書籍五万部を悉く売却し、其の金を約一万戸に頒つて一時の急を凌がしめぬ。

 斯の如き非常の惨事に会して、平八郎が空挙何の為すところかあらむ。之を救はむには宣しく上司の手を俟たざる可らず。而も幕吏は斯の天下の惨状と斯の義人の血涙とを見乍ら、尚ほ冷然として手を下さず。遂にほ京都へ貢輸すべき米穀をも之を止めて江戸に廻送するに至りければ、 京都の市中また餓累々、死者六万を算するに及びぬ。平八郎、此に於て怒髪天を衝き罵つて曰く「幕吏何ぞ江戸に厚くして京都に簿きや。幕府の王室を観る斯の如くむば、斯の至重の神国を如何せむ。而して京都は由来山国の地、他よりの廻米なくしては其食を得られざるに、我が大阪の奉行にして斯の如く、輦轂の下の住民をして相踵いで斃れしめば、万一宮廷に事あらむ時、誰か能く之を守るものぞ」と。平八郎即ち意を決して起ち、摂、河、泉の地方に檄して同志を集め、鉄砲、大筒の類をも用意して時期の到来を待ち、遂に卒然兵を挙げ、天照大神宮、八幡大菩薩の旗風募ましく押進み、先づ徳川氏の廟所建国寺を破壊し、乱に乗じて火を附近の民家に放ち、さすが殷賑の都浪花の地を、見る\/修羅の巷と化せしめ、其の中を潜りて豪商鴻池、島村、三井等の邸宅を襲ひ、倉庫を開き、取り出したる金銀米穀を、地上に撤布して窮民の拾ふに任せしが、窮民は却つて之を捨ふて為すところを知らず、寧ろ兵火の惨を呪ふに至りて、平八郎流石に其の為すところを過ちしの感に打たれざるを得ざりき。

 平八郎は今や騎虎の勢、其の乗ずる処まで行かざるを得ず、一味の兵は僅に数百に過ぎざれども、破竹の勢ひは大阪奉行の勢力を以て抑ふべくもあらず、遂に大阪城代土井大炊頭、近国諸藩の兵をも麾いて之に当るに至りしが、事刻々に幕府に聞えて、上下驚愕措くところを知らず、殊に江戸其の他の軍中の窮民之を聞きて乗ずべしとなし、諸処に峰起して破壊を始むるに至りければ、今や禍乱は到る処に起り、其の惨、却つて飢饉に勝るものあるに至りぬ。弥九郎此の時韮山に在り、偶々急使の阪地の一乱を報ずるを聞くや、弥九郎嗟嘆之を久しくして曰く「平八郎何ぞ事を過つの基しき。われ固より其の心事を諒とす、事、助くべくむば一命を彼に附与して惜まずと雖も、乱を構へて上に抗し、火を市中に放ちて良民をも併せ苦しましむるに至りては、われ如何で之に左袒するを得べき。縦令、平八郎一味の為すところ、能く善悪を差別せむも、無頼の徒、無智の餓民之に加はらば、其の及ぼす所の影響幾許ぞや。是れ平八郎の為めに惜むべく、天下の為めに悲むべし。而して今や騷乱は江戸其の他の都市にも及ぶに至りては、洪手傍観すべきにあらず。われ平素、学を以て、人物を以て平八郎に推服措かずと雖も、事此に至りては、天下蒼生の為めに、涙を揮つて馬稷を斬らざるべからず」と。乃ち弥九郎。太郎左衛門に謀り、往いて平八郎を討たむとす。太郎左衛門曰く「君の言、可、宜しく速に往け」と。弥九郎乃ち軽装身を調へ、即時起つて疾駆西に下り、不眠不休三昼夜にして大阪に達せしが、是より先、平八郎等は士気益々振ひ、向ふ所殆ど敵なきの有様なりしも、城代の援兵市中 に出動するに及びて頗る苦戦に陥り、遂に残兵百に満たざるに至りければ、一時兵を収めて再挙を謀るの有利を思ひ、先づ衆を解散し、身は股肱数人と共に逃れて船中に潜伏し、後窃に上陸して阿波座堀の知人某の家に在りしが、遂に捕吏の知る所となり、衆を督して包囲せしかば、平八郎父子は自ら爆裂弾を投じ、硝煙濛々たる中に屠腹して死せり。時に同年三月二十六日、弥九郎大阪に着するの前一日なりき。

 後平八郎の残徒、太郎左衛門の管下なる甲州及武相二州の近境に潜匿せりとの報あり。速に其の余蘗を刈らざるべからずと、輙ち太郎左衛門、弥九郎の両人相牒して、斉しく身を刀剣商に装ひ、管内を隈なく微行し、探索に努めたり。

 後太郎左衛門自ら其の旅行の様を画き、現に江川家に所蔵せり、岡本黄石題して

 由来甲州は治め難きの地、人民奸智に長け、無頼の徒多く、新代官赴任の際は、其の才幹を見る為め、私に訴事を作りて処置如何を試み、或は党を設け群をなして強訴をなす等、風習甚だ宣しからざろを以て、太郎左衛門と弥九郎とは、事に托して管内の民情を視察するに至れるなり。後松本斗機蔵より弥九郎に寄せたる書に曰く

 天保九年戊戌八月、年来江川家に尽した功績不尠に依り、特に賞詞あり。曰く

江川太郎左衛門より弥九郎に贈りたる書翰

 天保九年戊戌三月、飯田町火を失し、延焼して、弥九郎の道場も烏有に帰するに至れり。依つて更に地を今の靖国神社境内なる三番町に相し(現今大鳥居より遊就館一帯の地域なり)太郎左衛門に告げて、其の援助を得、道場を再築したり。町治元年戊辰、招魂社地内となるに及び、牛込見附内に移転せり。


藤田東湖「浪華騒擾記事


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