森 鴎外 (1862−1922)
『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収
門外に来てゐるのは二人の少年であつた。一人は東組町同心吉見(よしみ)九郎衛右門の伜英太郎、今一人は同組同心河合郷左衛門の伜八十次郎と名告つた。用向は一大事があつて吉見九郎衛右門の訴状を持参したのを、ぢきにお奉行様に差し出したいと云ふことである。
上下共何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。門番は猶予なく潜門をあけて二人の少年を入れた。まだ暁の白けた光が夜闇の衣(きぬ)を僅に穿つてゐる時で、薄曇りの空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。英太郎は十六歳、八十次郎は十八歳である。
「お奉行様にぢきに差し上げる書付けがあるのだな」門番は念を押した。
「はい。ここに持つております。」英太郎が懐を指さした。
「お前がその吉見九郎右衛門の伜か。なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」
「父は病気で寝ております。」
「一体東のお奉行所附のものの書付なら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」
「西のお奉行所にでなくては申上げられぬと、父が申しました。」
「ふん。さうか。」門番は八十次郎の方に向いた。「お前はなぜ附いて来たのか。」
「大切な事だから、間違いのないように二人で往けと、吉見のおぢさんが言い附けました。」
「ふん。お前は河合と言つたな。お前の親父様は承知してお前をよこしたのかい。」
「父は正月の二十七日に出た切(きり)、帰つて来ません。」
「さうか。」
門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。吉見の父が少年二人を密訴に出したので、門番も猜疑心を起さずに応対して、却つて運びが好かつた。門番の聞き取つた所を、当番のものが中泉に届ける。中泉が堀に申し上げる。間もなく堀の指図で、中泉が二人を長屋に呼び入れて、一応取り調べた上訴状を受け取つた。
堀は前役矢部駿河守定謙の後を襲いで、去年十一月に西町奉行になつて、やうやう今月二日に到着した。東西の町奉行は月番交代をして職務を行つていて、今月は堀が非番である。東町奉行跡部山城守良弼(よしすけ)も去年四月に現職に任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、兎に角一日の長があるので、堀は引き廻して貰ふという風になつてゐる。町奉行になつて大阪に来たものは、初入式と云つて、前からゐる町奉行と一しよに三度に分けて市中を巡見する。初度が北組、二度目が南組、三度目が天満組(てんまぐみ)である。北組、南組とは大手前は本町通り北側、船場(せんば)は安土町通、西横掘以西は神田町通を界にして、市中を二分してあるのである。天満組とは北組の北界になつてゐる大川よりさらに北方に当る地域で、東は材木蔵から西は堂島の米市場までの間、天満の青物市場、天満宮、総会所等を含んでゐる。北組が二百五十町、南組が二百六十町、天満組が百九町ある。予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に東照宮附近の与力町に出て、タ七つ時には天満橋筋長柄町(ながらまち)を東に入る北側の、迎方東組与力朝岡助之丞が屋敷で休息するのであつた。迎方とは新任の奉行を迎えに江戸に往つて、町与力同心の総代として祝詞を述ベ、引き続いてその奉行の在勤中、手許の用を達す与力一人同心二人で、朝岡はその与力である。然るにきのうの御用日の朝、月番跡部の東町奉行所へ立会いに往くと、その前日十七日の夜東組同心平山助次郎と云ふものの密訴のことを聞せられた。一大事と云ふ詞が堀の耳を打つたのは此時が始であつた。それからはどんな事が起つて来るかと、前晩も殆寝ずに心配してゐる。今中泉が一大事の訴状を持つて二人の少年が来たと云ふのを聞くと、堀はすぐにあの事だなと思つた。堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した書付の内容は、未知の事の発明ではなくて、既知のことの証験として期待せられてゐるのである。
堀は訴状を披見した。胸を跳らせながら最初から読んで行くと、果してきのふ跡部に聞いた、あの事である。陰謀の首領、その与党などの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の身囲(みがこひ)である。堀が今少し精しく知りたいと思うやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、疑懼、愁訴である。きのふから気に掛かつてゐる所謂一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考えながら読むので、動(やや)もすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。はつと思つてはまた読み返す。ようよう読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐることの外に、これ丈の事が残つた。陰謀の与党の中で、筆者と東組与力渡辺良左衛門、同組同心河合郷左衛門との三人は、首領を諌めて陰謀を止めさせようとした。併し首領が聴かぬ。そこで河合は逐電した。筆者は正月三日後に風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を以て首領にことわらせた。此体では事を挙げられる日になつても所詮働くことは出来ぬから、切腹して詫びようと言つたのである。渡辺は首領の返事を伝えた。そんならゆるゆる保養しろ。場合によつては立ち退けと云ふことである。これを伝えると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退をともにすると決心したことを話した。次いで首領は伜と渡辺とを見舞によこした。筆者は病中やうやうの事で訴状を書いた。それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、取次ぎを頼むべき人が無い。そこで隔所を見計らつて托訴をする。筆者は自分と伜英太郎以下の血族との赦免を願ひたい。尤も自分は与党を召し捕られる時には、矢張り召し捕つて貰ひたい。或はその間に自殺するかも知れない。留置、預けなどゝ云ふことにせられては、病体で凌ぎ兼ねるから、それは罷めにして貰ひたい。伜英太郎は首領の立てヽゐる塾で、人質のやうになつていて帰つて来ない。兎に角自分と一族とを赦免して貰ひたい。それから西組与力見習に内山彦次郎というものがある。これは首領に嫉(にく)まれてゐるから、保護を加えて貰ひたいというのである。
読んでしまつて、堀は前から懐いてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の侮蔑の念を起さずにはいられなかつた。形式に絡まれた役人生涯に慣れてはゐても、成立している秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある返忠(かへりちゆう)を、真の忠誠だと看るこは、生まれ附いた人間の感情が許さない。その上自分の心中の私(わたくし)を去ることを難(かた)んずる人程却つてかえつて他人の意中の私を訐(あば)くに敏なるものである。九郎右衛門は一しょに召し捕られたいと言ふ。それは責めを引く潔い心ではなくて、与党を怖れ、世間を憚る臆病である。また自殺するかも知れぬと云う。それは覚束ない。自殺することが出来るなら、なぜ先ず自殺して後に訴状を貽(のこ)さうとはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて還るものヽ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、入らずに済めば入るまいとする筈である。横着者だなとは思つたが、役馴れた堀は、公儀のお役に立つ返忠のものを周章の間にも非難しようとはしない。家老に言ひ付けて、少年二人を目通りへ出させた。
「吉見英太郎というのはお前か。」
「はい。」怜悧らしい目を見張つて、存外怯(おく)れた様子もなく堀を仰ぎ視た。
「父九郎右衛門は病気で寝ておるのぢやな。」
「風邪の跡で持病の疝病痔疾が起りまして、行歩(ぎょうほ)が恟(かな)ひませぬ。」
「書付けにはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」
「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる迄に脱けて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞いに参つた時の事でございます。それから一しょに塾にゐる河合八十次郎と相談いたしまして、昨晩四つ時に抜けて帰りました。先生の所にはお客が大勢ありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を噤んだ。
堀はしばらく待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。
「それからどういたした」と、堀が問うた。
「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」
「そうか。」東組与力瀬田済之助、同小泉淵次郎の二人が連判に加わつてゐると云ふことは、平山の口上にもあつたのである。
堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か。」
「はい。」頬の円い英太郎と違つて、これは面長な少年であるが、同じやうに小気が利いてゐて、臆する気色はない。
「お前の父はどういたしたのぢや。」
「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、火箸で打擲せられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の謹之助を連れて、天満宮へ参ると云つて出ましたが、それ切どちらへ参つたか、帰りません」
「そうか。もう宜しい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。
「いかが取り計らいましょう」と、中泉が主人の気色を伺つた。
「番人を附けて留め置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。
堀は居間に帰つて不安らしい様子をしていたが、忙しげに手紙を書き出した。これは東町奉行に宛てて、当方にも訴人があつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、追附(おつつけ)参上すると書いたのである。堀はそれを持たせて使を出した跡で、暫く腕組をして強いて気を落ち着けようとしてゐた。
堀はきのふ跡部に陰謀者の方略を聞いた。けふの巡見を取り止めたのはそのためである。然るに只三月と書いて日附をせぬ吉見の訴状には、その方略は書いてない。吉見が未明に伜を托訴に出したのを見ると方略を知らぬのではない。書き入れる暇がなかつたのだらう。東町奉行所へ訴へた平山は、今月十五日に渡辺良左衛門が来て十九日の手筈を話し、翌十六日に同志一同が集まつた席で、首領が方略を打ち明けたと云つたさうである。それは跡郡と自分とが与力朝岡の役宅に休息してゐる所へ襲つて来ようと云ふのである。一体吉見の訴状にはなんと云つてあつたか、それに添えてある檄文にはどう書いてあるか、好く見て置かうと堀は考えて、書類を袖の中から出した。
堀は不安らしい目附をして、二つの文書をあちこち見競べた。陰謀に対してどう云ふ手段を取らうと云ふ成案がないので、すぐに跡部のところへ往かずに書面を遺つたが、安座して考えても、思案が纏まらない、併し何かせずにはゐられぬので、文書を調べ始めたのである。
訴状には「御城、御役所、其外組屋敷等火攻の謀」と書いてある。檄文には無道の役人を誅し、次に金持ちの町人共を懲すと云つてある。兎に角恐ろしい陰謀である。昨晩跡部からの書状には、慥な与力共の言分によれば、さ程の事でないかも知れぬから、兼て打ち合せたやうに捕方を出すことは見合せてくれと云つてあつた。それで少し安心して、こつちから吉田を出すことも控えて置いた。併し数人の申分がこう符合して見れば、容易な事ではあるまい。跡部はどうする積だらうか。手紙を遺つたのだから、なんとか云つて来さうなものだ。こんな事を考えて、堀は時の移るのをも知らずにゐた。