Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.1
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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その2

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



   

二、東町奉行所

 東町奉行所で、奉行跡部山城守良弼が堀の手紙を受け取つたのは、明六つ時頃であつた。

 大阪の東町奉行所は城の京橋口の外、京橋通りと谷町との角屋敷で、天満橋の南詰東側にあつた。東は城、西は谷町の通である。南の島町通りには街を隔てて籾蔵がある。北は京橋通の河岸で、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。只庭の外囲に梅の立木があつて、少し展望を遮るだけである。

 跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の密訴した陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、跡部は東組与力の中で、あれかこれかと慥なものを選り抜いて、とうとう荻野勘左衛門、同人伜四郎助、磯矢頼母の三人を呼び出した。頼母と四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。「あの先生は学問はえらいが、肝積持で困ります」などと、四郎助が云つたこともある。「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに激して来て、六寸もある金頭(かながしら)を頭からめりめりと咬んで食べたさうでございます」と云つた。それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍念入りにしてゐる。そこを見込んで跡部が呼び出したのである。

 さて捕方のことを言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、良(やゝ)久しく顔を見合せて考へた上で云つた。平山が訴はいかにも実事とは信ぜられない。例の肝積持の放言を真に受けたのではあるまいか。お受はいたすが、余所ながら様子を見て、いよいよ実正(じつしやう)と知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を目のあたり見た跡部は、一層切実に忌々しい陰謀事件がかも知れぬと云ふ想像に伴ふ、一種の安心を感じた。そこで逮捕を見合せた。

 跡部は荻野等の話を聞いてから考へて見て、平山に今一度一大事を聞いた前後の事を精しく聞いて置けば好かつたと後悔した。をとつひの夜平山が来て、用人野々村次平に取り次いで貰つて、所謂一大事の訴えをした時、跡部は急に思案して、突飛な手段を取つた。尋常なら平山を留め置いて、陰謀を鎮圧する手段を取るべきであるのに、跡部はその決心が出来なかつた。若し平山を留め置いたら、陰謀者が露顕を悟つて、急に事を挙げはすまいかと懼れ、さりとて平山を手放して此土地に置くのも心許ないと思つたのである。そこで江戸で勘定奉行になつてゐる前任西町奉行矢部駿河守定謙に当てた私信を書いて、平山にそれを持たせて、急に江戸へ立たせたのである。平山はきのふ暁七つ時に、小者多助、雇人弥助を連れて大阪を立つた。そして後十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が邸に着いた。

 意志の確かでない跡部は、荻野等三人の詞をたやすく聴き納れて逮捕の事を見合せたが、既にそれを見合せて置いて見ると、その見合せが自分の責任に帰するという所から、疑懼が生じて来た。延期は自分が極めて堀に言つて遺つた。若し手遅れと云ふ問題が起ると、堀は免れて自分は免れぬのである。跡郡が丁度この新に生じた疑懼に悩まされてゐる所ヘ、堀の使が手紙を持つて来た。同じ陰謀に就いて西奉行所へも訴人が出た、今日当番の瀬田、小泉に油断をするなと云ふ手紙である。

 跡部は此手紙を読んで突然決心して、当番の瀬田、小泉に手を着けることにした。此決心には少し不思議な処がある。堀の手紙には何一つ前に平山が訴へたより以上の事実を書いては無い。瀬田、小泉が陰謀の与党だと云ふことは、既に平山が云つたので、荻野等三人に内命を下すにも、跡部は綿密な警戒をした。さうして見れば、堀の手紙によつて得た所は、今まで平山一人の訴で聞いてゐた事が、更に吉見と云ふものの訴えで繰り返されたと云ふに過ぎない。これには決心を促す動機としての価値は殆無い。然るにその決心が跡部には出来て、前(さき)には腫物に障るやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする。これは一昨日の夜平山の密訴を聞いた時にすべき決心を、今偶然の機縁に触れてしたやうなものである。

 跡部は荻野等を呼んで、二人を捕へることを命じた。その手筈はかうである。奉行所に詰めるものは、先ず刀を脱して詰所の刀架に懸ける。そこで脇差ばかり挿してゐて、奉行に呼ばれると、脇差をも畳廊下に抜いて置いて、無腰で御用談の間に出る。この御用談の間に呼んで捕へようと云ふのが手筈である。併し万一の事があ つたら切り棄てる外ないと云ふので、奉行所に居合せた剣術の師一條一が切棄の役を引き受けた。

 さて跡部は瀬田、小泉の二人を呼ばせた。それを聞いた時、瀬田は「暫時御猶予を」と云つて便所に起つた。小泉は一人いつもの畳廊下まで来て、脇差を抜いて下に置かうとした。この畳廊下の横手に奉行の近習部屋がある。小泉が脇差を下に置くや否や、その近習部屋から一人の男が飛び出して、脇差に手を掛けた。「はつ」と思つた小泉は、一旦手を放した脇差を又掴んだ。引き合ふはずみに鞘走つて、とうとう、小泉が手に白刃(しらは)が残つた。様子を見てゐた跡部が、「それ、切り棄てい」と云ふと、弓の間まで踏み出した小泉の背後(うしろ)から、一条が百会(ひやくゑ)の下へ二寸程切り附けた。次に右の肩尖を四寸ほど切り込んだ。小泉がよろめく所を、右の脇腹へ突を一本食はせた。東組与力小泉淵次郎は十八歳を一期として、陰謀第一の犠牲として命を隕(おと)した。花のやうな許嫁(いひなづけ)の妻があつたさうである。

 便所にゐた瀬田は素足で庭へ飛び出して、一本の梅の木を足場にして、奉行所の北側の塀を乗り越した。そして天満橋を北へ渡つて陰謀の首領大塩平八郎の家へ奔つた。

  


森鴎外「大塩平八郎」その1/ その3

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