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1999.12.31訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「記念講演 大塩平八郎とその時代」

大塩事件研究会会長 酒井 一

『大塩研究 第39号』1998.2より転載


◇禁転載◇

はじめに

 大塩事件研究会が二二年前の一九七五年一一月に発足してから、節目のつどいろいろ行事を催してきました。特に今から十年前の一九八七年に大塩の乱一五○年を記念して大塩家の菩提寺成正寺に「大塩の乱に殉じた人びとの碑」を建てました。その時にも随分全国各地から浄財を寄せていただき、大阪の名所を一つ作ったような気持ちでいます。一九九三年には大塩平八郎誕生二○○年行事をしました。このときは展示会やシンポジウムをもちたいと考えましたところ、思いがけない形でリバティおおさかの協力を得まして、全国から資料をお借りすることができて、盛会裡に記含の行事を開催することができました。

 そして、今回は大塩の乱一六○年ということで、本会の副会長の井形正寿さんを中心に企画をしました。昨九六年一二月一日に、三十名ほどお出でになり、大塩平八郎中斎終焉の地を見学しました。そのとき、かねてからの懸案でしたが、日の目をみていない終焉の地に碑を建てようという案が出て、基金を募ることになりました。改めて全国のみなさまに募金をお願いしたところ、四○○名を超える方から、三百数十万円を寄せていただきました。これは我々としましても、驚きでありまして、まだ募金をしばらく継続していきたいと思います。

 先ほどは除幕の式典に列席していただきましたけれども、正面の右の奥にコンクリートのない空間がございます。ここには終焉の地の地図を説明板で建てたいと思っています。そうでないと、この付近で亡くなったというだけでは曖昧ですので、今までの研究で、確定できる範囲をきちっと現在の地図に落としておきたい。ですから、今日は第一段階でして、年内には右奥のところに説明板が建っていますので、またこちらの方にお越しの時はご覧いただきたいと思います。

 さて、建碑の場所を選びますのに、実際の終焉の地はこの北側のちょっと東寄りのところですが、そこは道に面していて、人の出入りも激しいので、碑を建てることはできない。もう少し西の突き当たりのところに大阪市の公的な施設がありますので、そこでどうかと思っていたのですが、なかなか公的な所に建てるというのはやっかいで、それが太田勝義さんの仲介でこの天埋教飾大分教会の敷地、特に国道に面した一等地に建てていただけることになりました。 ちょうど歩いている方がその目線のところに文字があるようにと、石清(瀧伸弘)さんにも頑張っていただいて、我々もあっと驚く、立派なのが出来上がりました。実現にあたっては、ほんとうに、それぞれの方が持ち味を生かして活躍されたおかげで、一五○年のときより一層、建碑を支えた人々の広がりは大きくなったかと思います。

 大塩という人は志半ばで倒れましたけれども、察するにこの人は生きるということと死ぬということとは一つだと理解したようです。だから死んでも生きているという気持ちがあったんではないでしょうか。死ぬことと生きることは一つだという哲学を持っておられましたので、あと何をしなかったとか、我々の物差しであまり測らないほうがよいような方だと思います(『洗心洞箚記』下、八三条)。また、その主義主張といいますか、為されたことが皆さんの心に今も生き続けているように思います。私もしばらく歴史を勉強してきましたけれども、学校では歴史を学ぶことが多く、歴史に学ぶことが非常に少ない。 つまり歴史的経験を身につけなければ、何のために歴史を調べているのかということになるのですが、歴史から何を学び取るのか、そういう点では、我々よりもむしろ市民の皆様の方が率直に大塩の乱についての理解をお持ちではないかと思っています。

 今日はまず最初にこの西区という所の意味を少しお話いたしまして、それから大塩が生きた時代というのはどういう時代であったか、それは政治とか経済とかいうことになりますが、今回はその時代の思想・宗教・文化との関わりで位置づけていきたい。折角天理教の教会でこういう会を催していただきましたので、新しい時代を画すると言われるのは、大塩にとって何であるのか、これは政治とか経済とかでも説明ができますけれども、それ以外の分野から考えたらどうなるのかということを、ちょっとお話しさせていただきたいと思います。

大塩父子の終焉の地界隈

 最初に西区というところですが、大坂と申しますと、もちろん船場が豪商が軒を並ベ、日本の金蔵と申しますか、一番中心になるところですが、北の方には大塩及び与力・同心が住まいし、大坂の酒造業では中心の天満という一角があります。問題はこの西区ですが、船場から西になって、一般的な言い方では、西船場と呼ぶ所になるかと思います。今ここに持っていますのが、天保七年春に大坂で出された絵図、「改正懐宝大阪図」(高麗橋壱丁目播磨屋九兵衛梓)です。ご覧になりますとおわかりのように、船場が整然たる形でならんでいます。見事な都市計画、今日の都市計画よりはるかに人間的潤いのあるまちづくりだと思います。それから西の方になりますと、大阪湾に向かって川が流れています。何々堀という名称がいくつかございます。江戸堀、土佐堀とか、阿波座とかです。この阿波が後ほど申しますが、どうも大塩終焉の地と関わってくると思われます。このところは、大阪湾に入ってきた物資や文化を船場につなぐ重要なポイントになっているところです。

 また、船場には商人・職人のほかに学者がいますけれど、西船場にもいます。頼山陽にしても、今の西区で生まれています。大塩の時代を含めて記した、全国的に注目される『浮世の有様』という記録があります。一級の資料です。この筆者は斎藤町、今の江戸堀に住んでいた医師ですが、身元がよくわからない。庶民の目でみた大坂、庶民の目でみた大塩、取締りの方からみるのと、町の中からみるのとは、ちがって当然だと思います。つまり検察側が見るのと、弁護士側が見るのと、目は同じでは困るわけです。庶民の目で見る人が西区にいました。

 それで船場の発展をつなぐために、大坂に入ってくる物資を、川船で堀を通って伝えていく。ここは文人も多いし、とくに海産物が多いという。コンプだとか、かつおぶしとかの流通を支えているというユニークなところです。井形さんがおつくりになったレジメの地図で、大坂の様子を見ていただきたいと思います。これが今、概略申しました西の大阪湾ぞいのところに近い方の拡大図です。文化三年(一八○六)につくられた大坂絵図です。拡大しますと、大塩平八郎終焉の地に、美吉屋五郎兵衛とあります。美吉屋というのは、これは阿波国の郡名、三好郡を美しい字に変えている。屋号というのは、だいたい出身地か、取引している所をつけますので、美吉屋は今の徳島県美馬郡脇町という所の塩田鶴亀助の子孫だということになっています。阿波の人だと見て間違いない。少なくとも徳島との交流の中で暮らしている商人です。かなり大きな家ですが、その住んでいた場所が油掛町で、この絵図では、油掛町と三字詰まるように書いてあります。この教会の前の国道になっているところは、信濃町というところです。東に行くと、信濃橋。それで終焉の地は、この北側の所の背割水道を挟んで背中合わせで、下に今も大阪市の下水が流れています。一度中をのぞいたことがありますが、なかなか立派な石組が残っています。そこの一角で大塩父子は亡くなったということです。だから、船場を攻撃したあと、所々を歩いて、最終的に自分と間係のあると思われるこの地に忍ぴ込んだということになっています。ここで四十日ほどいて、自焼しました。

 これが西区というところの、特にこの界隈の状態です。分教会の竹川俊治さんにお聞きしても、この教会ができた昭和二四年ごろは、まわりには海産物のお店がたくさんあって、教会を建てるときには、池と築山があり、やっぱり美吉屋と同じように掘ると、水が湧いていたようです。美吉屋も池があったようです。その真ん中をおそらく水が流れていたと思われます。どうも大塩は大坂の町人に対して直接教義を説かなかったということもありまして、市民を動員することができなかったわけですが、そのなかで一人匿ったのが、この美吉屋五郎兵衛でした。五郎兵衛はあやしいということでマークされていましたので、一応町預けになり、町の監督下にありましたが、ついに思いがけないことから発覚しまして、大塩は最期を遂げることになりました。

大塩平八郎の生きた時代

 大塩の乱が新しい時代を告げるものであるといわれ、明治維新もだいたい大塩の乱から説明しています。政治上の画期になるとも言える。それから大塩の乱が起きるためには、政治とあわせて経済上の矛盾が噴き出したとも考えられるわけです。飢饉がやってきたので、いったい自然災害とその時代の経済関係がどうなっているか、飢饉を生み出す背景が問われなければならないと思います。これは今回は触れませんが、むしろこの時代が、新しい時代を予告するものとしていろんな条件を揃えはじめているということを中心に本日はお話したいと思います。

 歌というものを例にとりますと、流行歌などが時代を先取りすることがよくあります。政治家とか経済学者とか企業家が分析する前に、感覚的に何か次のものが生まれることを、文化が先取りすることがある、そして後になって、政治・経済・思想として形を整えて出てくると、私は考えています。そういう意味でいいますと、大塩の生きた時代がどうして一つの画期になるのか、碑文のなかにも、大塩の乱は新しい時代の到来を告げるものであると書いてある。そのことの意味を考えてみたいと思います。

大塩の三大功績

 最初に、大塩中斎という人は、与力として活躍したことは、周知のことですが、復習させていただきます。文政一○年(一八二七)に東町奉行所の与力としてキリシタンを取り締まりました。キリシタンであったという断定は大変難しいので、むしろキリシタンまがいの、新しい宗教が登場してきたとみた方がいいと思いますが、これは江戸の方の幕閣でも正しい取り締まりかどうか、審議が難航したようです。しかし、最終的にキリシタン一件として処埋されまして、これが幕府の法令にでてきます。つまり大塩がこの間題を解決したというだけでなく、中央政府の政策の中に取り入れられ、触れ出されます。

 大塩の名は一言も出てきません。しかし、文政一二年という年代と上方筋の「切支丹」とある内容から見て、あきらかに大塩の行為が幕令に反映したと考えられます。それから文政一二年ですが、奉行所の内部でいろいろ腐敗が生じます。徳川時代の大変いい面をいいますと、戦争がなかったことです。戦争によって人が死ぬとか、戦争による被害を被るということはまずありませんでした。この点ではすばらしい時代と思いますが、同時に太平の世であるがゆえに、内部的に腐敗が進行するという矛盾を抱えていました。それを大塩は許しがたいものと考えまして、西組与力の弓削新右衛門を追い込みました。これは大変決意のいったことですが、ついにこの人に詰腹を切らせました。つまり同僚の中で不正を働くものを追い落としたわけです。これは背後に、頼山陽が指摘しているように、大塩を支える町奉行がいたということがあると思います。

 それから文政一三年に破戒僧の処罰を行いました。これは大塩が初めてやったのでなくて、たぴたぴ僧に対する処分が行われており、前年一二月にも幕令で女犯や不律不如法の僧侶の取り締まりを触れています。その一環として行われました。この文政一三年の三月から閏三月にかけまして、おかげ参りが大流行し、また村々でもおかげ踊りが流行りました。これこそ、それ以前の伊勢群参とちがって文政期の末、一八三○年代に日本の新しい激動を予告しているものです。しかしこれは、予感はしているけれども、明確に示していない。つまり幻想的に踊っているのです。はっきりこうだと言って、踊っていない。目的がまだ見えない。何かしらないけれど踊っている。私はそういうふうに理解したいと思います。

 ところが、それが一転します。一転というと、現在の日本の経済もそうですが、バプルの時はとぶ鳥も落とす勢いで躍進を遂げていく人があります。ところがストーンと落ちてきます。それと同じで文政末の、ものすごく陽気になったあと三、四年で、飢饉がやって来たわけです。今まで耐え忍んでおれば、その飢饉の衝撃は少なかったかもわからない。しかし、その文政期の繁栄に踊ってしまったために、天保の飢饉が直撃した。そして政治の中にある矛盾、経済の持っている矛盾が露出した。噴き出したということになるかと思います。

 大塩はこの文政一三年に自分を信頼して、今で言う特捜班に命じて危険な捜査をさせた東町奉行高井山城守が高齢をもって辞職して江戸へ帰るのに殉じて、自らも辞職します。高井はキャリア組のような生き方をしなかった旗本です。特捜班を解体して、上の検事長が辞めますから、自分も辞めて、身をひく。一線をぱっと引いたわけです。与力の役職は子の格之助に譲り、野に下るという生き方をいたしました。相当困難な、一命にかかわる仕事をしたからと思います。

洗心洞の学問

 このあと大塩は天満の与力の屋敷、これは大阪造幣局の官舎があるところですが、そこで洗心洞という塾を開いていましたが、門弟の教育に専念します。このとき大塩は自分の学問をグーンと深めながら、陽明学という学問を手がかりにして進んでいきます。純粋の王陽明の学説から見ると、少しちがうようです。私は違っているから、おもしろいと思います。あまり王陽明どおりの解釈ばかりやっているようでは。大塩は解釈学が嫌いなタイプだったようです。それは自分の生涯が大坂を取り巻く地域のどろどろとした裁判に関わっていたことによって、学者が机の前で議論するのと違うものを経験したからだと思います。一方を裁けば、一方が泣くと。裁判官もそうじゃないでしょうか。裁判官が判決を下して、そのあと、ぐっすり寝ているはずはないと思います。とくに最高裁の裁判官なんか、やっぱり悩むでしょう。これでいいかどうか、もう最後ですから。大塩についても、そういうことがあったと思いますが、少なくとも自分の裁きの基礎には、一般の庶民を現実に対象にしているという思いがあったのではないかと思います。私はそういう体験といいますか、どういう中で、下した裁判や行動を考えて、大塩という人物を分析しなければならないと思います。

生死一体の思想

 大塩には天保四年(一八三三)の家塾蔵板の『洗心洞箚記』という有名な著書があります。箚記というのはノートとかメモという意味で、自分の塾名を取って『洗心洞箚記』の書名で出版しますが、その前年に近江の藤樹書院(滋賀県安曇川町)に行ったときに、死にかけます。船が遭難しかけました。あの辺は「比良八荒」、「勝野颪」といって気候が急変して嵐に巻き込まれることがありまして、琵琶湖で遭難事故が時々起きるのはそのためです。死にかけたときに、自分の学問が問われたわけです。自分が死ぬかもわからない。その時平素口にしていた太虚の思想が一体どうなのか、太虚の思想を自分が実現したら、自分は死なない。死んでも生死一体、「死生を一にす」るのですから、動じない。実際はそうとう動じたと思います。この人は弱者に弱点があるのは当たり前だと、みんな聖人君子じやないんだと言っているわけですから。自分も動揺したと思うんですが、耐え忍んで、後一転晴れて、助かって比叡山に上って漢詩を詠みます。この詩は、単に文学的に詠むのではなく、大塩が死の体験をしたあとに、詠んだものです。そしてその翌年に著書を仕上げて、この体験に触れています。

 だから大塩は『洗心洞箚記』の中で今日の学者がぴっくりするほど、いろんな中国の文献を引用します。王陽明学派だけでなく、朱子についても、頭から反対というのじゃなくて、尊ぶべきことは尊ぶ、そういう思想です。私は孔孟の思想だ、孔子・孟子の思想から出発しているんで、王陽明も孔子が間違っていたら批判するといっていますから、この学風の中で自分の学間を鍛えてきたと私は思います。そのような博引傍証している文章の中に、遣難の記事をいれています(『洗心洞箚記』下、一○三条)。これは著書の中で、異例の入れ方だと思いますけれども、この人の学問や行動を考えるには、与力としての体験とこの死にかけた経験というのは、やっぱり尊重しなければならないのだろうと思います。

「天とは吾が心なり」

 大塩の総仕上げの文章は、これは皆さんもよくご存じの檄文です。この檄文は、大阪市立博物館と大塩家の菩提寺成正寺の二点しか残っていません。このうちの一点、成正寺本に「天より被下候村々小前のものに至迄へ」という包紙がついています。私がここで問いたいのは、なぜ天かということです。なぜ天ということを使ったかということを、問うてみたいと思います。この場合「天より被下候云々」をどう解釈するかということですが、これにもいろいろあるようです。例えば中国の司馬遷という人がいます。その著『史記』の中で「王者は民人をもって天となす」と述べています。王者は民衆を天と見ている。自分が帝王ではなくて、民衆を天と見ている、だからそういう見方からすると、大塩も天=民衆から下されたという解釈も可能かと思います。しかし、私はそうでなくて、「天人ともに」の「天」で、やっぱり天から降ってきたと考えます。

 例えばここに伊勢神官の御札が貼ってありました。おそらく檄文のほとんどに貼ってあったと思います。それほど伊勢の神宮からの御札が全国ほうぼうにあって大坂でも大坂独自に配布する出張所がありますので、伊勢に行かなくとも、定期的に毎年、一二月の二十日と決めれば、この町には二十日にきちっと届くようになっている。幸いに日本は江戸時代の日記がよく残っていますから、例えば十年間の記録を追うと、何日に届くかわかるんです。それから、同時にお金をいくら供えるかということもわかります。そういうことからすると、各家に御札は必ずあった。だから大塩が、例えば檄文を千枚印刷して、御札を千枚集めようと思ったららすぐ集まった。御札降りのときの御札とか、御祓いをした道具とか、施行のときに持っていった柄杓など、その柄杓が村で保存されていることが多い。なぜ保存されているのか。それは、やっぱり聖なるものとして保存しているのではないでしょうか。ただお粥さんをすくって食べたからといって、おいておくというのではなくて、やはり特別の意味をそこにもたせているのではないでしょうか。ただ、幻想的に何か「聖なる救い」を求めようという思いでとどまっていた。ところが大塩は御札降りの御祓、とくに伊勢の御札を檄文の表側に貼って天からの命として下した。こういうことが一番最初に考えられるんじゃないか。

檄文の中の「天」

 そんな目で檄文をみますと、個々の単語は別にして、最も目に止まる言葉は、天という言葉です。大塩はこの檄文で、どのように天のつく言葉を使ったか。一番最初の所に、「四海困窮いたし候ハヽ」、これは有名な論語に堯の言葉として出てくるものです。本来の表現と少し文章がちがいますが、その次に一行目に、「天禄ながくたヽん」と書いてあります。一行目から「天」がでてくる。天禄というのは、天から授かった俸禄という意味です。それが帝王の、天子であることの証明なんです。天子は天から俸禄をもらって天子なんです。これが最初に出て、「四海困窮いたし候ハヽ天禄が絶つんだ」といっているわけです。天子の禄がなくなるんだと。本来は中国の尭舜という、年配の方なら耳にされたことのある聖人ですが、堯の言葉に、民が困窮すれば天禄は長く終えんとあって、これを使っています。このあとどんな言葉が出てくるかと申しますと、順番に、天下、天子、天、天災、それから天罰、天恩、天命、そして一番最後の所に天討を加えるといっています。これを間違って天誅を加えると理解する人がいますが、天討と天誅と言う言葉との間には、もう一段飛躍がいると思います。日本史でいいますと、幕末の尊王攘夷運動から普及してくるので、それまではそうやたら天誅という言葉は出てきません。ここは天命を奉じて天討をいたし候といっているのです。自分は天命を受けていると、このことはよく考える必要があるんじゃないかと思います。

 大塩にとっては、天というのは何であるか、これは、天理教の教会の名前でもありますが、天理という言葉が当時儒学のなかで頻発に便われています。天の理、天の道理、天理を踏まえない政治というのは許せない、ということが政治担当者の基本になっていたのです。それと同時に、王陽明とこの点が違うそうですが、空間としての我々の上にある天も指している。だから上から檄文が降ってくるという天なのです。天というのは、横文字でいうと、どうなるのか。例えば、福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」といいました。この天は、Heaven かというと、違います。アジア的な God です。神ということです。キリスト教でいうと、the Creater 創造主です。だから宇宙の根源にあるもの、人間も宇宙の一部である。人間が宇宙を勝手に動かすというような、浅はかな考えでは困るのです。大事なときは、宇宙からの何らかの啓示がくるはずなのです。こういうふうに理解しています。自然も宇宙の一つですから、自然を人間が勝手につぶすことはゆるされないのです。自然も人間も他の動物も一緒に宇宙を形成している、それが天だと。だから大塩は私たちの頭の上にある天と同時に、それを持って下りると、心の中も、我が心も天であるのだから、心の中の問題とこの宇宙とを一つにしていくという思想を持っていたわけです。大塩が自分なりに天という言葉に一番こだわって、檄文を書いている。何をキーワードにしているかというと、私は天だと思います。この点の解釈を深める必要があります。

「救民」の造語

 それから、もう一つ救民という一言葉を便いました。救民という言葉は、例えば諸橋轍次先生の『大漢和辞典』にも出てきません。我々がよく知っている江戸時代の救民というのは、『救民妙薬』、水戸光圀が侍医に編集させた本で、病気を救うために「救民妙薬」というのがあります。この本もよく印刷されて、配られていました。その後『国書総目録』を見ますと、『救民算法』、『救民事宜』、『救民儲穀法』などの書名が出てきますが、病気を救うという観点から、大塩は、それこそ社会を救うというところに拾い上げて、天である民を天命を奉じて救ういう意味に広げたのだと思います。この言葉自身が最後の決断をするときに浮かび上がったのではないでしょうか。これとの対比で、同時代の渡辺崋山が用いたという「報民」という言葉を思い出します。

世直し大明神の登場

 大塩の乱というのは、当時多く起きた百姓一揆と違って、自分たち武士、政治に関わる者が民害を為す者の乱れを糺す、この責任があるということで立ち上がりました。しかし、大塩の回りには、数多くの、大規模な一揆が起きています。当時天狗世直しとか世直し大明神というのが登場しました。われこそ世直しをするというのが、百姓のもとに姿を表してくるわけです。百姓一揆が起きた時に、鎮圧側が乗りこんでいくと、世直し大明神に抵抗するのか、お前たちは神様に逆らうのかといって、百姓側が抵抗します。例えば有名なのは、カタカナのイという字を書きまして、我々はまっすぐだけど、上がゆがんでいる。なかなか村方の知恵というのは大したもので、困っている場合には、小さな丸を旗に書きます。「小丸=困る」。大きな丸ではなくて、小丸を書いて武士に見せる、鎮圧側に見せています。これは江戸時代のパロディーですね。世直し大明神が我々の後ろに立っている。こういう知恵を蓄えてきました。このように、一揆の中に世直しの神々が登場しますし、ミロクの世という考えも登場してきます。ミロク(弥勒)の世界。つまり、思想・宗教の面で、時代を先取りする神々の救いが現れてくる。江戸時代以前からありますけれども、ミロクの世の思想が登場してきます。これは、自然発生的なおかげ参りの踊りの狂乱より、もう一歩進んできた段階ではないかと思います。

民衆宗教の登場

 そういう背景の中で、既成の宗教の枠外から、艮衆宗教というのが登場してきます。大塩の直面したのは、既成の宗教の枠外から顔を出してきたキリシタンにしろ、既成宗教内の破戒僧にしろ、宗教のかかえる間題、思想状況でこれに対処したのだけれども、その後ろに澎湃として新しい民衆宗教が登場してくる。その早い例が、ちょっと時代が遡りますが、名古屋の熱田、そこの武家奉公人をしていた「きの」という女性が如来教という教義を立てます。享和二年(一八○二)のことです。この背景には金毘羅信仰の広がりがありまして、こんぴらさんというのは、ほんとうによく参って大坂からも定期船が出ていました。そういう信仰をふまえながら、新しい如来が登場してきました。それから岡山の神官で黒住宗忠という人が黒住教を作り出してきます。太陽神=天照大神との合一を体験して肺患を克服します。それから天理教が天保九年(一八三八)に立教されてくる。次に備中ですが、金光教が安政六年(一八五九)に立教されます。金神(こんじん)=大地の祖神を考えます。もうすこし時代が下がりますと、大本教が出てくる。こういう一連の新しい宗教の波が出てくる。宗教が時代を先取りしていく。時代の激動をもろにうけながら、思想を生み出してくる。社会の矛盾、変化を、敏感に受け止めていくということだと思います。

天理教の立教

 新しい民衆宗教が何を問いかけたかということは、いろいろ考えられますが、例えば今の天理市にはいりますが、大和国山辺郡の三昧田村で生まれた中山みき、天理教では、教祖(おやさま)といいますが、そこから庄屋敷村に嫁いで「てんりおう」という言葉を言い出します。「てんりおう」。これに後に天理という漢字が当てはめられます。この間に若干紆余曲折があるようですが、この時に何が間題になるかというと、民衆宗教の特徴の一つは、宇宙の根源は何にあるかをもう一度問うたことです。

 これは、率直にいいますと、幕藩制国家に対して、ここが宇宙の根源だとか、ここに字宙の根源があると言い出すわけですから、別の世界をつくろうとしているわけです。思想の面でつくろうとしている。天理教の「おぢば」の考えもそう理解できます。この思想も、ただ抽象的な観念として出るのではなくて、天理教でよく言われる言葉ですが、「帯屋のたすけ」とか「疱瘡のおゆるし」があります。当時の、特に女性にとって大事なのは、妊娠した場合の出産に伴う危険があります。無事に出産するように保証を考えなければならなくなってきた。それから将軍さまから、一般庶民に至るまで「貴賎上下」を問わず、相手かまわず襲いかかってくる疱瘡、これも民衆が直面する恐ろしい経験です。そのような生活上の問題と中山みきは実は向いあっている。「谷底」から民衆の教えを説き始める。つまり抽象論とは違うわけで、この姿勢は他の民衆宗教の中にもみられるかと思います。

不受不施派の弾圧

 天理教が立教されるのは天保九年一○月で、大塩の乱から一年半のちの事ですが、大塩の乱にもろに出てくるのに、不受不施派の弾圧があります。不受不施派というのは、これはなかなかおもしろい宗派でありまして、日蓮宗の流れですが、自分の信仰と違うものから、一切布施はいただかない。それからその人のために拝まないという一神教的な宗派です。きっかけになったのは、豊臣秀吉が京都東山の方広寺の落成に当って、文禄四年(一五九五)に先祖と父母の供養のために、千僧法会をやりまして、京都の坊さんを集めたのです。その時に不受不施派の僧が拝まない、法要に行かない、と言ったのです。日奥という僧ですが、宣告したその晩に、その当時お寺は大きいですから、何人かの僧がいますが、それを率いて妙覚寺を明け渡し、地下に潜るわけです。五人組帳や宗門改帳という江戸時代の記録をみますと、前書に禁止事項が書いてありますが、キリシタンの取締りと不受不施派、幕府はこれを宗教上の最大の敵としています。

 これが、大塩の乱の翌年に大坂で頭をもたげた。近世期を通じて各地にこの宗派が潜んでいて、八丈鳥とか伊豆大烏に流罪にしていますが、その情報が秘密のルートで各所に伝えられてきているわけです。岡山の本山妙覚寺に行きまして、少し調査しました。岡山藩ではお葬式をすると、不受不施派の人は一応表向きの宗派でしたあと、不受不施派の坊さんが覆面しまして、刀をさして馬に乗って走って来て拝むのです。こういう動きが、大坂の高津から出てきたわけです。もう一つ大東市の北条のお寺からも見つかって、和泉市になりますが、和気村一村が不受不施派であることがわかった。表向きは違う。今見に行きますと、不受不施派の田所さんの所にある墓は三つぐらいに割られています。大塩の乱の翌年の弾圧、だから機械的に解釈して、不受不施派の中には大塩の影響があるという人がありますけれども、これはちょっとこじつけです。

 しかし、時代として、並んで出てくる。新しい宗教とも関係しますが、不受不施派の特徴は、隠れずに名乗り出るんです。「国主諌暁」を主義としていますから、我が宗教を信じよといっていくのです。そしてつかまります。単に地下に潜っているだけでなく、ある時期をみて、誰かを派遣するわけですね。こういう動き をしました。この時、大坂町奉行から、岡山から備中・美作・讃岐へ十二人の手先がいったのですが、今のところこの役人については一人の人物以外はわかりません。大阪の歴史で光をあてるべきだと思います。大塩の時代は新しい民衆宗教の登場、それから、中世的伝統を持った、不受不施派のようなのが姿を現し、生 まれてくる時代だったろうと思います。

宇宙の根源と社会観

 最後に、そういうもののなかで、何が問われたかです。私が思いますのに、大塩の檄文も、その当時の政治を批判すると同時仁、天照大神にまでは戻るのは到底無理だ、堯舜も無理だ、せめて神武天皇の政道に戻りたいといっているわけです。神武といえば、戦前の教育を受けた人にはそう距離はないかと思いますが、江戸時代の人にとっては距離があります。この中で神武に戻るという所から一遍幕府の政治を改めて考えたいということでしょう。

 それからもう一つ、興味深いのは、天地の根源を問う事が、思想的に出てきた。大塩もそうだし、民衆宗教もそうですが、そのことを問うています。その中に例えば富士講というのがあります。これもなかなかおもしろい宗教で、あるところまでいくと、富士山にまいることから不二道という宗派に成長します。いささか過激な方で、弘化四年(一八四七)に幕府の大目付に不二道を信じろ、「万民の危急を御助けなし下され候様」と訴え、捕まるわけです。この人たちがとった教義と伝道の方法は興味深い。伊勢国多気郡に岡本友清という人がいて、史料が最近随分出てきましたが、この人も「天地開闢根元記」を書いているのです。つまり、江戸時代の教育で受けてきたものと違った、天地根源を明らかにしたい、この富士講にとりましては、食行身禄という人が、ミロクという言葉がここに生きてくるわけですけれども、そういう中で出てきます。こういうところで、考えますと、特に不二道あたりになりますと、宗教活動を生かしながら、民衆の直面している暮らしにどうかかわるか。暮らしをよくするためには、例えば天保の飢饉の体験から稲の収穫を増やさなければならない。友清は伊勢錦という稲の品種を発明し、参宮客に配りました。これを受けたのが、天理市内の永原の中村直三という、身分から申しますと、被差別の非人番ですが(この人は思想的には通俗道徳の心学をもっています)、これが友清と結んで、大和の農業生産力を高め、飢饉を克服するための策を取ることになるわけです。また中山みきが「この世の初まりのぢば(地場)ゆえ天降り」と語ったのも、天地の根源を考え直した例になります。

 この動きのあと、維新になりますと、政府は「人民告諭」で「天子様は天照皇太神宮様の御子様にて此世の始まり、日本の主にましまし」というような政治宣言も登場します。

こういうものが、だいたい大塩の乱が起きる頃から、様々の形で登場してきている。政治的にみると、確かに大塩の乱は天保改革を予告し、明治維新三十年前のことですから、ここから明治維新の一ぺージを書き始めることは問題ありません。経済的にも幕藩制の経済構造が大きく転換し始める時期ですから、ここから書き始めていい。しかし、私はそれだけでなくて、大塩を取り巻く思想・宗教・文化面においても、一つの画期をなしている。そして、これが明治維新の道を作り出す。ところが明治維新がどういうものになるかについては、まだまだこれに対する別の要素が加わってきますので、そうストレートにはいきませんけれど、少なくとも明治維新へ足音がが聞こえ始めてくる、そういう画期になるのではないかと思います。これは大塩を先頭に、民衆宗教も含め、また既成宗教に中で生きていた精神も含めて、時代の新しい到来を予告する時期が大塩の時代ではなかったかと考えます。ちょうど時間になりましたので、これで終らせていただきます。


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