Я[大塩の乱 資料館]Я
1998.8.8
2000.1.21訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「講 談 大 塩 騒 動」 その1

堺 枯川 (利彦 1870−1933)

『愛国新聞 第5〜14号』1924より転載


◇禁転載◇

天保銭 表天保銭 裏


「愛国新聞 第五号」 大正十三年四月十一日

【一】

 一 人間といふ奴は馬鹿者

読者諸君の中には天保銭といふものを知らない人もあるだらう、何しろアノ小判形の真ん中に四角な穴のあいた、アノ大きなズウ体をしてゐながら、明治の世の中では八厘にしか通用しなかつたのだから、「少し足ん」といふ符牒に便われたも無理はない。五銭の穴あき白銅を大正時代のシンボルとするなら、天保銭は即ち天保時代のシンボルだ。

然し「天保人間」といふ言葉は必ずしも「少し足らん」人間といふ意味ではなかつた。旧弊な人間、頑固な人間、時勢後れの人間が即ち「天保人間」だつた。今日生き残つてゐる「天保人間」は、清浦西園寺松方あたりより外には先づあるまい。所が、あの人達は夜店にも出されず、今だに何んのかのと頑張つて居るから驚く。

余談はさておき、其の天保の八年に大塩騒動が起つた。丁度今から八十六年前と云ふと、随分古い昔のようにも聞ゑるが、その中から大正の十二年と、明治の四十四年と合せて五十六年を引き去ると、あとはたつた三十年だ。徳川幕府の倒れた時から只つた三十年前の事だ。何しろ当時は、二百幾十年の太平が打ち続いた後であつて、そこに忽然として、ソレ火矢だ、鉄砲だ、それ謀叛だと来たのだから、謂ゆる晴天の霹靂なるもので全く途方もない大騒動であつた。然るに其の大騒動が只つた一日で鎮まり、其の跡片付も一と月二た月の中に済んでしまふと、人間といふ奴は馬鹿なもので、徳川の御代は又万々歳だと思いこんでゐた。所が、それから只つた三十年で明治の新社会が生まれた。世の中の変遷といふ事を考えると、面白くもあれば恐ろしくもある。

実はも少しこゝで何か小理窟を云つて見たいと思ふのだが、まあ云はずに置く。私が云うよりか、諸君に考へて貰ふ方がいゝだろう。

二 天より下され候書付

扨(さて)、天保八年二月十九日早朝のこと、河内国尊延寺村の百姓男が二人、鍬を杖について麦畑のはしで立話をしてゐた。

「弥助どん、お前に一つ見てもらいたい物がある。これは何ぢやろな」

「ハテね、お触れでも無いやうぢやし、お守りでも無いやうぢやが、久作どんお前こんな物どうして持つてなさる」

「サアそれがよ、けさ俺が家の窓の中に投げこんであつた。何ぢややら薄気味が悪いので、かゝあにも云はずにジツト懐に入れて来た」

「ハテね」と、弥助は鍬を放り出して、一尺ばかりもある黄色い薄絹の袋の中から一つの書付を抜きだして、其のうわ書を打眺めた。弥助は少し字が読めるらしい。

「天より下され候書付…」

「ナニ、天より下され候書付! それぢや弥助どん。天狗が投げこんで行つたものか。どうも俺、只事でないと思ふた。」

弥助は小首を傾けたが、「久作どん如何にもこりや只事でないわい。『天より下され候書付』……そして『村々小前のもの共に至る迄』と添書がしてある」

「フン。それぢや弥助どん、マア中を開けて、どんな事が書てあるか読んで見て下さい」

弥助は恐る恐る其の書付を広げた。西の内五枚継の版行摺で、「四海困窮せば天禄長くたゝん、小人に国家を治めしめば災害至る」と草書平仮名交りで書きだしてある。

「イヤサ、これは俺れなんぞの読めるものじやないわい。ぢやがの弥助どん、俺は少し思い当ることがある。ヒヨツトすると、これは大塩平八郎様かも知れんで」

「大塩平八郎様! オウ、此の間俺達に一朱ずつ施行をして下された…」

「ウム、それよ、あのお方よ、これは一つ深尾の才次郎さんにお尋ね申して見やう。才次郎さんは大塩様のお弟子じや。百姓の息子でも学問はエライ出来るそうじやし、年は未若いが中々の器量人じや」

「そう云えば弥助どん、才次郎さんはこのごろ鳥打の鉄砲をいぢりまわしたり、竹やりを拵へてみたりしていなさるが」

「ウム、そうか。それにも何ぞ訳がありそうぢや。オう、あそこに忠エムが来た。忠ヱムはいつも才次郎さんの処に出はいりをしてゐるのじやから、先づあれに尋ねて見ようじやないか」

忠右衛門は百姓ながら一癖ありさうな面構へをした男でドテラの着流しでノソリノソリと二人のそばにやつ て来た。


「愛国新聞 第六号」 大正十三年四月廿一日

【二】

「忠エムどん、えへ所じや。お前に一つ尋ねたい事がある。」と、弥助は書付を片手に握つたまゝで話しかけた。

忠右衛門は其の書付けに目をつけて、更に二人の顔をジツと見やつてから斯う云ひだした。

「お前達、その書付を見たか。大塩平八郎様の檄文じやぞ。大塩様は俺達を救ふてやらうといふ思召しで、今度一大事をお思ひ立ちなされる。ソラ、此のあいだ俺達に一朱づゝ施行して下されたのも大塩様じや。そしてあの時、若しや此の先き天満の方角に火事があつたら、皆々馳せつけて呉れといふお頼みであつた事はお前達も覚へて居やう」

「それを忘れてなるものかい、天満が火事と聞いたが最後、俺は忠エムどん、何時でも駈つける気でゐるのじや」と弥助は云つた。

「弥助どんの云ふ通り、俺も火事のお手伝いなら何ん時でも大塩様に駈けつける」と、久作も云つた。

「よしよし、それならよい。実はな、大塩様の一大事といふのは……イヤ、それはマア俺から云ふまい。今に才次郎様が話して下さる、何にせ此のあたりは大塩様にご因縁が深い。マア腰かけてユツクリ話さう。」

忠右衛門はありあわせた石ころの上に腰かけた。弥助と久作も、狭い通をはさんで忠右衛門の向ひ側に腰をおろした。二人はもう何んにも云はないで、唯忠右衛門の顔ばかり覗いてゐた。それで忠右衛門は話しつづけた。

「深尾の一家が大塩様とご懇意なことはお前も知つての通りじや。次兵衛さんはあの通りの人好しぢやが、弟の才次郎さんは大塩様の立派なお弟子じや。それから深尾の親類で(お前たちも知つて居る筈じや)守口町に白井孝右衛門さんといふ質屋がある。その孝右衛門さんは随分前から大塩様のお弟子で、身代は大きいし、大塩様のお勝手元は半分くらゐそこでお世話して居るといふことじや。せがれの彦右衛門さんも暫く大塩様に入塾してゐた事がある。それから般若寺村の庄屋で橋本忠兵衛さん、これは大塩様のお妾おゆうさんの仮親にまでなつてゐる。また忠兵衛さんの娘のおみねさんは、大塩様の御養子格之助様のお妾になつてゐる。それから何じく般若寺村の年寄に相岡伝七さんと云ふのがある。これもお弟子じや。それから森小路にも相岡源右衛門といふ年寄がある。また森小路には横山文哉といふお医者もある。この文哉さんの母御は大塩様にお針奉公してゐる。マアこんなわけで、摂津、河内をまたいだ此の界隈は大塩様の因縁で堅まつてゐるといふてもえへ位じや。それじやに依つてイザ何事といふ時には、皆が一度に大塩様に駈け付ける段取りがちやんとついてゐる。お前達もそのつもりで御加勢して呉れよ。えゝか、分つたか。それになんぢや、この界隈ばかりぢやない。摂州、河州、泉州から播州にかけて、大塩様のお名前を知らん者は一人もない。お名前を知らん者ばかりぢやない、大塩様の日頃からのなされ方を有難がつて居らん者は一人もない。取りわけ渡辺の穢多村などぢやあ、まるで大塩様を神様のように思ふて居るといふ事じや。こゝらあたりの穢多村でも、大塩様の為めなら火の中にでも飛び込むと云ふ者がなんぼでもある。そこで大阪の御城代様よりも、両町奉行様よりも、与力の御隠居の大塩様の方が、よつぽど御威勢が強いといふものじや。」

「成程々々、そりや忠エムどんの云ふ通りぢや、所で忠エムどん此の書付けは!」

「書付けも書付けじやが、忠エムどんの云ひなさつた其の大塩様の一大事の思ひ立ちといふのは一体何じやい」

「其の書付けを読めば何もかもちやんと分る。それは檄文と云うての、一大事の御趣意を大塩様が俺達に知らせて下さるのじや。ソラ此の上書きに『天より下され候書付』とある。大塩様は天道様の代りになつて、悪い奴等を御ちう伐なさろうと云ふのぢや、それで此の書付けは天道様から下されたも同じわけじや。」

「成程々々、所で忠エムどん『天より下され候書付け』だけは俺にも読めたが、肝腎の本文はサツパリ読めん。お前一つそこで読あげて下され。」

「そうじや忠エムどん、大きな声で読みあげて俺達に聞かせて下され。」

「イヤ、そいつは俺にもチツト六かしい。これから一緒に才次郎さんの所へ行かう。サア二人とも来いやい。」 三人は立ちあがつた。ドテラの着流しの忠右衛門のあとから、弥助と久作は鍬をかたげてついて行つた。


檄文


「講談大塩騒動」 その2

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