Я[大塩の乱 資料館]Я
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大塩の乱関係論文集目次


「講 談 大 塩 騒 動」 その2

堺 枯川 (利彦 1870−1933)

『愛国新聞 第5〜14号』1924より転載


◇禁転載◇

「愛国新聞 第七号」 大正十三年五月一日

【三】

忠右衛門と弥助と久作の三人が氏神の社の前まで来ると、その社内に五、六人の百姓が集まつて、何やらワイワイ騒いでいた。「大塩様」「大塩様」といふ声だけはハツキリ聞こえてゐた。やがて誰かゞ「才次郎さんを呼んで来い」「才次郎さんに来て貰へ」と云ひだした。兎かくする中、社内にはモウニ十人ばかりの百姓が集まつていた。

暫くすると月代を奇麗に剃つた、年はまだ二十五六の凛々しい顔をした深尾才次郎が走つて来た。才次郎は行きなり拝殿に飛びあがつて、そこに張りつけた檄文を読みあげ掛つた。

「皆よく聞け、大塩平八郎様の大事の檄文ぢや。」

百姓どもは片唾を呑んで拝殿の前に立ち並び、才次郎の顔ばかり見あげてゐた。

「四海こんきゆういたし候はゞ天禄ながくたたん。小人に国家を治めしめば災害並び至ると、昔しの聖人深く天下後、世人の君、人の民を者たる御誡しめ置かれ候ゆえ、東照神君にも鰥寡孤独に於いて最も哀みを加ふべくば、是れ仁政の基と仰せ置かれ候。」

百姓どもは其の文句があまり分つた様子でもなかつたが、それでも一心に聞いてゐた。

「然るに茲二百四五十年太平の間に、追々上たる人、驕奢とておごりを極はめ、大切の政事に携はる諸役人共、賄賂を公に授受して贈り貰ひ致し、奥向女中の因縁を以つて、道徳人義もなき拙なき身分にて身を立て、重き役に経のぼり、一人一家を肥し候工夫のみに知術をめぐらし、その領分知行所の民百姓共へ過分の用金申付、是まで年貢諸役の甚だしきを苦しむ上へ、右の通り無体の儀を申し渡し、追々入用かさみ候故、四海の困窮と相成リ候に付、人々上を怨みざるものなき様に成行候へども、江戸表より諸国一同右の風儀に落入り、……(どうじや皆な分たか。善く聞けよ。)

「天子は足利家己来、別隠居御同様、賞罰の柄を失ひ候に付、下民の怨み何方へ告そとて告げ訴ふる方なき様乱れ候に付、人々の怨気天に通じ年々地震火災山も崩れ水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候……(どうじや、此の通りであらうがな、善く聞けよ。)

「此れ皆な天より深く御誡しめの有がたき御告げに候へども、一向上たる人々も心つかず、猶ほ小人奸者の輩、大切の政を執り行ひ、只だ下を悩まし金米を取立てる手段ばかりに打懸かり、実以て小前百姓どもの難儀を、吾等如きもの草の蔭より常に察し悲しみ候へども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒らに蟄居いたし候処、此節米価弥々高値に相成、大阪の奉行並に諸役人ども、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、江戸へ廻米を致し、天子御在所の京都へは廻米の世話も致さざるのみならず、五升一斗の米を買に下り候もの共を召捕など致し、……(此事はお前たちもよく知つてゐる筈じや。江戸へは内々で廻米する癖に、大阪の米を安くせねぱならぬと云ふて、京都其外へは米を廻さず、近在の人たちが困りぬいた揚句、僅か五升一斗の米を買ひに大阪に下れば、それを召捕つてひどい目に会せる。それが今の役人の仕打ぢや。それから……)

「実に昔し葛伯といふ大名、其農人の弁当を持運び候小児を殺し候も同様、言語道断、何れの土地にても人民は徳川家支配のものに相違なき処、此の如く隔を付候は全く奉行等の不仁にて、其上勝手我儘の触書等を急に差出し大阪市中の遊民ばかりを大切に心得候は、前にも申す通り道徳仁義を有せざる拙き身故に、甚だ以つて厚かましく不届きの至……(大阪の町民ぱかり可愛がつて、米を作る百姓をいぢめる、それで俺達の浮ぶ瀬があるか。それから此次が大切な文句じやぞ)


愛国新聞 第八号 大正十三年五月十一日

【四】

「且つ三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸し付け候利徳の金銀並に扶持米等を莫大に掠め取り、未曾有の有福に暮し、町人の身を以て大名の家老用人格等に取用ゐられ、又は自己の田畑新田等を夥だしく所持し、何不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら畏れも致さず、餓死の貧民乞食をも敢て救はず、其身は膏梁の味とて結構な物を食ひ、妾宅等へ入り込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘ひ参り、高価の酒を湯水を飲むも同様に致し、此難渋の時節に絹服をまとひ候河原者を妓女と共に迎へ、平生同様に遊楽に耽り候は何等の事か、紂王長夜の酒宴も同じ事、然るにそこの奉行諸役人、手に握り居り候政を以つて右の者共を取り締り、下民を救ひ候儀も出来難く、日々堂嶋相場ばかりをいぢり事いたし、実に禄盗にて、決して天道聖人の御心に叶ひ難く、御赦しなき事に候……(どうじや皆の者、役人と金持は全くこの通であらうがな)

群集はもう三、四十人にもなつて居たが、皆な目を光らして声の好い才次郎の弁舌に聞きふけつてゐた。

(サア、これからいよいよ大塩様の一大事のお話じや)

「蟄居の我等、最早堪忍成り難く、湯武の勢、孔孟の徳はなけれども、拠んどころなく天下の為と存じ、血族の禍をおかし、此度有志の者と申合せ、下民を悩まし苦しめ候諸役人をまず誅伐いたし、引続き驕に長じ居り候、大阪市中の金持の町人共を誅戮に及び申すべく候間、右の者共穴蔵に貯へ置き候金銀銭等、諸蔵屋敷に隠し置き候俵米、それぞれ分散配当いたしつかはし候間、摂河泉播の内、田畑所持いたさざる者、たとへ所持致し候とも、父母妻子家内の養ひ方出来難き程の難渋者へは、右金米等取らせ遣はし候間、いつにても大阪市中に騒動起り候と聞き伝へ候はば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け駈け参るべく候、面々へ右米金を分け遣はし申すぺく候……(どうじや皆の者、其米金が欲しうはないか。欲しかつたら大塩様の仰しやる通り、イザと云ふ時は里数を厭はず、一刻も早く駈けつける事ぢや。)

群衆の目の色は愈々(いよます)益々光つて来た。才次郎の目からも火の子が飛び出してゐる様に見えてゐた。

(それからまだまだ大事な事があるぞ。)

「きよ橋鹿産の金粟を下民に与へられ候遺意にて、当時の飢饉難儀を相救ひ遣はし、若し又其内、器量才力等之有者には、夫々取り立て、無道の者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ申すべく候。必ず一揆蜂起の企てとは違ひ、追々年貢諸役に至るまで軽く致し、総て中興神武帝御政道の通り寛仁大度の取扱に致しつかはし、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改め、質素に立戻り、四海万民いづれも天恩を有難く存じ、父母妻子を養はれ、生前の地獄を救ひ死後の極楽成仏を眼前見せ遣はし、ぎょう舜天照皇太神の時代に復しがたくとも、中興の気象恢復とて立戻り申すべく候……

(皆の者こゝを善く聞たか。お前達は今ま現在、生き地獄に落ちて居るのじや。それを大塩様が救ひ上げて極楽成仏を此世で目の前に見せてつかはすと仰しやる。お前達は地獄が好いか。極楽が好いなら大塩様の仰しやる通りにする事ぢや)

(それから)「此書付、村々へ一々知らせたく候へども数多の事に付、最寄の人家多く候大村の神殿へ張り付け置き候間、大阪より迴し之有番人共に知られざる様に心懸け、早々村々ヘ相触れ申すべく候、万一番人ども見付け、大阪四ケ所の奸人共へ注進いたし候様子に候はゞ、遠慮なく面々に申し合せ、番人を残らず打殺し申すべく候、若し大騒動起り候を承りながら疑惑いたし、馳せ参じ申さず、又は遅参に及び候はゞ、金持の米金は皆な火中の灰に相成り、天下の宝を取失ひ申すべく候間、跡にて必ず我等を恨み、宝を捨てる無道者と蔭言を致さゞる様致すべく候、其為一同相触れ知らせ候……

(よいか、皆な分つたか)

(それからまだ有る)尤も、是まで地頭村方にある年貢等にかゝわり候諸記録帳面類は総て引破り焼棄て申すべく候、是れ往々深き慮りある事にて、人民を困窮いたさせ申さゞる積りに候、去りながら此度の一挙、本朝平将門、明智光秀、漢土の劉裕、朱全忠の謀叛に類し候と申す者も、是非之有道理に候へども、我等一同心中に天下国家を纂奪いたし候存念より起りし事には更に之無く、日月星辰の神鑑にある事にて、詰る処は、湯武、漢の高祖、明の太祖、民を吊ひ、君を誅し、天誅を執り行ひ候誠心のみにて、若し疑わしく覚え候はゞ、我等の所業終り候処を爾等眼を開いて看よ……。

(檄文の文言は之でお仕舞なや。サア皆の者、お前達はどうする気か。大塩様のお味方になるか。それとも今迄どほり大阪の役人と金持とにいじめぬかれて、馬鹿にされて、それで泣寝入をするか。どちらなりと銘々の勝手にせよ。)


愛国新聞 第九号 大正十三年五月廿一日

【五】

才次郎は斯う云ひはなして、まだ拝殿に突立つたまゝ群衆の顔を睨みまわしてゐた。群衆も矢張り緊張した沈黙を守つて、才次郎の顔ばかり見つめてゐた。

「オ、あの空を見い、火事ぢや!火事ぢや!」と叫ぶ者があつた。群衆の顔も才次郎の顔も一斉に西の空に向つた。西の空はパアツト一面に赤くなつてゐた。

「大阪ぢや、大阪ぢや!」「天満の火事ぢや!天満の火事じや!」といふ声が群衆の間に起こつた。

「鎮まれ。鎮まれ」と才次郎は拝殿の上から叫んだ。その目は大阪の火事が燃へるように赤くなつて光つてゐた。

「あの火は確かに天満ぢや、大塩様が俺達に早速駈けつけて来いといふ合図のノロシぢや。サアこれから尊延寺に行つて早鐘をつくのぢや。皆の者は銘々に用意をして、一人でも余計に味方を誘つて来い。鉄砲があるなら鉄砲を持つて来い。刀があるなら刀を持つて来い。ナタでも鎌でも庖刀でもよい。刃物が無ければ竹槍を持つて来い、同勢が揃つたら般若寺村の方に押しかけて、あそこの味方と一緒になつて、それから守ロ、森小路と順々に進んで行かう。あれ、あれ、火の手は段々強くなる。グズグズしてゐて折角の金と米とを取り損なうな。サア皆の者、早く!早く!」

それから程なく尊延寺の早鐘が近隣に鳴り響いた。昼過ぎになると、竹槍を持ち、鎌を持ち、鉄砲を持つた何百人かの百姓が、白鉢巻をした深尾才次郎に引率されて、摂州般若寺村の方角へ繰り出した。忠右衛門も弥助も久作も、皆な其の中に交つてゐた。大阪の空には火の手が益々盛んに起つてゐた。百姓達の眼の中にはモウ、大阪市中の町々の道ばたに散らばつてゐる筈の仰山な金や米がアリアリと目に映つてゐた。

同じ日の朝、大阪北船場今橋筋、鴻池善右衛門方の奥の間に、当時学者として有名な篠崎小竹先生と、これも有名な書林河内屋の亭主喜兵衛とが対坐してゐた。

北船場は大阪の金穴と云はれた位で、今橋筋には鴻池善右衛門、鴻池庄兵衛、鴻池善五郎等といふ鴻池家の一党、それに次いでは天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛などあり、又高麗橋筋には三井呉服店、岩城、升屋などがあり、富商豪家軒を並べ甍を連ね、其の繁栄を競ふてゐた処である。中にも鴻池の総本家善右衛門の邸と云へば大したもので、昔淀屋辰五郎が自分で云つたといふ言葉の通り、正に「町人公方の御所」であつた。

篠崎小竹は本名を長左衛門と云ひ、博学能文、浪華第一の学者であつたが、此人、学者に似合はず蓄財が上手で「学者中の鴻池」といふ綽名さへ付けられてゐた。家作なども大分ん持つてゐて、其方の資格では家主長左衛門と呼ばれてゐる。そういふ人物だから、只だ物識りで器用に文章を書き宇も上手だと云ふだけのもので、学者らしい見識もなければ誠意もなかつた。それで鴻池家に対しては先つ御出入りの格で、今日は主人善右衛門殿に論語の御講釈を申上げる筈で、早朝から此の一室に詰めて、主人の出座を待つてゐるのであつた。

喜兵衛は河内屋一党の本家で、これも書林として鴻池の出入りであり、今日も何やらの御買上を願ふ筈で参上してゐたが、丁度篠崎先生が御見へになつてゐると云ふので、待ち合せの間、暫く先生の御機嫌を伺つてゐるのであつた。

二人は名香の香りのする殿様火鉢を隔てゝ浮世話に耽つてゐたが、いつしか大塩平八郎が先達つて蔵書一切を売払つて施行をした事に及んで来た。


愛国新聞 第十号 大正十三年六月一日

【六】

河内屋喜兵衛と篠崎先生とは猶言葉を続けた。

「あれは手前どもの一党でお引受けを致したので御座いまするが、多年お買い集めの事で御座いまするので、それはそれは随分な本数で御座りました。何んでも一万二千三百四十五冊で、金高が六百五十四両ばかりで御座いました」

「ホホツ、随分珍書もあつたかの」

「へい、それはもう誠に結構なものばかりで、一切経まで揃うて居ました」

「ホウ、一切経まで。いつれ門人共を絞つて買ひ集めた物であらうな」

「左様で御座います。兵庫西出町の柴屋長太夫と申す方なぞは、天保三年に入門なされてから五年の間に、書籍代を三百両も差出したと聞いて居ります」

「多分それは、貴様の書籍を買い調べてやる、但し其書籍は当塾に預つておくといふ筆法であらうな」

「先づ左様なことででも御座いませうか。エツヘヘへ」

「それで施行は高言通りに致したのかの」

「ヘイ、それはもう、矢張り私共一党で御世話申しましたが、安堂町の五丁目の本屋会所で、此月の初めから七日の間、一万人に金一朱づゞキツチリと渡し済みになりました。其の金高が六百二十両余りになりまするが、大塩様のお邸では其後もまだ引続いてお恵みになつてゐると申すことで御座います。そして予め施行札をお配りになつた時、これを其方共に遣す代り、若し天満方角に火事でもあつたら必ず馳けつけてくれよと、一々御申渡しになつたとか聞いて居ります」

「ソーレ、あの男はそういふ事を申す。総てが名聞の為めぢやの。施行は誠に慈善に相違ないが、名聞の為 めに施行をするとは怪しからん。それに儒者が蔵書を手放すとは、武士が両刀を棄てるやうなものじや。料見の程が分らん」

「左様で御座います。どう云ふお思召しであゝいふ事をなされましたか。尤も、あの通り疳の強い御気性で居られますから……」

「サア其の疳の強い気性と申す事じやがの。つまりあの男は慢心の狂人ぢやな」

「折々左様なお噂も承たまはりますが、然しそれに致しましても……」

「イヤ全く狂人に相違ないよ。あの目の釣りあがつた人相を一目見ても分るぢやないか」

「でも中々立派な骨柄をしてお居でになります。色はお白いし、背はお高いし、痩ぎすでは御座いますが、あの面長な凛としたお顔で、唇をしつかり結んで睨めつけられますと、手前共はもうピリピリ致します」

「それはお前たちがあの男の慢心に威かされて居るからじや。心ある者は皆あれを狂人扱ひに致して居る。前東奉行の高井山城守殿があれに膳部を賜はつた時、あれが「カナガシラ」と云ふ魚を頭から尻尾まで骨も残ず食ひ終わつたといふのは有名な話じや」

「それは承つて居りますが、気象の強い学者先生は違ふたものじやなどと、下々では感心して居る者も御座いまする」 「馬鹿なことを云ふのものでない、一体あれの学問が食はせ物じや。陽明学を売り物にして、良知の一本槍で通して居るが、一体あの男は何んでも彼んでも自分の思ひついた事を皆な良知ぢやと自惚れてゐる。良知どころか一巳の我意じや。然しそこが即ちあの男の慢心じや。慢心がこうじると乱心になるわい。どこやらの金待が茶道に耽つて、段々高価な茶器を買ひ求めて、とうとう名物の茶椀一つを抱いて其家を亡ぼしたと云ふ話があるが、大塩も先ず其の格ぢやの」

「成ある程、そういふ処も御座いますかな。手前共には学問の事は勿論分り様も御座いませぬが、大塩様の行先は何んじややら危ぶないような気が致しまする」

斯う云つた書林喜兵衛は、篠崎のいふことがあまり僭越的な感じがしたのでツト便所に立つて行つた。


愛国新聞 第十一号 大正十三年六月十一日

【七】

篠崎小竹は、猶言葉を続いで大声に話かけた。

「今に大塩も何かで身を亡ぼすまでの事よ。あんな者を学者々々と云はれては我々が迷惑する。ナア喜兵衛、そうぢやないか。それに大塩は先達て当家にも大枚な無心を申込んだと云ふことではないか」

「左様に承つて居ります。何でも此ごろ米価高値につき、下々の難渋を救ふのぢやと仰せられて、鴻の池一党、米屋一党、天王寺屋、加嶋屋、其外大身代の諸家へ大金の御無心があつたさうで御座居ます。それで当家あたりでも何となく世上不穏なる時節柄でもあり、又外ならぬ大塩様の御相談でもあり、大抵の所まで、御承知になるお積りで、然し大金の事で御座居まするので、一応奉行所に其旨を伺ひました所、誰に何程の金を貸さうと、それは銘々の勝手であるが、然し与力の隠居にそれ程の義埋立をする位なら、此後江戸から御用金の御沙汰のあつた節、一言半句も言はせぬぞよと、奉行様からトゞメを刺されたので、いづれも驚いて大塩様にお断りを申したと承つて居ります」

「ウム成程、山城守の云はれる所に道埋があるわい。仮令(たとへ)如何様に米価が高価であらうとも、又下々が如何に難渋しようとも、与力の隠居が差出がましい事を申すべき筋合でない。当家あたりでも、大塩等に対して私に大金を貸さうより、快く公儀の御用金を差し出した方が何程立派であるか知れぬ。大塩も一つ慢心の鼻を挫かれたと云ふものぢやな」

「それにまだ斯ういふ事も承つて居ります。大塩様は当家あたりへ右の御相談の以前、大身代の家々から身代百貫目につき一貫目づつの割合で出金いたさせ、それで以て下々の難渋を救はうと申す仕様書をお作りになりまして、それを当主の格之助様から、東奉行所へ御差出しになりました所、山城守様は御採用の景色も見えず、其後再三格之助様から、強いて御申立が御座いましたのに対して、山城守様はとうとう「平八郎乱心いたしたか」とお叱りが御座いましたので、格之助様は返す言葉もなく、其まゝ退出して御養父様に其由を語られました所、平八郎様は落涙に及ばれまして、此上は致方ありと仰せられたと申す事で御座ゐます」

「喜兵衛、其方はよく色々と委しい事を存じてゐるな。ハハハ。何んぼ大塩が「此上は致方あり」と申した所で、高が与力の隠居でどういふ致方があるものか。一体大塩には門人が多い、一味が多いと申すが、東組の与力同心の中で大塩についてゐる者がどの位あるかの」

「サア、それは如何(どなた)様か存じませぬが、東組と西組との間は御存じの通りモウ永いことスレスレで御座いまして、それに今度、東奉行の跡郡山城守が却つて西組方をお近づけになり、殊に西組の内山喜三郎様をきつく御信任の御様子で、遠からず、両組の組替もあらうと申す事で御座います。所が、大塩様は内山様と大のお仲悪で、そこで東組の与力同心の方々が大抵皆な大塩様をお頼りにして、西組を憎むといふ有様かと存じて居ります」

「ウムそういふ事を自分も聞かんではない。然し喜兵衛〔、大塩がどれほど東組に人望〕があるにした所で、又どれほど名聞の施行などをやつたにした所で、又昔からの評判がどれほど高いにした所で、又よし人ばなれの学問がどれほど深いにした所で、又よしんばあれの気象がどれほど強いにした所で、高が二百石ばかりの与力の隠居で、「此上は致方あり」など、高言をほざいて見ても、どう致方があるものじやあるまひテなア」

「イヤ、全くそれは御尤もで御座います。ぢやに依つて手前共は、及ばずながら、いかう大塩様のお身の上を御案じ申して居るので御座いますが」

斯う云ふ話がはずんでゐる所に、当家の主人善右衛門がいよいよ出座に成るといふ知らせがあつた。


「愛国新聞 第十二号」 大正十三年六月廿一日

【八】

当家の主人善右衛門の出座と知つた二人は居ずまいを正した。

やがて次の広座敷との隔ての襖がスウト両方に開かれた。

正面には三枚重ねの紫緞子の蒲団の上に、丸で殿様か公方様かのような善右衛門が、脇息に打もたれて鷹揚に坐つてゐた。河内屋喜兵衛は忽ち頭を畳の上に擦りつけて平伏した。篠崎小竹先生はまさか喜兵衛ほど頭を擦りつけはしなかつたが、それでも恭々しく一礼に及んで、殆ど膝行すると云ふ形で御前に罷り出で、さすがに威儀を繕つて備えの見台の前に坐つた。

「小竹先生、今日は御苦労に存じまする」と云ふ御鄭重なお声掛りがあつた。小竹先生は更に又恭々しく一礼に及んだ。町人公方は先程から顎一つ動かしもなされなかつた。

其の時忽ち、「大変で御座ります。大変で御座ります」と注進の者がバタバタ馳けこんで来た。

「何事ぢや、騒々しい」善右衛門は鷹揚気に問かけられた。

「何事どころでは御座りませぬ。先程から天満方角に火の手が見へまして。何やら筒音らしいものが聞こえて居りましたが、早速取調べ聞合せました所、大塩平八郎様の一味が謀叛を起され、程なくこれへ押寄せて参ると申す事で御座ります」

サアもう論語の御講釈どころではない。「それは大変」「それは怪しからん!」と云ふので、小竹先生も河内屋喜兵衛もあはてふためき、這々の体で逃げだして了つた。善右衛門殿も同じくあはてふためくお附きの人々に促がされて、さすがは矢張り悠々と奥の間深く引き下がられた。

×× ×× ×× ×× ×× ××

東町奉行跡部山城守は二月十七日の夜、町目付平山助次郎から、大塩平八郎が謀叛を企てゝゐるといふ密訴を受けた。平山は東組の同心で、矢張り大塩の門人であり、一挙の連判にも加はつてゐたが、段々恐ろしくなつて反り忠を試みたわけである。平山の密訴に依れぱ、来る十九日、新任の西町奉行堀伊賀守と共に天満を巡見し、申の刻(午後四時)頃与力朝岡助之丞の邸へ立寄り、そこで休息する予定になつてゐたのだが、其の朝岡の邸は丁度大塩の屋敷の直ぐ向ひ側にあるので、大塩は其の機を外さず朝岡邸に押し寄せ、両町奉行を大砲で討ち止め、続いて市中に火を放ち、富豪等の倉庫を開いて窮民に施す計画だと云ふのであつた。

然るに山城守はまだ半信半疑でもあり、容易に手を下して却つてそれが為めに爆発の口実を与えてもならぬと云ふので、兎にかく一方には平山を急に江戸に遣はして此の由を幕府に訴へしめ、一方には十九日の巡見を延引した。

所が、十九日の早朝、吉見九郎右衛門の悴英太郎と、河合郷左衛門の悴八十次郎とが、九郎右衛門自筆の訴状と、版行摺りの檄文とを携へて、堀伊賀守の役宅へ駈け込んで来た。吉見も河合も東組の同心で、山城守に対しては不平があり、兼て大塩に与して忰どもを入門させてゐたのだが、扨ていよいよ挙兵となつて見ると、これも平山同様、恐ろしくなつて来たので、窃かに忰共をして裏切をさせたのであつた。但し東奉行には大塩一味の与力、瀬田済之助、小泉淵次郎などが当番をして居る筈なので、それで支配違いの西奉行所へ訴え出たのであつた。

伊賀守はこの訴へに接して、平八郎の謀叛、最早疑う余地がないと云ふので、早速その旨を山城守に通知し、西組の与力同心を招集して討取りの準備に掛つた。

山城守は其の報告に接して、直ちに当番宿直の瀬田、小泉両名を御用談の間に呼寄せた。所が小泉はそれと感づいて逃げ出さうとする所を一刀に斬り伏せられ、瀬田はその隙を見て奉行所の堀を乗越へ、はだしのまゝ天満橋を一目散に大塩邸へと逃げ帰つた。

それから東町奉行では、跡部山城守が一策を案出し、平八郎の叔父に当る東組与力大西与五郎に対し、其方平八郎へ参り彼に切腹を申付け、不承知とあらば刺違えて死ねと申渡したが、大西はいつまで立つても戻つて来なかつた。それは其筈、大西はグヅグヅする中、大塩邸に火が起こつたので、親子で西の宮まで逃亡したが、更に後悔して大阪に引返す中、見咎められては大変だと、刀を海の中へ投げこんだといふ始末であつた。


「愛国新聞 第十三号」 大正十三年七月一日

【九】

扨、東町奉行に於ては西奉行堀伊賀守もやつて来る。両奉行其外、甲冑着用の姿は厳めしかつたが、天満には既に火の手が盛んに挙つて、大塩の邸も朝岡の邸も焼けたらしく、大砲の響や炮碌玉の音が頻りと聞こえて来るのに、こちらは何れも大狼狽の有様で、大塩討取の手順など少しも立たなかつた。なにしろ両奉行配下の与力同心では手不足だと云ふので、鉄砲奉行の同心四十名の助力を求め、更に定番遠藤但馬守へ加勢を申入れ、但馬守の命に依つて、玉造、京橋の両番から数十名宛の援兵がやつて来た。大将山城守は具足を着用して、冑を高紐に掛け、床几に依つて控へてゐた所はよかつたが、玉造の与力坂本鉄之助等が山筒を持つてやつてきた時、是非々々大筒を御持参を願ひたいと云ひだし、この市街戦に大筒は無用だと専門家が抗議をしても、何が何でも大筒が無くては心細いと見え、是非々々大筒をと催促するので、坂本等はよんどころなく態々(わざわざ)無用の百目筒を取りにやつたと言ふウロタへ方であつた。

然らば大阪城中は如何にと云ふに、城代土井大炊頭が両奉行等に暴徒の鎮定を命じ、自ら両番頭を嚮導として本丸の巡視をしたと云へば、相当厳重らしくも聞えるが、大番組の面々が担いで来た鎧櫃の中から鍋釜類が出て来たと云ふ滑稽な次第であつた。

其の間に只一つ山城守の取つた戦略は天神橋の南の端の橋板を取りはづした事であつた。その戦略の巧拙は別問題だが、兎にかく賊はそれが為に、天満から天神橋を渡つて直ちに東町奉行所へ攻め寄せる事が出来なかつた。従つてぞくは止むなく大川伝ひに西に下り、浪花橋を渡りに掛つた。山城守は同じくこの橋をも切り落す作戦で、既に人足共は橋板の取崩しに掛つてゐたが、只の一喝で追い払われてしまつた。

扨、大塩勢の出で立ちを見てあれば大将平八郎及び副将格之助は差込野袴にて白木綿の鉢巻を締め、瀬田済之助、大井辰一郎、渡辺良左衛門、近藤梶五郎、庄司義左衛門、若党曾我岩蔵、守口町孝右衛門、般若寺村忠兵衛、源左衛門、伝七、其他の者共は何れも差込みを差し刀を帯び、一同、槍、長刀、鉄砲の類を携へ、五七の桐の紋所、下に二ツ引の印ある旗一旒、天照皇太神宮、湯武両聖王、並びに東照大権現と認めた、旗二旒、救民と大書したる四半一本を押し立て、大筒四挺を車台に載せ、後陣に在つては数多の人夫に長持葛籠の類を荷はせ、往く往く市民の屈強なる者を味方に附け、総勢数百人、殺気天を貫くと云ふ勢であつた。

それから彼等は浪花橋を渡り、左に折れて二手に分かれ、今橋筋と高麗橋筋とを東に向ひ、目ざした此の富豪町に片端から炮碌玉を投げ込み、或は火具鉄砲を打ち込み、散々に焼き立てた。家財も道具も米も金も千両箱も皆な一緒くたになつてそこら一パイにころがつてゐた。附き従うた何百人の群衆は宝の山に入つた思ひで、我先に掠奪を恣いまゝまにした。鴻池庄右衛門方では四万両も取られたと云ふ話が残つてゐる。千両箱一個で四貫目の重さがあると云ふから、それを担いで逃げた仕合せ者も、随分骨が折れた事だらう。時刻は其時もう昼過ぎであつた。

然るに東奉行では、賊にあの通りの狼藉を働かせて、ジツト見てゐるのでは余り腑甲斐ないと云ふので、皆々山城守に出馬を迫つたが、山城守は臆し切つて、中々出馬しようとは云はない。そこで或者が機転をきかせて、「最早や川崎の東照宮が危く見えます。若しあの御社の焼失を御見物になつては、憚りながら御家にも関はりませう」と言上したので、山城守もギヨツトした様子で漸く気を取直し、然らば出馬致さうと云ふ事になつた。

所が、御奉行の御出馬には御馬印を真先に押立てねばならぬと云ふ事になつたが、誰も真先に御馬印を持たうと云ふ者がないので、仕方がないので、折ふし詰め合わせてゐた穢多共に大小を帯びさせ、それに纏を持たせる事にした。穢多共は何しろ大小を差させたれた嬉しさに、怖い事も打忘れて真先に進んでさ行た。


「愛国新聞 第十四号」 大正十三年七月十一日

【十】

之より先、堀伊賀守も城代大炊頭殿から出馬の命令があつたと云ふので、京橋口の与力同心数十人を従へて出馬したが、島町筋を西に御祓筋の辺まで来ると、丁度大塩勢が高麗橋を渡りかけてゐた所で、白い旗がチラリホラリと見えてゐた。御祓筋から高麗橋までは四町ばかりもあるので、小筒の玉などは迚(とて)も届く筈はないのだが、伊賀守は何と思つたか、「ソレ打てツ」と命令した。一同は滅茶々々に発砲した。命令した者もした者だが、打つた者も打つた者だと、今に笑い話に残つてゐる。後の調べに依ると、大塩勢ではその時丸で打たれた事を知らなかつたらしい。いよいよ以つて阿呆らしくなる。然しそれは先ず好いとして、其のケタたましい筒音で伊賀守の馬があばれだし、折角の大将が見事に落馬した。それもまだ好かつたが、一同の者共はソレ大将が打たれたと云ふので、皆バラバラ逃げ散つてしまつた。取残された伊賀守は致し方なく、独りで起きあがつて塵を払ひ御祓町の会所へたどりついて休息したと云ふ話。

山城守は其あとへ繰出し、内平野町で大塩勢と少しぱかり砲火を交え、堺筋に至つてやや激しい砲戦を為してそこで坂東鉄之助が敵の大筒方浪人桜田源左衛門を打ち止め、其の首を切取つて槍の先に貫き、大ぶん景気よく進んで行つたが、四つ辻まで行つて見ると其時にはモウ大塩勢は潰乱して名も知れぬ者の死体が一つ転がつて居り、外は大筒、小筒、槍、太鼓、旗の類が打棄てゝあつた。

先づこんな事で大塩騒動は鎮静した。しかし兵火は八方に拡がり、翌日の夜まで焼けつゞけた。先づ大阪市中の四分の一は焼けてしまつた。そして大手前の野原に焼け出されの男女老若が群衆して、盥の中で子を産んでゐる産婦もあり、筵の上で転がつて泣いてゐるほう瘡患者もあり、其の苦悶呻吟が丸で鬨の声のように遠方まで聞こゑていた。

サアそれから罹災者の収容所が出来る、お救い米が出る、廉売米が出る、出しおくれの富豪の義捐がある、米価が更に上る、疫病が流行する。随分の混雑であつた。然し其中、暴徒の多くもそれぞれ逮捕となり、或は自殺し、久しく行方が知れずに不安の種となつてゐた大塩父子も、三月二十七日、油掛町手拭地仕入職美吉屋吉五郎方に潜伏してゐるのを発見され、そこで自ら焚死して落着した。そして大塩父子其他十五名の者は塩詰の死骸三郷引廻しの上ハリツケとなり、其他の関係者もそれぞれ獄門、死罪、遠島、追放等に処せられた。

之に対しお役人側に於ては、先づ城代土井大炊頭が「万端の差図宜しきを得たり」と云ふので美濃兼定の御刀を賜はり、定番遠藤但馬守が「平生の心掛け宜敷儀なり」とあつて御鞍鐙を賜はり、其外、坂本鉄之助が「抜群の功」に依つて御目付に昇進し、別に銀百枚を賜はりたるを初めとし、それぞれの御賞与があつた。跡部山城守と堀伊賀守とは、さすがに何らの御褒美にも預らなかつた。ついで平山、吉見両人は返り忠の功に依つて御普請入となり、英太郎八十次郎は各銀五十枚を頂戴した。

音に名高い大塩騒動は斯くの通り、只つた一日間の騒ぎに過ぎなかつた。そして天下は再び太平に帰した。

平八郎父子其他の塩詰屍体が飛田でハリツケになつた九月十八日の夜が更けてから、新町橋の西詰にある通称「白髯(しろひげ)」といふ江戸児の易者の家で、近処の若い者が二三人寄つてヒソヒソ声で話してゐた。

「大塩様もとうとうハリツケになつたと云ふやないか」

「ハリツケになつた、オシヲキ人を大塩様なんと云ふ奴があるかい」

「コレお前達ヤ、此のあひだから御触れのあつたのを知らねえか。「世上の取沙汰、善悪に依らず申間敷候」と云ふんだぜ」

白髯は皮肉な笑ひ顔をして若い者等を制した。


「愛国新聞 第十五号」 大正十三年七月廿一日

【十一】

「そないなことを云ふたら何も話はできやせんがな」

「出けんもんなら、せんと置いたらえゝがな」

「そやかて、人間が顔を見合わせて黙つてばかり居られへんがな」

「馬鹿だのう、お前達や。あのお触は、善悪に依らず大塩様の噂をするなと云ふ事だよ。まさかそうも云はれねえから、世上の取沙汰と斯う来たんだ」

「白髯はん、わたいソウ云われると猶のこと大塩様の事が話しとなる」

「全くそう云ふもんだ。話したかつたら話すさ。まさかハリツケにするとも云やしめい」

「それじや先生、大塩様は何んであんな事しやはつたんやろなア」

「ナゼと云つて人間には、疳癪といふ者があるやな」

「それじや、大塩様は疳癪を起こしはやつたんやな」

「そいぢや、あの炮碌玉ちうなア、疳癪玉の事やな」

「マアそんなんなものよ。だけど何だぜ、疳癪にも大きいのと小さいのとがあるからの」

「大塩様やよつて大疳癪や」

「そうよ。人間疳癪を起す程なら何んでも大きな疳癪を起す事だ」

「白髯はん、そやかて大塩様はあんな事をしやはつて、ハリツケになつたりして、自分の損やないか」

「短気は損気と云ふからのう。だけど何だぜ、あれがお互ひ貧乏人共の為にや行々得になるかも知れねえ」

「わたいなア先生、斯う云ふこと聞きました。大塩様は江戸の徳川様をつぶして天下を取る積もりやつたんやと」

「ウム、世間の人はそんな事を云ふがの、俺はそうは思はねえ。そりやア、お奉行様に対して腹いせをする気もあつたらうさ。あわよくば大阪城を乗取る位の胸算もあつたらうさ。だけど若しか大塩様が徳川様をつぶさうと云ふんなら薩州なり長州なり西国の大名達と示し合せて、何とか外にやり方があつた筈だアね。現にお役人衆の方ぢや、大塩様の蔭に薩州が隠れてるだらうなんて大ぶん気にしてゐたと云ふ事だ。だけど大塩様にや、そんなケもなかつた。それで大塩様は只、貧乏人の溜飲を自分の溜飲にしたんさ。貧乏人の疳癪を自分の疳癪にしたんさ。大阪の市中は金持様の御支配だからの」

「それぢや、大阪は徳川様の御支配ぢやないのか」

「徳川様の御支配には相違ねえが、金持様の御支配の方が力が強いや。よしんば徳川様の天下が潰れたつて鴻池様の天下でも新しく出来て来りやア、貧乏人のウダツのあがる時はありやしねえ」

「先生、易の本にそないな事が書いておまんのか」

「易の本にや書いてないがの、俺の目の玉の中にチヤアンと書いてある。大塩様の目の中にも矢張りそれが書いてあつたんだよ」

「それぢや白髯さんも、いつか又謀叛を起こしやはるんのか」

「馬鹿を云ふな。俺がような者に謀叛のムの字も起こせるかい。だけど、越後の柏崎にや先達て一揆があつた。摂州の能勢にもあつた。皆んな大塩様の跡継だ」

「そいぢや先生、これからまだ疳癪玉を投げる人が仰山に出て来やはるのやろか」

「サア、それは俺にも分らねえ」

「それぢや徳川様の天下はいつまて続くのやろ」

「それも俺には分らねえ」

「それぢや鴻池様の天下はいつ出来るのやろ」

〔「それも分らねえ」〕

「それぢや大塩様の跡継ぎの天下はいつ出来るのやろ」

「それも分らねえ」

「易者にも分らん事があるのかなア」

「コラ、お前達や忘れたか、世上の取沙汰、善悪に依らず申す間敷事」

白髯の先生は又皮肉な笑ひ顔で若い者等を睨みつけた。若い者らは一度にドツト吹きだして笑つた。…………………

(をはり)


 これは、『堺利彦全集 第5巻』(法律文化社 1971)にも収録されています。
 ただし、文章の一部は違っています。
 全集には次の前文がついています。

堺利彦は、明治22年夏から明治28年夏まで大阪に在住。
大正12年の関東大震災のときは獄中にいて、12月末に保釈出所。
この連載は、翌年のことです。


檄文


「講談大塩騒動」 その1

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