Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.20

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大塩の乱関係論文集目次


「矢部駿州と大塩平八郎」

桜庭経緯(1868−1894)

『剪灯史談 巻1』大倉書店 1891 より

◇禁転載◇

丙申の秋、大坂町奉行矢部駿河守勘定奉行に転ず、跡部山城守矢部の後任に命せられ相代らんとする時、跡部矢部に町奉行の故事并に心得となることを問ふ、矢部如此申送りたる後云やう、与力の隠居に平八郎なるものあり、非常の人物なれども、譬へば悍馬の如し、其気を激せぬやうにすれば御用に足るべきなり、若し奉行の威にて、之を駕御せんとせば危きなりと語るに、跡部たゞ唯々としてありしが、退て人に語りけるは、駿河守は人物と聞きしに相違せり、大任の心得振を問ひしに、区々として一人の与力の隠居を御するの御し得ぬのと心配するは何事云ふかと嘲りたるが、翌年に至り平八郎乱を作し、程なく誅服すと雖ども、跡部奉職無状と世人指を弾し、駿州の先見を称誉せり、余曾て此事を伝へ聞きたる故に、眼前矢部に質せしに矢部も謙遜して陽に答へざれども、其口気世人の云へるに相違なし、依て平八郎の事を聴きしに、矢部曰く平八郎叛逆人と雖ども、駿河守が案には叛逆とは不存候、平八郎は所謂肝癪の甚しきものなり、与力を務る内、豪商を折き、小民を救ひ、奸僧を沙汰し、邪教を吟味したる類、晴天れの吏と云べし、又学問も有用の学にて。なか\/黄吻書生の及ふべきにあらず。某奉行在役中度々燕堂へ招ぎ密事をも相談し又過失をも問答すること浅少ならず。言語容貌決して尋常の人にあらず。彼実に叛逆を謀らんには。いかで大坂城に籠らざる事あるべき。 (大坂御手薄の事等年来大塩か苦心の事なりとぞ)然るに御城へハ入らずして棒火矢を以て焼払ひたるは何ぞや。某曾て平八郎を招ぎ、共に食を喫せしに、折節金頭と云へる大魚を炙り出せり。時に平八郎憂国の談に及ぶ。平八郎忠憤の余り惣髪冠を衝とも云べき有様故。余種々慰藉しけれども、平八郎益々憤り金頭の頭より尾まで、ワリ\/噛砕きて食ひたり。翌日に至り、家宰某を諌めて曰く。昨夕の客は狂人なりゆめ\/高貴の御方に近づくべきにあらず。爾来奥通りをさし留玉へと、実に某が為を思ひて言ひけれども。汝が知らん所にあらずとて。始終交りを全ふせり。此事小なりと雖ども。平八郎の人と為りを知るに足れり。譬へば人過ちあるとき。再三反覆これを忠と云ふべし。再三忠告せる上にも其用ゐざるとて之を憤りて坐にあり合へる火鉢などを其人の面へ投げば。不敬の至極なり。始めには其人を憂ふる余りに忠告し、後には其面体へ疵を付けば安んぞ其人を憂ふるにあらん。平八郎も始は忠告すれども用ゐられざるを憤ほり叛逆に均しき過乱を企しハ此類なり。されば余勘定奉行たりしとき。此議を主張し何ぞ叛逆の科を除き大不敬罪に処したきものと建議せしも。其議用ゐられざるのみならず。某も叛逆人に身を持つやうに当路にてハ譲りたりとぞ。平八郎の罪状を数ふるに。子の婦にせんとて養ひたる女へ奸通の事あり。某平八郎の事を能く知りたるが。其女は近郷農民の子なり。平八郎は身を持ちたるものなり。実に子に配せんとならば、身を持たる者より約すべきなり。是は全く下女に置きたるを妾になしたるに何の仔細なきことに似たり。其上仮令其事聊か疑ふべき事あるにせよ。平八郎を拷問し其罪に伏したるにもあらず。罪状を責むることも。さる事なれども其人已に自焚死、黒焼になりたる平八郎に。此の如き罪状を与ふるは公裁と云ひ難し(乾外曰罪は死と共に亡ふ駿河守能く法理を知れり)人心の霊。愚夫愚婦まて。今に平八郎様と称するハ。陰に其徳を仰くにあらすや。されば駿河守其事を仕置せんには。平八郎年来の忠憤ハ却てさること乍ら。憤激の余り其跡叛逆に等しきことを仕出したるは。上をも畏れず大不敬と云へる事にて裁判せば。平八郎死せりと雖ども。甘んじて其罪を受け。又大坂の人心をも圧倒すべしと密かに扼腕して語れり。


井上哲次郎「大塩中斎」その11


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