Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.7.31

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「大塩の乱関係論文集」目次


大塩平八郎の叛乱

その1

佐野学(1892 〜 1953)

『プロレタリア日本歴史』白揚社 1933 所収

◇禁転載◇

第六章 封建国家の爛熟及び廃頽
 八 大塩平八郎の叛乱(1)
管理人註
   

 明治維新に先だつこと約三十年、天保八年二月下旬、大阪に於て被搾 取民衆のために叛旗を翻へして×××××××××し、破れて身を殺し た×××ある。これ大塩平八郎である。彼の名は×××××××××× ×××××××である。××××は地主勢力に××するブルジョア階級 のための民主々義運動にあらずして、××××××××××××××× ×××××××××であつた。その掲げた理論は時代と社会組織の異れ るために×××××××××××××××××であるが、しかも、彼の ××××××××、×××××××××××××××ゐる。  大塩平八郎は大阪の低き卑しき役人たる与力の一人であつた。しかし 彼は剛直、潔癖、勇敢、真摯の人であつた。彼は在職中に或は堕落僧侶 を検挙し、或は邪教を以て民衆を惑はす女巫を懲らし、或は奸悪なる官 吏の罪悪を糾弾して、其贓金三千両を没収して貧民に分配したことがあ る。彼は三十七歳にして与力の職を辞した。  彼は当時のすぐれたる陽明学者の一人であつた。退職後の彼は、洗心 洞なる塾を開いて多くの子弟を教養した。彼には洗心洞剳記なる著述が ある。陽明学は極端な唯心論である。今日の吾々は陽明学を容れること ができぬ。しかし陽明学は知行合一といふ最も正しい実践的教理に立つ てゐる。知識と行動との実践的統一、知は行の始であつて行は知の成で あるといふ理想、この陽明学の根本的教理は、大塩平八郎の堅い信念で あつた。彼の叛乱はこの理想によつて基礎づけられてゐる。  天保諸年から飢饉が続いた。諸国では餓死者が続出した。天保七年に は特に飢饉が甚しく、餓死者が少からず、都市貧民は米価騰貴のために 窮乏の底に落ちた。天保八年正月下旬よりは悪疫流行し、大阪の死者一 日百人内外に及んだ(当時大阪の人口は約三七万人)、大塩は大阪奉行 跡部に向つて貧民救恤を説いたが、この凡吏はそれを拒絶した。かれは 大阪の大町人鴻池、三井等に説いたが、これ又拒絶された。かれは慨然 として蔵書約五万巻を売りて千余両を得。これを二月六、七、八日に窮 民一万戸を限り一朱づゝを分配した。奉行跡部はこれを妨害しようとし て果さなかつた。平八郎は官吏と富豪に向つて激怒した。かれは正月八 日、決意はじめて動き、門人に洗心洞塾において叛乱の企てを打ち明け、 血をすゝつて盟約した。




×××は
伏文字






























『洗心洞箚記』














天保諸年は
天保年か


「大塩平八郎の叛乱」/その2

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