Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.8.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


大塩平八郎の叛乱

その2

佐野学(1892 〜 1953)

『プロレタリア日本歴史』白揚社 1933 所収

◇禁転載◇

第六章 封建国家の爛熟及び廃頽
 八 大塩平八郎の叛乱(2)
管理人註
   

 すでにして平山助次郎なる卑怯卑劣の醜漢あり、盟約を裏切つて当局 者に密告した。大塩一党は二月十九日に事を挙げ、火を市中に放ち、大 砲を擁して大阪城を攻めようとした。これに先たつ二日前「天より被下 され候村々小前のものに至るまで」と題した義軍の檄文を摂津、河内、 和泉、播磨の諸村落に配布した。この宣言書は「四海困窮せば天禄なが く絶たん、小人に国を治めしめば災害並に至る」といふ一句から書き起 こし、堂々数千言に及ぶ熱血溢れた大文章である。私はその数箇所を次 に引用することを禁じ得ない。次のような文句がある。  「茲二百四五十年太平の間、追々上なる人驕奢とておごりを極め、大  切の政治に携り候諸役人共、賄賂を公に授受して贈貰いたし、奥向女  中の因縁を以て、道徳仁義存じもなき拙き身分にて、立身重き役に経  上り、一人一家を肥やし候工夫のみに智術をめぐらし、其領分知行所、  民百姓共に過分の用金申付け、是迄年貢諸役の甚しきに困しむ上、右  之通無体の儀を申渡し、追々入用かさみ候故、四海困窮と相成候」  「小前百姓共の難儀を吾等如きもの、草の陰より常に察怨候得ども、  湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居いたし候  処、此節米価いよ/\高値に相成、大阪の奉行並に諸役人、万物一体  の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、」  「且三都の内大阪の金持共、年来諸大名へかし付候利徳の金銀並に扶  持米等を莫大に掠め取り、未曾有の有福に暮し、町人の身を以て大名  の家老用人格等に取り用ひられ、又は自分の田畑新田等を夥しく所持  し、何不足なく暮らし、此節の天災天罰を見ながら畏れも致さず、餓  死の貧人乞食をも敢へて救はず、其身は膏梁の味とて結構の物を喰ひ、  妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を  湯水を呑むも同前にいたし、此難渋の時節に絹服をまとひ候かわら者  を妓女と共に迎へ、平常同様に游楽に耽候は、何等の事ぞ」  「蟄居の我等もはや堪忍成り難く、湯武之勢、孔孟の徳はなけれども、  拠んどころなく天下のためと存じ、血族の禍をおかし、此度有志のも  のと申合せ、下民を悩し苦しめ候諸役人を先づ誅伐いたし、引続き奢  りに長じ候大阪市中金持の町人共を誅伐におよび可申候」  檄文の終りは、この企てが単純の謀反にあらざることを述べ「若し疑 はしく覚候はゞ、我等の所業終り候処を爾等眼を開いて看よ」と結んで ゐる。  大塩の一党には道々八百人の群衆が加はつた。一党はよく戦つたが、 数度の逆襲に逢ひ、終に破れた。しかし大塩の一党は堂々と戦つた。天 満水滸伝は次の如く大塩の風采を描いてゐる。  「其日惣大将大塩平八郎が出立には、白小袖の上に黒羽二重の紋付を  複ね、銀もうる野袴を穿き太刀造りの大小に黒羅紗の陣羽織、鍬形打  たる二十四間白星の甲を着し、手に赤き采配を取て、人数を指揮す、  其年齢四十五六歳にして、面長く色白く、眉毛逆立、眼袋大きく、眼  光人を射、中肉中丈、威あつて猛からず、言語爽かにして水の流るゝ  如く、誠に何れへ出しても一方の大将とこそ見えにけり」  一等の同志はよく戦つた。鴻池其他の富豪の家に放火した。しかし衆 寡敵せずして三回戦の後に潰乱した。市中の火は三日に亘つて消えなか つた。近国の約十藩が兵を動かした。大塩は八軒家より船に乗じて逃れ、 油掛町の美吉屋某の家に隠れたが、発覚して捕吏に囲まれ、自ら火を家 に放つて自殺した。時に平八郎四十五歳。  大塩の叛乱は時の人に深刻な印象を与へた。幕府権力の失墜はこれに よつて何人の頭脳にも刻まれた。叛乱後において、諸国の農民一揆に大 塩門弟と記した旗を掲ぐるものが少くなかつた。大塩の叛乱は幕府に対 する民衆の突撃の第一歩であつた。かれが叛乱の日に、その旗印に大書 した救民の二字は民衆、殊に農民の間に大きい刺戟をよびおこした。と もあれ、かれは日本の民衆の歴史に逸すべからざる英雄である。





大塩檄文









































































『天満水滸伝』
その20
 


「大塩平八郎の叛乱」/その1

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