Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.27修正
1999.7.16

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大塩の乱関係論文集目次


〈大塩と私〉(7)
「淡路島−一九三○年代の記億から−」

島田 耕

『大塩研究 第38号』1997.3より転載


◇禁転載◇

                       

 大塩とわたし 花橋の日記「大阪に変あり」

 淡路島三原郡八木村笑原鳥井が幼児期を祖母よしのと二人ですごしたところ。

話題の豊富な祖母の記憶に、花橋はんの日記に「大阪に変あり」と二月十九日の「大塩の乱」を二十日に記しているというのがある。

庄屋であったわが家では、当主五郎左衛門(十四代)が洲本から帰って隠居の父花橋茂右衛門に話したのである。この日以降次々と大塩にかかわる動きが書きつがれている。

 それは記録者として先祖が日記に大事件を書きとめたというだけでなく、わが家の大塩平八郎への親近感と共に私の追憶となっている。

もうひとつは倉田績の扁額である(会誌三六号に紹介してもらったもの)。倉田は「大塩の弟子であったが年が小さかったので難をのがれた人、和歌山の神官。淡路に来て塾を開き、若い時の彦七(十六代)、邦二郎の二人は陽明学を習った。その人の額がこれだ」というのがある。

私も幼時よりその額をよくおぼえていて、扁額には績の一字しか署名はないが、以来倉田績といつも口から出てくる。祖母はそれほどくりかえし話したのだと思う。

この額のみがいつも客間にかかっていた。よしのは父彦七(一八五三〜九四年)と中興の祖として十三代茂右衛門(成山花橋)を誇りとしていた。

私の子どもながらの納得では、大塩はんは大阪で乱をおこして貧しい人を救おうとした人、その大事件をいち早く翌日の日記にしるした先祖がいたこと。大塩はんの学問は陽明学というのだが、机の上で本を読んで理くつを云うだけの学問ではない。学んだことは実践にいかさないといけないという学問だ。

 その陽明学を彦七と弟の邦二郎が大塩はんの弟子の倉田績から学んで自由民権の運動をしたのだと、つながるのである。

 尚、会誌二六号に淡路地方史研究会の野口早苗さんが寄せている「大塩平八郎の乱と淡路島」によれぱ、彦七兄弟は隣り部落の国分寺で倉田から学んだとあり、その話は青山フキ(よしのの二女、耕の叔母)からきいたという。

 私の母、しゅん(一九○三〜一九九三年)はわが家に大塩の書があったと言いはるのだが、今も実体は不明である。

 淡路島の数ある庄屋のひとつである私の家は、戦後大屋根をふきかえた。その時棟木から花橋の時代「文政三庚辰夏(一八二○年)、天地長久、家内安全 船越茂右衛門元亮」としたためた札が出てきた。その建物が今も健在である。先祖たちの文書、書籍類が倉の二階に大量に保管されていた。

またこの一○年ほど前に、彦七の弟邦二郎(分家をおこす)の残した史料が孫の茂良氏を通じてわが家に寄せられていた。

 私はこのような環境で育ったので、祖母の話などから「大塩はん」を尊敬する先祖たちが、自由民権の運動に走ったことを当然のこととして素朴にうけとめていた。  

祖母の証言、検柾の道ゆき

 学生時代と映画書生の道を東京で三○年あまり、大阪で仕事を始めたのが一九八○年であった。

 いくつかの偶然が重なって大阪で私は大塩研究の諸先生と出会うことになる。

 一九八五年の始めだと思うのだが中瀬寿一先生に同行を願って大阪北の酒屋に入った。集まった研究者の中に大塩研究会の向江、久保の両氏もおられた。

 話は自由民権運動百年の全国的な活動のひとつとして太触寺に国会期成同盟結成の碑を建てる運動についてであったようだ。

 この席で東京の映画監督、歴史研究者の藤林伸治氏と久しぶりに出会い関西の研究者から学ぶ道すじをつけてもらった。

 そこから、島田邦二郎の手稿が藤林氏を通じて世に紹介されることになり、彼の「島田の土蔵を調べろ」の提起で向江強、萩原俊彦、原田久美子、竹田芳則のみなさんが眠っていた古文書や書籍などを引っぱり出して下さった(一九八五年夏)。私もびっくりした。

 後にこれらの史料は洲本市立淡路文化史料館で武田清市氏により整理され同館収蔵史科目録第一集として刊行していただくことになる。

 私も、大塩事件研究会につながり、酒井一、井形正寿、安藤重雄などの諸先生からも学ぶことになった。

 このような出会いの中で、私はビデオで太融寺の建碑除幕式の日を記録し(一九八五年)、大塩の乱一五○年の式次第やシンポジウムもまとめた(一九八七年)。

 そして、大塩平八郎生誕二○○年を記念してのビデオ製作の機会も得た(一九九三年)。

 この間に、茂右衛門の日記の一部が会誌で紹介され(前出野口論稿)、会のパンフ「大塩平八郎を解く」にもとりあげられた。

島田家文書目録にある「王陽明先生全集」(康煕二十四年)、「翁問答中江藤樹」(天保二年)、「古本大学刮目」(天保三年写本)、「儒門空虚聚語(上下付録、天保六年)、「洗心洞箚記」(明治十四年)などからおしはかると、茂右衛門も関心を持っていたと考えられる。

 大塩生誕二○○年の展示を準備された井形氏が、滋質県中江藤樹記念館の小川家文書から「明治十五年六月十七日 淡路国平民島田彦七が藤樹へ参拝」して三泊し演舌をしたり郡長を訪ねたりしたことが記録されているのを見つけて下さった。(明治十三年講堂諸用控 小川勝治郎)

 一昨年には、会誌三六号に私が倉田績の扁額を紹介し酒井先生に文意を解いていただいた。すると和歌山県田辺市の杉中浩一氏から県内では倉田績はよく知られているが淡路で陽明学を教えたこと、また「大塩の弟子だったが年少のため難をのがれた云々」(野口論稿)は知られていない、と教示をうける。

 和歌山大学の後藤正人先生からは県立図書館に倉田績史料が収納されているから調べてみないかとおさそいもきている。

 昨年十二月末に、酒井先生から藤樹書院との関係のふかい小川家文書を町の委託で整理していたら、「明治八年四月十三日拝札、和歌山県湊小野町水門神社吹上神社祠 倉田績 同門人岡某」(明治二己巳仲夏 参拝姓名簿〉とあったと連絡がとどく。井形氏からも同趣旨のおたよりをいただいた。私は先生方のお力でこの十年余の歳月の中で祖母よしの大塩はん口伝に一脈の客観性があるとの自信をふかめつつある。  

わが家の一○○年

 淡路の自由民権の運動家であった彦七・邦二郎から今日までの四代を島田の家族たちはどう生きてきたのだろうか。

 彦七は島にいて活動を続けるが、弟邦二郎は明治十年頃には島を出て学校に進む。

年譜からみると倉田績の教えをうけたと考えられるのは明治十年まで、邦二郎二○歳頃までとなる。

 邦二郎は師範学校を中退して明冶十一年大阪浪花学舎、明治十三年から慶応義塾の科外生として十七年まで英学をおさめる。

 彦七は明治十四年五月一八日、淡路に演説に来た植木枝盛を洲本に訪ねている(枝盛日記)。

 東京の弟邦二郎にあてた手紙には「自分は学問をしなくても、演説をすれぱよくきいてくれる」「両親の世話を自分にだけさせないで帰ってきて交替してくれ、自分はやがてインドやチペットにも行ってみたい」などと書いている。

 淡路三原郡史の編纂に当った菊川兼男氏は「彦七は自由党左派でその演説は農民にはうけた」と語っている。

帝国護会の開会にあたり第一回総選挙となる。淡路は(津名、三原の二郡)から定数一で淡路自由党は津名の候補佐野助作と三原の候補島田彦七で調整にあたり、「一回目は津名から、二回目は三原からと決めた」(武田清市氏談)。彦七は国会への道を断念し病を得て四○歳で死去する。

淡路の日本画家増田千代松氏は生前私に「彦七は選挙に出られないことになってから、『三原の衆に申しわけない』とくりかえし部屋にこもりがちだった」と画伯の父からの伝聞を語った。

 弟邦二郎は養子の話や、大阪で学友が創刊した毎日新聞へも招かれたが応ぜず、分家して地元で村議、県議、由良町長などをつとめている。

 私が歴史研究者に出会ったことで、世に紹介された「立憲政体改革の急務」の草稿は反響を呼び、自由民権百年全国集会実行委員会会報「自由民権百年」「六・一七合併号に江村栄一氏によって最初に紹介され、『日本近代思想大系9 憲法構想」(岩波書店)に収録された。

 邦二郎は長命で一九三八年まで生きた。私と祖母の住む自分の生家に時々やってきた。体の大きい口数のすくないひとであった。邦二郎の上記論稿などについての全面的な研究は、京都の後藤靖先生も熱心にとりくんでおられて近く成果をまとめ刊行の計画とうかがっている。

この時代、二人の兄弟がどんな役割を果たしたのかは、身内の私たちに伝えられたエビソードだけではとうてい把握できるものではないが、祖母の話を出発点に私なりり追跡も続けたいと思っている。

彦七はひとり娘よしの(一八七九〜一九五八年)と、のちぞいの妻いそをのこして死去する。よしのは神戸女学院に在学中父の死去となり、中退して帰り島田の戸主こして経営にあたる。長じて阿波藩蜂須質家の一族から昭文を養子にむかえ、しゅん(一九○三年)フキ(一九〇八年)の二女を出生する。

夫、昭文は田舎庄屋の地味な生活や仕事が性にあわず程なく島田を去ってゆく。

彼の今ものこる業績は、村の有力者たちと、横浜から乳牛を導入して今日に至る淡路酪農の出発点をつくったことであろうか。

よしのは博識で話好き、それも地主の経営から、政治、文化と話題も広かった。

前出の増田画伯は「あの人は身内の人の話をしても、ものの見方が公平だった。女性には珍しい人物」と私にもらしたのをおぼえている。

 「福沢諭吉は人の上に人をつくらずと云ったが日本は天皇がいて妙な国だ」と彦七が語ったと、私にきかせたこともある。

娘のしゅん、フキは島の小学校を出るとよしのの在籍した神戸女学院に入る。

 しゅんは卒業時にスカラシッブを得てアメリカのオークランドのミルス女子大に留学する。

 よしのは小さな地主として、小作人とはきびしい対立もしながら娘の教育には努力をおしまなかった。

 長女しゅんが一九二九年(昭和四年)渡米するが、在学中に結婚、長男耕を産む。

 妹フキは友人の紹介で神戸の牧師青山彦太郎一家と交流があり三男順三(関西学院卒)のたのみで、関西での第一回新劇合同公演のポスターを女学院の許可を得て掲示する。

 時代の新しい流れブロレタリア文化運動に参加し、旧制姫路高校の学生など、青年の仲間とも活動する。

 一九三○年、神戸の民家でフキば特高にふみこまれ捕えられ、未決で一年あまり苦しむ。

 転向を誓う一文が書けなかったのでとめおかれたとのこと。

フキは「理論的にもつかんでいない、何でつかまったのかもわからないから、書けといわれても書けなかった」と晩年私に語った。

フキはのちに青山順三と結婚し、順三が映画の東宝に勤めたので東京に居を移す。

しゅんは、生後一○ケ月の長男耕を知人の手で淡路の祖母に託し学業に専念し、一九三六年、夫婦で弟二人と帰国する。

九州出身のクリスチャン、夫の保政(一九○三〜一九九二年)は日系市民子弟の日本語学校の仕事に熱中していて、再び渡米、日米戦争で日系人収容所に連行される。

 一九四四年、日米間の赤十字による第二次交換船で帰国、四十一才の陸軍少尉は軍隊に召集され、一九四六年ビルマより帰国する。

耕は一九四八年、進学で上京青山夫妻の家に同居する。

東宝大争議の年で、叔母フキは争議団家族会で活動、耕は学生をさそって争議支援に参加する。

父保政は徳島で英語教育の生涯を送る。母しゅんは戦後、英語教室、徳島県児童婦人課長、社会福祉関係の職につき、徳鳥市教育委員などをつとめて九○歳で死去。

耕は東宝争議支援が縁で職場を追われた映画人の独立プロ運動に参加、今日に至る。

邦二郎の子孫は、八○才の長女村上敏子さんが東京で健在、昨年春もお訪ねして昔話をきかせてもらった。孫茂良氏は大阪在住。

 私は関西で住むことになって、前述のように大塩研究会にも参加しビデオで歴史研究の記録をまとめる機会を得た。

 大塩事件を劇映画にと、夢は語れるのだが実現は容易ではない。私の兄弟三人もことさら「大塩はん」を語ることはないが、一人は新劇人、一人はロシア文学研究者として淡路の風土とそこに刻まれた歴史を敬愛し、子ども時代の生活をはるかな風景として追想する世代になった。

 そして、今日の社会の不正不義の百鬼夜行を見すえ乍ら、それぞれわが道を歩んでいる。

 私が人の世の出会いの不思議の糸をたどりつつ、「大塩はん」研究会の輪の中に身をおき、ビデオ「大塩平八郎と民衆」の製作にかかわることができたのも、不思議といえば不思議だが、時代の流れを、わが家の小さないとなみに重ねてみると、たどりつくべくして、私は今、ここに立っているのだと思う。   (本会委員)


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