Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.5.16

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 後 素」

東海林辰三郎

『名将逸話 時代の武士』博文館 1912より



 

  ○ 与 力 の 切 腹

 大塩平八郎曾て部下の者に聊か不都合の廉ありとて其者に切腹を命ぜしことあり。与力の身として己が部下に切腹を命ずるは、身分をも顧みぬ潜越の沙汰なりとて当時の人々噂し合ひしが、篠崎小竹或日平八の許に到り、からかひ半分に此事を話したる後、同心風情にて切腹を仰せつかるゝこと身にとりて此上もなき面目なるべし、彼者も死する間際に臨んで、さぞ足下の取計ひを忝なく感じやしたらんと言ひて笑へば、平八は苦り切つた顔を顰めながら、貴様のやうな金好の腐儒者の知つたことにあらずと、空嘯きて居たりしといふ。

  ○ 一 発 の 砲 声

 近藤守重大阪弓奉行に任ぜられし時、平八一夜守重を其邸に訪ふ。偖て平八書斎に通されて主人を待つに、時経てど守重出で来らす、時刻移りて漸く倦み疲れければ、心中に深く守重の無礼を憤りしが、会々床の間に此頃新しく購求めたると覚しく、磨きたてたる百目砲一挺、灯火に輝きて燦然として光を放つを、時にとつての好物御座なれと手に取上げ、硝薬を装ひて一発火蓋を切つて放てば、轟然たる響と共に、屋内震動し、硝烟濛々として室内に漲る。此時側の襖をサッと押開き右手に烟管(きせる)、左手に煙草盆を提げ、一発の御手並感心仕るとて悠然として出で来るを見れぱ、此家の主人守重なり。守重頓て侍臣に命じて酒肴を運ばせ、厚く平八を饗す。其時守重某が今日の胆入れ粗末な物なれど遠慮なく召上るべしとて、取出すを見れば一個の生きたる鼈(すつぽん)、蠕々として鍋底に蠢く。平八之れを見るより莞爾として打笑み、時にとつての好物、遠慮なく頂戴申さうと言ひ様、小柄を抜て巣鼈の首を斬落し、其血を啜りながら深更まで快談激論したりといふ。

  ○ 黄 金 の 進 物

 文政四年平八吟味役となりし時、劈頭先づ紀州、岸和田両家の領分争ひを裁断して世を驚かせり。非は元より紀州家に在りしかど、何にせよ、紀州家は御三家の随一として当時権勢並びなかりし所より、代々の吏之れを憚りて決せず、為めに数年来停滞して決せざりしが、平八飽くまでも正義に依り終に此難獄を断ず。

 茲に又一の滞獄ありて長年決せぎりしが、一日一方の主者窃に平八の宅に到り、其情を明して憐憫を乞ひ、菓子函一個を賂ふ。平八快く之れを受けしかど手にだも触れず其侭机の上に置き、明朝詰旦奉行所に出頭して両造の者を召喚し、正邪曲直の理を明かにして諭すに人倫の大道を以てす。彼主者逐に理に屈して罪にす。其時平八予て僕に命じて持来らしめたる件の菓子函を取出し、諸の有司列席の前にて其蓋をくに、紅白の色陸離たる菓子と思ひの外、山吹の色鮮かなる大判小判の数々、燦然として眼を射る。平八之れを見て莞爾と微笑み、各方は常平生斯様なる菓子を好まるるによつて、さてこそ公事も裁判も容易に決しかぬるなりと言ひて、件の黄金を手にとりて大地に投げすてたれぱ、満廷の有司之れを見て孰れも皆粛然として襟を正し、互に顔見合せて一言をも発せざりしといふ。

  ○ 妖 婦 の 召 捕

 文政十年四月、其頃京に益田貢と呼ぶ五十前後の老婆あり、八坂に住みけるが、曾て肥前唐津の浪人水野軍記の門に入りて切支丹宗を学ぴ、種々の秘法を授けられ、其後京に来りて其教を弘め、吉凶の判断、加持祈祷の類を以て頻りに愚民夫婦を惑し、人民よりは殆んど神の如く崇敬せられ居ける程に、其勢力甚だ強大にして中々侮り難きものありき。而して彼老婆平生娥粧(おしろひ)を施し、常に一個の黒塗の箱を持ち、是れは神より与へられたる世にも貴き物なり、人若し之れを犯せば天罰立ところに到らんとて、平生恭しく取扱ひ居けるが、人々其神罰を恐れて誰一人之れを冒す者なかりき。然るに平八此事を聞き、早くも件の老婆の好悪を見抜き、此侭打捨て置きては後に由々しき大事を惹起すべし、根蒂(ねばり)も左迄堅まらぬ今の中に鎮圧するこそよけれとて、身を商人の姿に扮しで京師に赴き、件の老婆が門に入りて仔細に其内実を探り、愈々其邪教たることを確むるや、先づ組同心二人を率ゐ、八坂の邸宅に踏込み、難なく件の老婆を召捕ふ。其時件の神物と称する箱ありけるを、平八世の愚民の惑を晴さん為めに、態と土足を挙げて彼箱を蹴破り棄てぬ。京師の吏従来皆妖教の験あるを怕れて敢て手を下す者なかりしかば、之れを見て皆平八の剛果に服し、是れより皆平八を尊んで先生々々と呼ぷに至れり。

  ○ 金 頭 の 丸 食

 大阪町奉行失部駿河守定謙、平八の傲岸にして悍雄、倨慢にして尊大なるをも厭はず、平生平八を招きて能く其説を聴く。平八又定謙の徳に感じ、心を傾け意を尽して画策し、大に其事業を輔く。一夕定謙平八を招きて共に一所に食事を喫することありしが、談会々朝廷の衰微に及びし時.平八忠憤感激の余り、顔に青筋を立て痛く幕府の処置の正しからぬを攻撃し、手に持ちたる飯碗も箸も砕けよと許り握リ締め、皿に在りける金頭を庶二無に頭より噛り初めて尾に及び、一片の骨も剰さず食尽す。給侍に出てける者此凄しき勢に肝を潰し、平八退去の後定謙に此事を話して、以後彼のやうなる狂人は遠さげて近つけぬこそよからめと諌めしが、定鎌之れを聞き、唯笑ひ居たるのみにて何の返事をも為ざりしといふ。

  ○ 居 合 腰 の 議 論

平八人と為り剛愎にして不遜、自ら処ること極めて高く、容易に人に屈することなかりき。或時相馬一郎といふ者予て心安き医師某の許に行きしが、暫時ありて己是れより大塩先生の許へ往て学問の話を承り来るべしと言ひて出で行く。医師某無益なりとて堅く之れを引留めしかど一郎聴入れず、然るに彼医師日頃能く平八の剛愎なることを知り居りしかば、此事心に掛り、潜に一郎の跡に従ひ往きて之れを覗ふに、今しも大塩と相馬と激論最中にて、平八は居合腰になり、一郎は両腕を捲り上げ、互に一歩も譲るまじき態なりしかば、医師某も此末如何成行く事にやと片唾を飲みて覗ひ居けるに、良久くの後、一郎一段と声を励し、我等今論ずる所は学問上の是非なり、学問の上には素と師弟長幼の別なし、日頃は師として仰くとも、斯の如き学問上のことに至りては某一歩も譲るべきにあらずといふ。平八漸く其理に服し、頓て双方議論を止めて稍々打解けたる様子なりしかぱ、見付かりては悪かりなんとて其侭我家へ帰りぬといふ。

  ○ 琵 琶 湖 の 難 船

 天保三年夏六月、平八門生二人家僮一人を召連れ、伏水より江州に出て中江藤樹の旧宅を訪ね、帰途琵琶湖に出で、大溝の港より舟を【人就】(か)りて坂本に渡らんとしける時、風俄に荒れ出で、波高く、舟幾度か覆らんとしける程に、舟中の人々更に生きたる心地せず、孰れも皆船底に臥倒れて神明に祈るのみなりき。其時平八独り屈せず、端然として坐りて書を観るに顔色少しも変せず、人々之れを見て皆其胆勇に敬服しぬ。

  ○ 天 保 の 飢 饉

 天保七年丙申の大飢饉の時、平八京摂の間を奔走して富豪鴻池を初めとし、岩崎、三井、平野屋等の豪商を説き廻り、相連合して共に貧民の急を救はんとせしが、画策略々成りて今は唯奉行の許可を待つのみなりき、当時大坂の奉行は跡部山城守良弼なりしが、平八が奉りし所の封事二通を見其説を喜ぶも其策に従ふこと能はず、且つ平八一処士の身として天下の政務に容喙すること潜越なりとて、却て平八を憎む。富豪等此事を知り罪を奉行に得んことの恐ろしさに、言を左右に托して約を履まず、是に於て平八の苦心全く水泡に帰す。然るに大阪及び堺に於ける貧民の惨状日を追ふて甚だしく、而して奉行及ぴ富豪等各堅く倉庫を鎖して又之を【血邑】まんともせず、平八之れを見て憤慨に堪えず、所蔵の珍書奇藉数千巻を鬻ぎて二万両を得、悉く之れを貧民に頒ちて一万余人の急を救ひぬ。


伊藤痴遊「大塩平八郎と重蔵


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