村上義光・島野 三千穂
『大塩研究 第17号』1984.3 より転載
◇禁転載◇
高遠藩砲術家坂本天山と関連する諏訪藩坂本八弥家文書約六十点余を島野三千穂が所蔵、その古文書を大阪の住吉古文書研究会で一通々々解読を行っているが、その中に大坂宗家坂本鉉之助俊貞(自署花押)の坂本八弥宛の長文の書状を発見、研究会からの御すヽめもあり、解説を付して紹介することにする。
坂本鉉之助俊貞は、周知のように、大塩の乱当日幕府側の武士(玉造口与力)として大塩の一揆軍に真っ向から立向い、その武人らしい働きにより英雄視された体制側の人物で、本人執筆の事変当日の記録〃咬菜秘記〃は有名で、大塩の乱時の幕府側の人物として、必ず登場するのは御存じの通りである。
本書伏は、切紙(巻紙)、美儂紙長さ二.七○メートルに及ぶ長文のものである。筆跡は武士らしい闊達な書風、内容は砲術家としての種々の近況報告、特に各藩が砲術に夢中になっている動きが克明に報ぜられ、又鉉之助自身の欠所役拝命及び女子出生と、非常に豊富な内容です。
本書状の問題点として先ず解明したいのは、
1、書状の年代
2、宛名の坂本八弥と坂本鉉之助との関係
3、坂本鉉之助の家族系譜
の三点であるが、2の坂本俊通(八弥俊通)と坂本俊貞(鉉之助)との関係については、「天山全集」(信濃教育会著、昭和十二年五月、信濃毎日新間社発行)で左の如く明確になった。系譜にみるように、坂本俊通(八弥)
は (1)、天山の姉で鉉之助の伯母佐野が諏訪藩士岡村忠寔に嫁した、その三男で、寛政七年に天山の養子となり、砲術(2)を以て諏訪侯に仕えたものである。
(同書下巻六八三−七○○頁)
寛保二年(一七四二)生 ┌―佐野 岡村忠寔ニ嫁ス――――――――俊通(八弥)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥┐ │ 俊通(八弥)ノ母 : │ : │ 安永四年(一七七五)生 : │ ┌―俊元(孫四郎) ―――→永貞* : │ │ 文化十三年没 : │ │ : │ ├―女 : │ 延享二年(一七四五)生 │ : ├―俊豈(孫八)(天山)―――┤ 安永元年(一七七二)生 : │ 享和三年(一八〇三)没 ├―俊通(八弥) 岡村忠寔三男、寛政七年天山ノ養子トナル ←┘ │ │ 天保九年(一八三八)没 │ │ │ ├―俊享 幼死 │ ├―女 │ ├―女 │ │ │ │ 寛政三年(一七九一)生 │ ├―俊貞(鉉之助) │ │ 寛政九年四月大坂宗家本駒太郎ノ養子トナル │ │ 万延元年二(一八六○)没 │ │ │ └―永貞* └―英真
この系譜により、鉉之助から見れば、義兄八弥は、十九歳の年長、長兄俊元は十六歳の年長となり、天保八年の大塩の乱時には、鉉之助は四十六歳、八弥は六十五歳で翌天保九年に没、長兄俊元は既に死亡、末弟永貞(俊に元の嗣となった)は四十三歳となる。
以上から推論すると、本書状の丁重なる書き振りからも当然目上に対するもので、義兄八弥宛の書状に相違ないものと思われる。尚八弥は天保九年に没しているので、天保九年以前の書状であろう。
次に、1および3の問題点についてみると、書状文中に
(イ) 「昨冬、十一月六日、妻儀出生仕り候、字喜祖と付置申候」とあり、鉉之助の何番目の娘か(一男七女)名前と出生月日が明確なのに、鉉之助の家族譜不明に付き、書状年代を推定出来ない。
(ロ) また「当月、私儀不存寄、欠所役被申渡大慶仕候」とあって、鉉之助が、大坂城代、町奉行より欠所役を命ぜられているが、これの年代を確立する資料を見つけえない。
(ハ) 鉉之助の墓碑について、本会の昭和五八年夏の例会〃上町台地を歩く〃で見学した中寺町大倫寺に鉉之助の立派な墓石と碑文があり、そこに、「葬府南大倫寺、娶森山氏、生一男七女、長男女倶夭 余皆帰、唯末女未適」とあり、この七女の中に、喜祖女も当然含まれているのだが、大倫寺に過去帳もなく、現在縁者も全く不明。
このように書状中に作成年代を類推し得るいくつかの鍵がありながら、未だ解明出来ないのが非常に残念である。
なお最後に、鉉之助の諏訪藩家中との砲術稽古を示す「口上覚」も見つかったのでここに紹介する。
私伯父大坂御鉄砲方阪本(ママ)鉉之助様、吉田昌一郎方ニ逗留ニ付、兼而砲術同流ニ御座候間、於矢場諸生稽古打為致申度奉存候、此段奉願候、以上 九月 阪本(ママ)軍之進」
軍之進が八弥の子息で諏訪藩の武術師範を継いだ事以外は未詳である。
註
(1) 坂本慶通(八弥)に関しては、「天山全集」の正確さを裏付ける、左記覚書が本文書中に存する。但し人名を欠く。
(安永元年)
明和九壬辰年月信州高遠之産ニシテ、□歳ノ時ヨリ母方ノ伯父阪本(ママ)孫八俊豈ニ従砲術ヲ学ヒ、二拾一才之時拾匁玉筒ニテ玉数終日ニ千二百丸ヲ発、其年免状ヲ受ケ二拾三才之歳、練磨ノ功ヲ積之、遂ニ皆伝ス、其翌年廿四才之時、寛政七乙卵年秋廿四才之時当大主因幡守忠肅公江被召出武術師範被仰付、其後大砲鋳立之蒙命、百目玉筒ヨリ壱貫目玉筒迄数挺鋳立成ル、享和二年長善館御造立之命有テ掛り被仰付、同二年春二月御造立全成ル
(2) 本文書では、柔術も師範役となって居る。
任幸便一筆啓上仕候、春暖之節御座候処、先以御家内様被成御揃愈御勇健ニ被成御座、珎重義奉存候、随(カ)而私宅何れも【己/大】(異)罷在候間、乍憚御放念可被成下候、扨々遠堺之義与者乍申背本意候、御不沙汰御高免可被成下候、此度当地於勤番所ニ召仕候者、江戸表へ罷下候之段申聞候ニ付、甲州路罷越候之様申付御容体相伺候一、昨冬十一月六日妻義出産女子出生仕候、字喜祖与付置申候、御承知置可被下候、母子共丈夫ニ肥立居候まヽ是又御放念可被成下候
一、壱貫目玉御筒御鋳立有之候由、高遠考伝承仕候、定而頃日者御滞なく出来上り候御事与奉存候、何角与御配慮被遊候御事奉察候
一、昨年者先考御年回ニ付、於七堂浜少し斗出町、百匁棒火矢遠町同中打早打乱玉抔、彼是五拾放斗打申候、遠町之趣散々不出来仕候、当月九日ニも出町之心得ニ而唯今細工中、何角繋多ニ罷在候、此度も遠町棒火矢廿放斗出申候心得御座候、昨冬当春二両斗当地川口沖手ニ而三寸之筒棒火矢并百匁抱筒二而矢場(カ)者可申候三寸之棒火矢出来、矢八町余着仕候、矢場(カ)者可也之出来ニ而御座候、当春は黄煙柳(ママ)打試候処、至極宜出来仕候、余程煙も黄ニ相分見事ニ御座候
一、当正月中ニ者膳所藩中へ罷越五百匁周発并百匁玉七尺五寸之銃ニ而中打并百匁壱尺六寸之銃ニ而中打可仕約束仕置申候、壱尺六寸之銃者五拾挺揃ニ而膳所公御所持之筒之由、目方者拾五貫目斗ニ相揃居申候
一、彦根公御隠居殊之外砲道御好ニ而、諸方之術士被召候而、於御城下出町有之候、六兵衛抔罷出舩打仕候、
水口藩中菅直記与申仁、是者星山流之由、是も罷出、百匁棒火矢廿七町五拾匁棒火矢廿四町着申候、当時遠町達人与奉存候、乍併遠町而已ニ而余芸者無之候、荻野早雄も罷出、百匁遠町廿番斗打申候、出来矢廿六町斗着之由、彦根公御自身御打候も廿七町斗者申候由承申候、殊之外御好ニ而昼夜是而已御慰之由承り申候、其余申上度義有之候へ共、多用中難尽心事筆紙申上残候、猶奉期重便之時候、恐惶謹言
三月六日認 坂本鉉之助
俊貞(花押)
坂 八弥様
奉御左右
尚々連日春色盛ニ相成之条、折角御自愛御専一奉存候、乍末端御家公様へよろしく被仰上可被下候、家族一銃同様よろしく申上度申出之候
一、当月朔日私義不存寄欠所役被申渡大慶仕候、乍序御吹聴申上候
一、此度幸便ニ付何そ差上申度奉存候得共、遠方之義兎角重高ニ罷成候ニ付、得何も差上不申候、甚乍左(些)少之品こんふ少々差上申候、笑味可被成下候、以上
(付記)酒井一会長はじめ、砲術研究の澤田平先生・
伊那史学会の原田先生の御教示を戴きました事を厚く
御礼申上ます。折角の坂本鉉之助
の書状ですので、今
後とも根気よく調査したいと思っています。なお書状
の解読清記は島野三千穂によるものです。
(住吉古文書研究会)