『大塩研究 第30号』1991.12より転載
文政十年の大塩の足跡を追う。二月五日、道頓堀角の芝居(中村以上座楽屋)より出火、南組は町数九、難波村領は二、その他生玉社領内が類焼の大大があった。(戎橋に近い)大西芝居の観客には死傷者が夥敷、その為、芝居木戸番等東町奉行所へ召喚、大勢が入牢、未決拘留され、吟味を受た後、宿下げとなった。木戸番元締は閏六月十八日迄、町預け(町に責付・監禁)。頭立の四人は更に七月十八日迄、三十日手錠の刑罰に処せられた。この時の懸りが東盗賊方与力大塩であった。*2 予審的下吟味と奉行への送致をしたのは大塩本人と考えて間違なかろう。時の東町奉行は高井山城守であった。他方大西芝居の観客を乗船させ、救助活動をした船頭と歌舞伎役者らの善行も奉行の御聴に達した。二月十三日、彼ら九名に鳥目下賜があった。*2 大西芝居の処置は賞罰とも厳正中立であった。
大塩が大いに関与したのだろう。大塩と好対照なのが火事方与力である。丁度、同日、同じ出火地域に東西火事方与力五騎が出役し宗右衛門町の河作と言う座敷を彼らの休息所とした。火事方与力衆は火事跡見分を終えて帰りがけ、「序でにさっきの河作で一盃飲るか」と相談がまとまったらしい。乗った舟を態々、日本橋より戻して「見分酒宴」を催した。勿論あとでばれて火事方与力衆は差控の叱責を受けたと云う。*2 火事方与力の良心は弛緩、職務怠慢は明白であった。
さて、四月廿四日、大塩は江戸堀二丁目会所に出役し、御池通六丁日の弥助をそこへ召喚した。弥助の博奕嫌疑の情報を大塩が得たらしい。大塩は即刻吟味中所頂けを命じることで被疑者弥助の身柄を拘禁し、家主等には連判で請書を提出させて町に責付した。*1 まさにその四、五月、大塩は切支丹宗門の党捕索に着手し*3*4 京摂で多忙をきわめた。閏六月十五日頼山陽が洗心洞を訪れても「繁劇、交友一日ノ閑ヲ得ザル」状態であった。*3 その劇務の中で閏六月廿七日、御池通の弥助を東盗賊方役所に出頭せしめ、彼を無罪放免した(奉行に「送り」をしなかった。)この博奕の下吟味には驚くべき事に、大塩は九十三日費やしている。〈この言葉〉はその際のものである。秋(七月〜九月)の某日、大塩は菅茶山の遺杖を捜し出し頼山陽を欣喜させた。大塩のいわく「阪府の所管僅二方数十里、其内在ル所ノ物、繊芥ノ微ト雖モ我ガ眼底ヲ逃ルゝ無シ、若シ此クノ如クナラザル何ゾ職ヲ盗賊方二奉ズルヲ得ンヤ」この頼山陽への答*3 をあわせて読めば弥助を無罪放免し有罪と思料しなかったのは大塩が本件で確固たる自信を持っていたと推定出来る。
平凡な言葉のようであるが、かえってその大塩像を如実に物語っているように私には思える。
−注−
*1 現大阪市西区北掘江御池通六丁目の文書。大阪市立中央図書館所蔵。猶、御池通という町は天満組に属した。(南組ではない。)
*2「摂陽奇観」三五六−三六一頁。『浪速叢書 第六巻』
*3「大塩平八郎伝」石崎東国 大正九年十二月 大鐙閣 七○−七七頁、九○頁。
*4「緒上家文書」京都歴史資料館 五六一二−三一五
『一、同年(文政十年)五月 八坂辺二式部ト云女うらなひ有之処此者大坂 表二て悪敷事致候哉同表ヨリ当所公儀へ申参り侯二付早速召捕へ大坂役所へ 御渡二相成段々御吟味之処切死(ママ)丹之法を行ひ候者にて色々珍敷事共致 侯由御糺之処………』(写真一葉掲載)
日向屋藤吉借家 紀伊国屋卯七方ニ同家弥助召捕 所預仰付候一件物 御池通六丁目 日向屋藤吉借家 紀伊国屋卯七方ニ 同家 右家主所之もの 右の者共御用の義之有江戸堀弐丁目会所江 只今早々可罷出もの也 亥四月廿四日 盗賊方 役人●写真2 釈文
乍恐口上 一 丁内日向屋藤吉借家紀伊国屋卯七方二同家 弥助並所之もの被為御召成奉畏左之通 罷出申候二付乍恐此段御断奉申上候以上 文政十亥年四月廿四日 御池通六丁目日向屋 藤吉借家 紀伊国屋卯七印 家主 日向屋藤吉 御奉行様 右書付差出候処御吟味中所預ケ被仰付間 請証文差上可申旨被仰付則左之通り 奉差上候事●写真3 釈文
奉差上一札 一 丁内日向屋藤吉借家紀伊国屋卯七方二同家弥助義 御吟味之筋有之御召捕之上所預ケ被為仰付 奉畏候尤御預ケ中自害欠落其外不念之儀 御座侯ハハ如何共可被仰付候仍御請証文如件 文政十亥年四月廿四日 御池通六丁目日向屋 藤吉借家 (古文書製本綴じ目につき推読箇所)紀伊国屋卯七印 日向屋藤吉 病気二付代 太助印 讃岐屋哥七印 御奉行所 〔朱書〕 江戸堀弐丁目会所二おゐて右請証文奉差上候処追而御沙汰可有段 被為渡閏六月廿七日東盗賊方御役所へ御召出之上大塩平八郎殿 被仰渡二者外掛り合之者共一同相済殊其方共博奕場所へ 立寄候得共一切携候義無之趣ニ付所預ケ御免被為仰付候段被仰渡 相済候事 但 日数九十三日二相成
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