Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.12.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


「天保の大飢饉」その1
白柳秀湖

『民族日本歴史 近世編』千倉書房 新版 1944 所収

◇禁転載◇

第十二章 インフレ・政治の行詰りから封建的新体制計画まで
 第四 天保の大飢饉(1)
管理人註

 安永・天明のインフレで、すでにあれほどの大飢饉を起して置きながら、 幕府はなほ凝りず、更に文政・天保のインフレをやつた。どうして大飢饉が 起らずに居られよう。インフレ政治家から見れば飢饉は天災であつて、イン フレとは何の関係もないことのやうに思はれて居たであらう。しかし、宝暦 以降、一般国民の凶作に対する抵抗力は、極端に薄弱なものになつて居た。 中央で宿老がビイドロの滝を作り、炭火をおこして桜の花を促し、大町人層            ・・・ が、一椀の茶漬、一皿のかくやに一両二分の価を惜まなかつた時、地方には 天明と同じ大飢饉の悲惨が、レールの上を走る汽車と同じやうに進行して居 た。  天保二・三年の頃から気候がとかく順をうしなひ、五穀の穰りがよろしく なかつたところへ、天保四年、夏の半頃から、霖雨が続いて気温が低く、少 しも夏らしい陽気がやつて来ぬ。六月の末には諸川が溢れて民家を浸し、田 畑を損することが夥しかつた。かてて加へて八月一日は、近来稀なる大暴風 雨で、人家の倒潰・田畑の損害が甚しく、人畜の害を被るものが少くなかつ た。  再び飢饉は来た。しかも、その最も甚だしかつたのは例によつて東北地方 であつた。  天保五年江戸に於ける白米小売相場の最高記録は、百文に付四合(五月七 火から)であつたのに、天保七年にはそれが、百文に付二合八勺まで騰貴し た。これはまさしく前代未聞といつてよい。果然、江戸には米騒動が起つた。 それは天明の打毀しとは収奪の方法を異にしたものであったが、たしかに一 種の米騒動であつた。  しかし、かやうに米価の変動の甚しい時、大飢饉で大多数の人の困苦窮迫 する時こそいつでも三都の大町人層の肥るときであつた。天保の大飢饉が産 んだ大富豪は、江戸にも、大坂にも、京都にも、全国到るところの商業都市 にその数が甚だ少くなかつた。しかし、三都は流石に人目の関がきびしく、 巧に韜晦して、その福運を隠蔽するのでなければ、不慮の災禍の身辺に及ぶ のを避けることが出来なかつた。  都会にくらべると、地方は流石に人目の関が緩やかであつた。天保の大飢 饉に際し、藩の建造にかゝる巨船を利用して米穀の輸送を事とし、めちやく ちやに儲け出したものは、加賀国宮腰浦(現今の金石町)の銭屋五兵衛であ                        ・・・・ つた。若し天保の大飢饉がなかつたならば、いかにきたまい航路の要港とは いへ、加賀国宮腰あたりにあんな大きい船商は出来なかつた。五兵衛は後に 海運業者として、有らゆる貨物の輸送取引に従事し、いや肥にに肥つて行つ たけれども、かれを初めに儲けさせてくれたものは、間ちがもひなく天保の 大飢饉であつた。  天保七年には甲斐国都留郡なる代官・西村貞太郎の支配地に由々しい百姓 一揆(後掲、補註の五)が起つた。その翌年二月十九日には、大坂に町奉行 組・元与力・大塩平八郎の挙兵(後掲、補註の六)があつて、その変報が幕 府を震駭させた。ついで、五月三十日の夜から六月一日の朝にかけては越後 国柏崎(松平定信の領地)に国学者生田万等一党の陣屋襲撃事件(後掲、補 註の七)が起つて、これもひどく幕府の神経を尖らせた。































夥(おびただ)し

































韜晦
(とうかい)
自分の 才能・
地位・身分・
行為などをつ
つみかくすこ
と
 


「天保の大飢饉」目次/その2

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