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この時も被害の最も甚しかつたのは、天明度と同じく東北地方であつた。
『徳川太平記』な次の記述がある。
或(る)撃釼師の漫遊して松前に渡りしもの、九月朔日に松前を発し
みうまや
て帰途に就き、三馬屋に渡りて旅店に投ぜしに、翌朝宿銭を問ふに四百
五十文なりといふ。先づ驚き、それより外が浜辺をたどりゆくに、稲穂
は皆直立ちして実りしもの一本もなし。此日足を痛めければ、僅に五・
六里行(き)て宿をからんとするに、米なしとて貸さず。因(り)て蕨
の粉など買求めて強て一夜のやどりを乞ひ、又、次のやどりには、いぶ
・・ ひえ
せき民家に入(り)て、昆布・じんば艸・ゑごなどいへる海草を、稈・
・・
麦に交へて炊き、又は粥・雑炊にしたるを食となし、或はねごといへる
莚の如きものを蒲団の代りとしたり。
又、ある日には漁人のもとに行(き)て、鰹十五・六尾求め、重荷の
はしに結(へ)つけ、朝暮これを食となして行(き)四・五日の間は米
といへるもの、目にだに見ざりき。此辺の村里にては、皆猫を殺して食
へり、犬は未だ死にもやらず、よろぼひながら行くを見たり。
きつかい
村民は乞丐となりて、他国へ散ずるもの、幾千人といふことを知らず、
・・
或は餓死せし人をあだといふものに載(せ)て、村送りにするもあり、
半死半生にて路傍にやみ臥すも数多し、道行く流人を見るに、大根をか
み青菜に塩を和して食ふもあり、はや四・五日ももの食はぬとて、袖に
べんたう
すがり、行厨を奪はれしこともしば/\なり。依て常に便りよりよき処
にぎりめし
にては米を求め、団飯に作らしめて、携(へ)行(き)しなり。
夫婦して四歳の児と、当歳の嬰児とをつれ、非人となりて家を出しに、
食を得る便りなきままに、妻は二児を抱きて川に沈みしかば、夫も同じ
く川に飛入(り)て、死せしものあり。かかるたぐひも、かず/\聞及
びぬ。
年比、飼置ける馬あり、殺して食ふに忍びずとて、人に与へて去り、
又、袷一つを米一升にかふるものあるなど、いたはしきことの限りなり。
津軽の境、碇が鼻にては小屋を設け、他国より追返さるるものに、粥を
煮て食はしめ、且つその小屋にやどらしむるは恵政なり。
秋田に出(づ)れば、作毛少しく宜しけれど、かてめし・粥など食ふ
ことは、津軽に同じ。庄内は人心やや隠かなり。最上は秋田に比すべし。
伊達郡に出でて先づ半収を得べしと見えたり。十月の半ばに野州・寺子
村知己の方に、両三宿し、其語る所かくの如しとなり。
『徳川太平記』はなほ南部・盛岡地方の惨状を次の如く記述して居る。
又、南部・盛岡に至りしものゝ話に、両三年打続ける不熟に、本年は
殊更大凶作にて、常年に十俵を収むるもの僅に半俵を得るに過ぎず、故
に一家挙りて逃散るものに逢ふこと、一日百人に下らす、はたごは一宿
・・・・・・
四百文にて、菜はあんぽんたんといふ塩魚に、汁には山あざみの茎葉を
用ふ。城下又は山中など、処々へ小屋をかけ、一日一人に一合ほどの粥
を与ふ。近比はそれも届きかね。小屋内に死するもの。あまたあり。已
に二千人も死したるよし。大坑を掘(り)置(き)、屍はその内に打込
(む)となり。
夜間、道路へ菰をしきて臥すものあり。人家の軒下へ、小児を捨(て)。
又は飢人の倒れ死するものある故、士家・商家とも茨をもて軒下を塞ぎ
置(く)こと、毎家みな然りとなり。
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司法省刑事局編
『飢饉資料』(抄)
その3
三馬屋
津軽地方にある、
三既の古称
乞丐
(かたい)
こじき
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