Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.10.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『民本主義の犠牲者大塩平八郎』

その1

相馬由也

開発社 1919

◇禁転載◇

序 (1)管理人註
   

 孺子の将に水に溺れんとするや、惻隠の心禁ずる能はず、之を救はん し欲して水に投じ、却て自ら溺れ死する者あり、是れ世に常に見る所な るが、大塩平八郎の大阪乱に於けるも、亦偶ま此の如き者耳。政治の弛 張は波瀾の起伏の如く、盛衰相依る糾へる縄に似たり。徳川氏の盛治は、 五代綱吉に至つて衰へ、家宣釐革に志ありしも、功遂げず。而して家継 に至つて正系絶え、吉宗紀州より入つて新に宗家を嗣ぎ、八代将軍と称 し、紀綱を振肅して中興の英主と仰がれしも、久しからずして又衰へ、 田沼意次の失政あり、而して家治に至つて二び子無し、是に於て家斉更 に一橋より入つて宗家を嗣ぎ、十一代将軍と称し、白河楽翁に専任して 鋭意治を図り、初政頗る観る可く、寛政の治は以て享保に比するに足る もの有りしと雖も、志稍満つるや気輙ち驕り、楽翁去後の治態は又言ふ 可からず、姦侫駢進して賢良蔬斥せられ、上下奢靡に赴いて国用困竭し、 苛斂誅求猶ほ足らず、慣用せる御用金を課して、縫に勉めしも、遂に 術窮りて世職を家慶に譲り退老しぬ。彼は四十有幾人の子女を挙げ、門 葉繁栄、所謂文化文政度の極楽世界を楽んで、寿福を以て終りしも、民 力是が為に疲弊し、生活の圧迫日に月に加はりぬ、加ふるに天保以降歳 に凶饉多く、就中其四年七年を以て最となす。是を支那思想よりするに、 施政宜しきを得ざれば、天禍殃を降して之を戒む、禍殃は即ち水旱風蝗 是也、故に水旱風蝗は賢君良相の最も惴々焉として自ら省る所、之を史 実に徴するも、凶饉なれば盗賊群り生じ、獄訟繁く興る。而して天下を 算奪し、新に覇業を成就す。之をば天命革まると称するも、自ら其所以 無きに非ず。我当時の封建制に在つては、二百六十有余藩は即ち二百六 十有余の小国たり、而して凶饉の警、一び臻れば、此等の各国競うて防 穀令を布くが故に、有無相通の道は俄然として絶え、米穀の漕運を一に 諸国に待つ、大阪の如き商業地の住民は最も先づ塗炭の苦に陥らざる可 からず。平八郎は当時已に致仕し、洗心洞裏に経を講じ、徒に授けて倦 まざりしと雖も、憂時の赤誠拱手して止む能はず、屡次当路に献策した りしが、四年には能吏矢部駿河守町奉行の職に在り、己を虚うして彼に 聴きしも、七年には庸吏跡部山城守町奉行の職に居りしを以て、忠言却 て耳に逆へるのみならず、平八郎が救民の醵資を富豪に約すれば、彼は 非分と認めて陰に之を沮み、平八郎が自己の蔵書を鬻いで、其得る所を 以て細民に施与すれば、彼は亦従つて官に請はざるの咎を以て之を責む、 言納れられず、事毎に沮まる。而して轍鮒の苦に泣く窮民、我前に在り、 善を愛し悪を憎むの念燃ゆるが如く、且つ峭直短慮なる平八郎の怒気如 何でか勃発せざらん。


孺子(じゅし)
子ども


糾(あざ)へる
からみあうように
して巻きつく

釐革(りかく)
改め新しくする
改革

紀綱(きこう)
国家を治める上で
根本となる制度や
規則

振肅(しんしゅく)
緩んだ気風などを
ふるい起こし、引
き締めること


(やや)
(すなわ)ち
姦侫(かんねい)
心がねじけている
こと
駢進(べんしん)
奢靡(しゃび)
身のほどを過ぎた
ぜいたく
困竭(こんけつ)
竭は不足するの意


禍殃(かおう)
わざわい

風蝗(ふうこう)
蝗はいなご

惴々(ずいずい)
恐れてびくびく
するさま

(あらた)まる

(いた)れば




赤誠(せきせい)
少しもうそや偽
りのない心
拱手(きょうしゅ)
手をつかねて何
もしないでいる
こと
当路(とうろ)
重要な地位につ
いている人
(むなし)う

非分(ひぶん)
分不相応なこと
(はば)み
醵資(きょし)
(ひさ)いで

轍鮒(てっぷ)
危機がさしせまっ
ていること
峭直(しょうちょく)
きびしく正しいこと


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