『大塩研究 第26号』1989.7より転載
数週間後私は、大阪歴史学会の研究会で八田家の史料の所在について話して下さったI氏とともに、神戸市立 博物館に史料を見に出かけた。市立博物館の蔵する八田家文書は、大半が冊子ものであり、ダンボール箱に三〜四箱、点数にして百数十点というところであろうか。私は市立博物館の方々の御迷惑を顧みず、春休みの一週間程通いつづけ、奉行所組織にかかわる主な史料を筆写し、さらにその年の七月、関西学院大学のM先生と院生の方との三人で協力してカメラのフィルムにこれを収め、簡単な目録を作成した。
ところが、市立博物館の所蔵史料を見るうち、私はこれらの中に直接裁判に関わる史料−たとえぱ「判決留」「判例集」「吟味書」等のような−がほとんどないことに気づいた。市立博物館にあるのは与力・同心の「勤書(つとめがき)」「名前書」「由緒書」等、奉行所の吏僚組織に関わる史料がほとんどなのである。裁判関係の史料はどこか別の所にまとまってあるのではないか。そして、どこか別の所とは、先の金田氏がかって九大法学部の教授であったこと、氏の論文にあった『御仕置雑例抜書』が現在九大法学部所蔵のものであることなどを思うと、九大法学部をおいて他にないように思われた。私はその年の夏休みと、翌八七年の春休みの二回にわたり九大へ史料を見に行った。しかし、九大法学部の史料は「八田家文書」として一括され保管されているわけではなかった。『法制史料室・別置リスト・古文書・図書リスト』と称する目録を見て、大坂関係・裁判関係の目ぼしい史料を借り出し、一点一点実際に見てみないと、それらが八田家伝存の史料かどうかわからないのである。これはかなり時間のかかる作業であり、今もすべてを見終わってはいない。しかし、これまで見てきた史料の中には「大坂奉行所判決留」「御仕置評議書」「御吟味物科書并御伺書」「大坂諸公事覚」等、裁判関係の史料が豊富であり、その中には中表紙に「八田五郎左衛門所持」と書かれている史料もいくつかあったことから、九大法学部にも「八田家文書」がある程度まとまって残されていると考えてよいであろう。八田家の史料が当の大坂にではなく、奉行所組織に関しては神戸に、裁判史料に関しては九大にとなぜ散在しているのか、そのこと自体が興味深い間題であるが、ともかく少なくともこの二ケ所にある「八田家文書」は、大坂町奉行所が関与した裁判、あるいは大坂町奉行所組織の在り方を知るうえで大変貴重なものであるといってよかろう。
東西各一名ずつの大坂町奉行は、平均すると五〜六年を任期とし、その後江戸町奉行、勘定奉行等に転任するのを常とし、しかも東西二名の内、非番の一名は江戸在府の場合が多い。したがって町奉行自らが大坂に居住し直接に大坂の施政・裁判に関与する年月は極めて限定されていたといわねばならない。一方、与力の下役として勤める同心の方は、少なくとも近世後期に至ると定着率は低下し、事実上の世襲性は弱体化する。「身持不行跡」「勤方未熟」を理由に暇を出される同心、若い時期に依願退番をする同心はあとを断たず、このため明き跡に「雇」同心を入れるというかたちで人材を確保している場合が少なくないからである。このように五〜六年任期で交替する町奉行と、相対的に定着率の低い同心との間にあって、与力は総じて一人ひとりの在職年数が三十〜六十年と長く、しかも与力の抱席は同心と異なり事実上世襲の原則が堅持されたため、与力「家」として二百年以上にわたり大坂に居住しつづけ、「家」職として与力を勤めるのが一般的であった。短い年月の間に交替する町奉行に代わって町奉行所全体に課せられた広汎な職務を円滑・迅速に遂行する実際的な責任が、こうした与力層の肩にかかってくるのは必至であった。しかも与力の職務は、上司たる町奉行の命令に唯々諾々と従うといったことでは済まされなかった。「八田家文書」の中に、十九世紀に入ってから作成された『吟味役勤書』(神戸市立博物館蔵)という史料があるが、この史料は当時の裁判における町奉行と吟味役与力との関係を如実に示している。これによれば吟味役与力は、月番奉行が裁許場で公事訴訟を聴く「御用日」には自らも裁許場に詰めて奉行の傍らで一部始終を聴く。そして、その中で吟味すべき事件を品分けして吟味担当者を決め、各担当者の吟味が一応煮詰まった後、最終的な仕置の当否、量刑判断については再び吟味役与力が、これを行うことになっている。すなわち裁判における吟味役与力の役割は裁判過程における一部分を受けもつという程度のものではなく、裁許場で奉行とともに公事訴訟を聴くことにはじまり、最終的には量刑を含む伺書の作成に至るまで、ほぼ全過程に一貫して関与しており、極めて総括的なものであったことがわかる。
とくに公事場で奉行がじきじきに「御糺(おただし)」の際「若品合違候儀等有之節は無遠慮、跡ニ而申上候様被仰渡」とあるように、もし奉行の糺しに間違いなどがあれば後から遠慮なく言うようにと奉行から仰せ渡されていることは、奉行が体面を保ちつつも実際の裁判においては与力の判断に依存せざるを得なかったことがうかがわれて実に興味深い。こうした吟味役与力の果たす重要な役割は恐らく、他のあらゆる分野を担当する与力にも共通していたと考えてよかろう。
大坂町奉行所は与力のもとに蓄積された経験や知識・技術なしには、その行政的・司法的任を果たすことができなかったであろうし、町奉行所関係の史料が多く与力の家に残された理由も、まさにこの点にこそ求められるのではなかろうか。
「御吟味物科(とが)書并御伺所書扣」(九大法学部蔵)という史料も 元文四年(一七三九)から寛延二年(一七四九)までの十年間に起こった事件の中から十七件を抜き出し、年月順に集めて目次をつけたものである。八田自身は、十七件のいずれの事件にも関与していないにもかかわらず、中表紙に「可成見合ニ科書并御伺もの集書 八田五郎左衛門所持」と書かれてあることは、先例・判例として「見合ふ」(見くらべる)ために、八田自らが編集し作成したものか、もしくは他の者が抜き出し編集したものを書き写し、自ら所持していたかのどちらかであったことを示している。しかし、いずれであるにせよ「八田五郎左衛門所持」と大書されていることは、それが奉行所に備えつけるべきものではなく、八田自身が常に座右に備えた私的な性格のものであったことを示している。 以上のような、窺書や科書の整理・編集・筆写という根気を要する丹念な仕事は、それをした人の職務への意欲や誠実さの表れであろうと思うと、それが何代目の五郎左衛門かと思わずにはいられなかったのである。
これらが、六代目・八田五郎左衛門の手によるものであることはまちがいない。『東組与力役人之分勤年数并役替順覚書』(神戸市立博物館蔵)によれぱ彼は、
元文二年(一七三七) 見習御番入 寛保元年(一七四一) 父退番に付組入 延享四年(一七四七) 目安役 寛延三年(一七五○) 加役 証文方を命じられ、その後の役替にもかかわらず、加役として証文方を十二年間、引きつづき加役として盗賊吟味役を十五年間勤めており、計三十年近くの間、目安役、証文方、盗賊吟味役という司法・検察的分野に専従したといっても過言ではない。先の『諸御用御窺書』にあったように八田が百件余りの事件の口書・窺書作成に関与していた、延享三年(一七四六)から、明和四年(一七六七)までの二十年余は、まさにこの時期に一致する。『諸御用御窺書』の最後の年にあたる明和四年とは、彼が同心支配役という、与力最上の役席に就いた年であり、件−七代目の八田五郎左衛門が若い頃の父と同様に目安役を命じられた年でもある。『諸御用御窺書』(全五冊)が、この年を以て完結しているのも了解できるのである。また先の『御吟味物科書并御伺所書控』に集められている窺書が 元文四年(一七三九)から寛延二年(一七四九)までのものであり、彼自身がいずれの事件にも関与していないことも、この時期の彼が、見習いとなり目安役を仰せ付けられて二年に満たない頃だと考えれぱ当然ともいえよう。
司法・検察的分野の仕事に長く携わった六代目の八田が、口書・窺書の作成という自らの仕事を整理・編集し、さらに他の与力の関与した事件の中の重要なものを抜き出し筆写して、私的な「判例集」として座右に備えたことは、地域性の色濃い、大部の「先例判例集」ともいうべき『御仕置雑例抜書』もまた、六代目の八田が単独で、もしくは他の司法・検察的与力層と協力して編集したとの推定を可能にする。
前述の如く『御仕置雑例抜書』については既に金田平一郎氏が言及している。氏はそこで、(1)「御仕置雑例抜書」にみえる年号の最も若いのが享保期であり、(2)宝暦期の八田五郎左衛門が所持していた、という二点からその成立を享保〜宝暦期の間と推定されている。しかし、ただ「所持」していただけなのであろうか。私自身、いずれ「御仕置雑例抜書」全体にわたる分析がなされるベきであると考えているが、今ここで何よりも重要であると思われることは、この内容が表題の示す如く、民事的・刑事的諸事件の判例、奉行所の実務に関わる先例、大坂の町触等、極めて雑多であるにもかかわらず、これが百ケ条に編集されている事実である。それも偶然百ケ条になったというのではなく、中表紙に「御仕置雑例抜書・百箇条」と表題が記されていることから、人為的に百ケ条に集められたと考えた方がよい。このことは、編集した者が『公事方御定書』をいわゆる『御定書百箇条』として意識し念頭に置いて、自らも「百箇条」に編集したことをうかがわせる。「公事方御定書」の一応の成立が寛保二年(一七四二)とされているところから『御仕置雑例抜書・百箇条』の成立は、少なくともそれ以降と考えられる。五代目の八田は寛保元年(一七四一)に病死しており、関与できない。又、七代目が見習いのまま目安役となったのが明和四年(一七六七)であり、『御仕置雑例抜書』の先例・判例の下限が享保段階であることを考えると、間があきすぎる。このように考えてくると、「御仕置雑例抜書・百箇条」は、六代目の五郎左衛門が与力在勤中に成立したといってまちがいあるまい。そしてこれまで見てきた如く六代目の八田が長く司法・検察的分野に携わり、先例・判例の整理・編集に並々ならぬ意欲をもっていたことを考えると、彼が「御仕置雑例抜書・百箇条』を単に所持していたのにとどまらず、その編集にも深く関与していたと考えてよいのではあるまいか。 「御仕置雑例抜書・百箇条」は、「判例集」としてみれば、技術的にも極めて稚拙である。しかし従来、判例法が発達したのは専ら刑事事件に関することであり「民事裁判には同様の現象はほとんどみられない」と指摘されてきたことを考えると、それが大坂を中心とする民事的判例を豊富に含み、ともかくも「百箇条」に編集されている事実は、大坂における「判例集」編纂への志向性の萌芽として評価されるべきであろう。そして、それは、与力が現実の裁判過程で果たした重要な役割と六代目の八田の如く大坂に生まれ育った根生いの与力たちの、職務に対する試実な努力抜きには、決して成立しえなかったであ
ろう。