高須芳次郎(1880-1948)
『近世日本儒教史』越後屋書房 1943 所収
彼はまた学問の余暇を利用して、武術を習つた。刀、銃、弓、槍の法を悉く知り、殊に槍術に於ては関西第一と称せられるほどであつたが、たまたま養祖父重病の報があつて大阪に帰り、祖父卒去後は家に留つて与力の職に帰つた。時に二十六。その翌年文政三年高井山城守が山田奉行から大阪東町奉行に転じたが、鑒識ある人で、中斎の才識絶倫であることを看取し、抜擢して吟味役に任じた。従来、大阪の吏人は愛憎によつて刑罰を変じ、金銭によつて生殺を決するの風があつて、市民は蛇蝎のやうに、吏人を怖れもし嫌ひもした。そこで中斎は先づこれらの弊風を改革しやうと力め、厳しく奸邪を懲し、正善を助けた。就中、京都大阪の妖巫益田貢を誅戮したこと、大阪西町の妖夷弓削新右衛門を割腹せしめたことなどは彼の功績を語るものである。かくて中斎の名は大いに世に知られるやうになつた。
その職に居ること十年、彼が三十七のとき、山城守はすでに七十に近く、劇職に堪へられなくなり、後を中斎に依頼したが、中斎は山城守が辞職するに先立つて職を辞し、養子格之助をして自分の後を継がしめた。そののち、彼は専ら陽明学を講じ、書を著はし、併せて子弟を指導した。天保三年六月、近江に遊び、藤樹書院を訪ひ藤樹の徳行に感ずるところがあつた。またその帰路、湖上に遊び、颶風に遇つたが、それが為め良知の旨意を体認することが出来たといふ。その後数回小川村に赴き、藤樹書院に村民を集めて良知の学を講じた。それで或る人は中斎のことを近江聖人の再生だとも云つだ。
彼は良知の旨意を生徒に向つて次のやうに説いてゐる。
天保七年、米価が沸騰したため、多くの貧民が餓死した。それは天保二三年頃から気候不順の為めに穀物が出来なかつたからである。全国の貧民が殆んど餓死するのを見て、中斎は坐視するに忍びず、彼の子格之助を介して時の奉行跡部山城守に、倉庫を開いて貧民を救護するやうに進言した。山城守はそれに対して、四五日後に実行する旨を答へたので中斎は大いに喜んだ。ところが山城守は冷淡無責任で仲々それを実行しなかつた。それで中斎は再三、格之助を通して催促したが、一向要領を得ず、なお頻りに催促したところ、江戸へ米穀を廻送しなけれぱならないから救済することが出来ないとの答へであつた。中斎は憤慨して更に一策を講じた。それは富商を説き借金をして貧民を救済しやうとしたことである。ところが山城守がまた陰にこれを妨げたので、その策も不成功に終つた。
茲に至つて中斎は大いに怒り、今度は一切の蔵書を売却した。その部数一千二百、代価六百五十両であつた。かくて彼は一万枚の切手を作つて悉くこれを窮民に施与した。このことを聞いた山城守は名を売る行為であると称し、格之助を召して酷く叱責を加へたといふ。それは益々中斎を憤激せしめることになつた。
天保八年二月十九日中斎は山城守の非政を罵つて貧民に同情するの余り、遂に兵を挙げた。これより先き彼は檄を遠近に飛ぱした。その一節 *1 を掲げる。
檄文の一節を見ても彼が如何に烈々たる尊皇家であつたかゞ分るであらう。彼は皇室を敬ひ、無法な幕府を攻め、貧民救済の犠牲となつたが、後世に与ヘる影響は大きい。実に彼は学者であると同時に救世の志士であつた。
近藤重蔵は中斎と意気投合した一人であるが、中斎の唯一の知己は頼山陽である。中斎の門人は甚だ多い。前後通じて千人に上るといふ。著書には「古本大学刮目」「洗心洞箚記」「儒門空虚聚語」「増補孝経彙註」とがあつて、以上を合称して「洗心洞四部書」といふ。
中斎は尋常の学者ではない。一種の英傑で、大臣たるべき器だつた。唯時勢が門閥中心主義であつたので、その適当の地位を得ず、加ふるに跡部の非政のため、非命に倒れた。が知行合一の精神を貧民救助の上に実行したことは、彼の博愛心が深かつたことを示した。唯過激の行動に出たのは、止むにやまれぬ勢であつたにせよ、惜しむべきである。
*1 「檄文」