Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.18

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大塩の乱関係論文集目次


「蔵書千余巻を売り払つて窮民を救ふ
 (王陽明の祖述者大塩平八郎)」

高須梅渓(芳次郎、1880-1948)

『百傑スケッチ 金言対照』 博文館 1910 所収

◇禁転載◇


 *標題は目次による

蔵書千余巻を売り払つて窮民を救ふ(王陽明の祖述者大塩平八郎)

  □苟くも仁に志せば悪なきなり(孔子)

大塩平八郎は、日本陽明学派中の豪傑である。其の気象、識見は、普通、平凡な儒者と同一に見ることが出来ない。渠の友たりし頼山陽が渠を評して、『上衙治盗賊。帰家督生徒。獰卒候門取裁決。在塾猶聞喧唔。家中不納鬻獄銭。唯有々万巻書。』云々と言つたのは、能く其の半面を穿つて居る。

平八郎が大坂与力として残した治蹟は、見るべきものが多い。渠は、町奉行高井山城守実徳の知遇を受けて、思ふ存分、其の明快な手腕を揮ふた。然し山城守が老年を以て其の職を辞するに及んで、渠も亦任を去つて、専心、陽明学の精粋を子弟に教へ、読書著作を何よりの楽しみとした。それは天保元年の頃である。処が天保四年、渠の畢世の心血を潅いだ『洗心洞剳記』成りし折、関東地方に大飢饉あり、翌五年には、江戸大火あり、六年には、美濃、上野、甲斐、武蔵等に一揆起り、世の中は、全く不景気を以て満された。此の時分、大坂奉行たりし人は、矢部駿河守定謙であつた。渠は、物価騰貴に対して、貧民を救賑することを怠らなかつた。変に応じ、機に臨み、少しも其の措置を誤らなかつた、之がために其の人物を知られ、天保七年初秋、勘定奉行の重職に栄転した。渠に代つて町奉行となりしは、愚昧なる跡部山城守良弼であつた。

当時、大坂も亦江戸に劣らぬ天災に逢つた。秋に入つて、霖雨容易に霽れず、河川の水溢れて、田畑を浸し、人家を襲ひ、五穀全く実らざる有様、下層民は、何れも糊口の道を失うて、飢餓を叫ぶ声、此処彼処に物凄きばかりである。此の惨状を見た平八郎は、如何にも同情に堪へなかつた。何とかして、之を救ひたいと思つた揚句、賑恤策を案出して、其の子格之助(与力を勤む)に托して、跡部に差出した。愚昧なる跡部は、一向、之を採用しない。『隠居の分際で生意気な』と一喝して、返事を寄越さなかつた。平八郎は、気が気でなく、屡ば其の処決を促した。跡部は『城代土井大炊頭の意見だ。』と偽つて、『来春、将軍代替りの大典ある筈で、費用多端の為め、非常の準備を要するから、到底、府庫の米を出すわけに行かぬ。』と言ひ切つた。平八郎は、更らに一策を考へ出して、今度は、跡部に計らず、同組同心庄司義左衛門と相談の上、二十余人の同志を?合して、各自の所得を抵当に入れて、鴻池、住友等から、金を借り入れ、窮民を救うとした。之れも亦、跡部の妨害に逢つて、如何することも出来ない。其の癖、跡部は、奸商と結托して、ソツと府米を売り払つて、暴利を貪つて居た。

再度の妨害に、流石の平八郎も、手の着けやうがなかつた。其の中に、如何か天保八年元旦を迎へたが、物価愈よ騰貴して、貧民の困苦甚だしく、続々病人を出す有様、而かも府庫の米は、依然、渠等の為めに開かれないのである。此の時、平八郎の口を吻いて出たのは、左の詩である。

   新衣着得説新年。羹餅味濃易下咽。
   忽思城中多菜食。一身温飽愧干天。*


如何に渠が下民に同情したかを、推測することが出来る。渠は、最早、座視するに忍びなくなつた。此の上は、其の秘蔵の珍書奇籍を売り払つて、之を金に代へて、窮民に分与しやうと決心した。其の冊数約一千二百、売価六百五十両を得て、一万余の人々に頒つたのである。勿論、其の割合し、一人一銖位であるから、極めて僅少であるが、饑えて土を喰はんとする窮民に取つては、地獄で仏に逢つたやうな喜びを感じたに違ひない。当時、無智の府民が、『平八郎様』と尊称して之れを崇拝したのは、無理のない話である。後、平八郎が之等窮民の為めに憤起し、奸臣跡部を征伐せんとして却て叛逆罪に問はれたのは、痛惜に堪へぬ。然し平八郎の心中では、仁者として斃るゝのを満足に思つたであらう。


* 石崎東国『大塩平八郎伝』その63 では天保五年作。
 松村介石「大塩平八郎


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