Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.5.19

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大塩の乱関係論文集目次

高安月郊「大塩平八郎」目次


「大 塩 平 八 郎」その19

高安 月郊(1868-1944)

金港堂書籍 1902 より



◇禁転載◇

第六段 其四 同 離座敷

***
三方壁、一方に小窓あり、前空地、上手に樹木茂る、下手に木戸あり、店への通路あり、入口には戸障子を立てかけ、側に火鉢を置く。中斎目を閉ぢて坐す、格之助侍す。
格之父上、父上。
中斎(目を開き)あ太虚の境を尋ねしに、何事ぢや呼戻された。
格之何やら表に騒ぐ音、只ならず思ひまする故。
中斎仮令何か起らうとも、今更驚く事はないわい。
格之でも一日でもお命を取りとめたいが心一杯。
中斎一味の者は戦場にて、或は討たれ自殺なし、捕はれて牢に死し、屍も市を引廻され、張付に逢ふもあり。主謀の我のみながらへても、心苦しき次第でないか。
格之いえいえ さうではござりませぬ。彼人達とて父上の御存生こそ願ふとも、何恨に思ひませうや。
中斎よし恨む事なくとも、これより先をいかにせん。いつまで茲に居られもせじ。西も東も法の網、天の網より細かくて、大なる程抜けられず。
格之それには僧と姿を変へ、くゞりくゞりて長崎より、異国の船に乗移り、露西亜米利堅へでも参るでござらう。
中斎さう行かるれば行きもせん、しかし心が残らうぞ、
格之そりやまた誰に?
中斎此場に及で何憚る。
格之ハツ
  俯むく
中斎夫婦親子は情の根元、其上にこそ道は立て。思ふも良知の端ながら、遠く去ればこれまでぢや。
格之思ひ切つて居りましたに、由なき事を仰せらるゝ。しかし茲にて相果てなば、彼等の嘆はいかばかり、よしや再び逢はれずとも、海のあなたに居るならば、慰む端ともなるでござらう。
中斎はかなき事をたよりにする、情は脆きものぢやなあ。
格之して父上のお心は?
中斎我にも心残りがある。
格之そりやまた何に残りまする。
中斎此世の民に残るわい。
格之何とおつしやる。
中斎ア測られぬは心ぢやなあ――思ひ出せば一度二度、我心は三度まで、変りしも一昔、先づ十五才の春なりし、始めて家の系図を見て、祖先は名ある武将より、出でしと知りし嬉しさよ。あはれ再び我家を興さんものと盟ひしが、父母に別れて職を継ぎ、日毎に見るは府吏囚徒、営利の中に気も傲り、鞭うつものと一間の、罪を知りしは二十五才、野心一たび変りしが、世上の儒者の風に染み、訓詁の中にかゞみしを、三十八才にして陽明の、教に開く良知良能、外に求むる念絶えて、洗心洞の主人となり、内より更に見渡せば、我為ならぬ喜怒憂懼忍び得ずして動きしが、今また見れば一嵐。
格之しかし危急は尚止まず、此家に寄せて来る時は?
中斎打たると思へば打たれなん、打たれぬ心は何やらん。
格之すりやお心はどこまでも?
中斎済だ済だ済み切つた。
格之お身を烟となされても?
中斎オゝ
格之家を断絶なされても?
中斎オゝ
格之焼きし豪家はまた立ちて、前に異なる事もなく、救ふ貧者は家も無く、一しほ飢に苦むとも?
中斎エイ汝まで分らぬか。
格之ハツ
中斎夢は一時ぢや理は不滅ぢや。
格之でも天道はいづくやら。
中斎ア此世の路も窮まつた。前後左右に立隔つ、壁に向つて事問へど、云はず語らず薄黒く、曇るは天にさも似たり。天道かくと見極めて、行ふものを容れられず。剛毅に過ぐと云はゞ云へ、優柔にては益あらんや。さては其侭措くべきか。良知無くば措かれなん。太虚に帰せばいとゞ尚、我のみ善くて止まれんや。若しくは我学非なりしか。天と道と異なるか。正義は人の心にて、心の外に此世あり、限ある世は限無き、心のみにて足るべきか。心々に伝へんに、遂に苦む事なきか。まして此侭知られずは、烟ぢや霧ぢや毒霧ぢやなあ。
  次郎七よろめき乍ら入り来る
次郎旦那――
  言葉出ず、手まねにて示す。
中斎否今こそ晴せ霧烟、罪も我身も皆消して、誠に洗う心の洞、あ洞といふ字も焼かねばならぬか。
  捕手入来る
格之父上おさらば。
中斎オゝ
  
格之助火鉢に火薬を投入る、捕手逡巡、格之助自殺、中斎喉を突き其上に伏す。捕手込入る。一面烟

   (終)


高安月郊「大塩平八郎」目次その1(登場人物)/その18

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