高安 月郊(1868-1944) 金港堂書籍 1902 より
*** | 三方壁、一方に小窓あり、前空地、上手に樹木茂る、下手に木戸あり、店への通路あり、入口には戸障子を立てかけ、側に火鉢を置く。中斎目を閉ぢて坐す、格之助侍す。 | ||
格之 | 父上、父上。 | ||
中斎 | (目を開き)あ太虚の境を尋ねしに、何事ぢや呼戻された。 | ||
格之 | 何やら表に騒ぐ音、只ならず思ひまする故。 | ||
中斎 | 仮令何か起らうとも、今更驚く事はないわい。 | ||
格之 | でも一日でもお命を取りとめたいが心一杯。 | ||
中斎 | 一味の者は戦場にて、或は討たれ自殺なし、捕はれて牢に死し、屍も市を引廻され、張付に逢ふもあり。主謀の我のみながらへても、心苦しき次第でないか。 | ||
格之 | いえいえ さうではござりませぬ。彼人達とて父上の御存生こそ願ふとも、何恨に思ひませうや。 | ||
中斎 | よし恨む事なくとも、これより先をいかにせん。いつまで茲に居られもせじ。西も東も法の網、天の網より細かくて、大なる程抜けられず。 | ||
格之 | それには僧と姿を変へ、くゞりくゞりて長崎より、異国の船に乗移り、露西亜米利堅へでも参るでござらう。 | ||
中斎 | さう行かるれば行きもせん、しかし心が残らうぞ、 | ||
格之 | そりやまた誰に? | ||
中斎 | 此場に及で何憚る。 | ||
格之 | ハツ | ||
俯むく | |||
中斎 | 夫婦親子は情の根元、其上にこそ道は立て。思ふも良知の端ながら、遠く去ればこれまでぢや。 | ||
格之 | 思ひ切つて居りましたに、由なき事を仰せらるゝ。しかし茲にて相果てなば、彼等の嘆はいかばかり、よしや再び逢はれずとも、海のあなたに居るならば、慰む端ともなるでござらう。 | ||
中斎 | はかなき事をたよりにする、情は脆きものぢやなあ。 | ||
格之 | して父上のお心は? | ||
中斎 | 我にも心残りがある。 | ||
格之 | そりやまた何に残りまする。 | ||
中斎 | 此世の民に残るわい。 | ||
格之 | 何とおつしやる。 | ||
中斎 | ア測られぬは心ぢやなあ――思ひ出せば一度二度、我心は三度まで、変りしも一昔、先づ十五才の春なりし、始めて家の系図を見て、祖先は名ある武将より、出でしと知りし嬉しさよ。あはれ再び我家を興さんものと盟ひしが、父母に別れて職を継ぎ、日毎に見るは府吏囚徒、営利の中に気も傲り、鞭うつものと一間の、罪を知りしは二十五才、野心一たび変りしが、世上の儒者の風に染み、訓詁の中にかゞみしを、三十八才にして陽明の、教に開く良知良能、外に求むる念絶えて、洗心洞の主人となり、内より更に見渡せば、我為ならぬ喜怒憂懼忍び得ずして動きしが、今また見れば一嵐。 | ||
格之 | しかし危急は尚止まず、此家に寄せて来る時は? | ||
中斎 | 打たると思へば打たれなん、打たれぬ心は何やらん。 | ||
格之 | すりやお心はどこまでも? | ||
中斎 | 済だ済だ済み切つた。 | ||
格之 | お身を烟となされても? | ||
中斎 | オゝ | ||
格之 | 家を断絶なされても? | ||
中斎 | オゝ | ||
格之 | 焼きし豪家はまた立ちて、前に異なる事もなく、救ふ貧者は家も無く、一しほ飢に苦むとも? | ||
中斎 | エイ汝まで分らぬか。 | ||
格之 | ハツ | ||
中斎 | 夢は一時ぢや理は不滅ぢや。 | ||
格之 | でも天道はいづくやら。 | ||
中斎 | ア此世の路も窮まつた。前後左右に立隔つ、壁に向つて事問へど、云はず語らず薄黒く、曇るは天にさも似たり。天道かくと見極めて、行ふものを容れられず。剛毅に過ぐと云はゞ云へ、優柔にては益あらんや。さては其侭措くべきか。良知無くば措かれなん。太虚に帰せばいとゞ尚、我のみ善くて止まれんや。若しくは我学非なりしか。天と道と異なるか。正義は人の心にて、心の外に此世あり、限ある世は限無き、心のみにて足るべきか。心々に伝へんに、遂に苦む事なきか。まして此侭知られずは、烟ぢや霧ぢや毒霧ぢやなあ。 | ||
次郎七よろめき乍ら入り来る | |||
次郎 | 旦那―― | ||
言葉出ず、手まねにて示す。 | |||
中斎 | 否今こそ晴せ霧烟、罪も我身も皆消して、誠に洗う心の洞、あ洞といふ字も焼かねばならぬか。 | ||
捕手入来る | |||
格之 | 父上おさらば。 | ||
中斎 | オゝ | ||
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(終)