Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.16修正
2000.8.22

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大塩の乱事典


「大 塩 中 斎」

竹林貫一編

『漢学者伝記集成』 関書院 1928 所収

         

 
 

 

 

 

文政庚寅

 十三年、
 天保と改
 元す、此
 時年三十
 七、
 乱を起せ
 る天保八
 年は四十
 四歳、そ
 の生まれ
 たるは、
 寛政七年
 なり、

    名は後素、字は士起、中斎と号す。通称平八郎、其書室を洗心堂 *1 といふ。大坂府士。

 中斎夙に王陽明の人と為りを慕ひ、其学を治め、吏務に敏なり。文政丁亥、耶蘇の邪党を京摂の間に捕へて功あり。己丑、猾吏奸卒豪富と交通し、政を蠹し人を陥るゝ者あり。事権貴従僕に連及す。吏皆危懼して敢て問はず。適々高井某府治に莅み、平八郎に命じて之を糾察せしむ。乃ち憤然として之が為に、秘策を施設し、伏を【適】し姦を発(あば)きしかば、巨魁自刄し余党悉く獲らる。法を論じて刑に処し、其贓を挙げて三千余金を得、府下の煢独を賑恤せり。其他の断獄皆此の類なりき。庚寅、令を出して破戒の浮屠を喩すこと三たび。其の悛めざる者数十人を逮捕し悉く流に処せり。遠近靡然として其の治風を仰ぎぬ。時に年三十七、

 高井某、年殆ど七十、老病を以て書を上りて職を辞せり。平八郎慨然として曰く、「余本(もと)微賎、公の知遇を蒙り、言聴かれ計行はる。衙蠹を除き民害を鋤し、僧風を規し以て功績を立てたり。而して今公帰休す。我れ義として共に職を弃て以て招隠せざるを得ず。苟も然らずんば、平生聖賢の書を読み、良知の教に従事して、独り心に愧ぢざらんや」と。乃ち招隠之詩を賦して云ふ、

    クシテ功漁釣亦応ナル
    湖上煙波好ルニ
    頼倚吾公済フノ效。
    今秋共セン衣。

 平八郎既に致仕し、陽明の学を以て、生徒に教授す。生徒或は喪心する者有れば、輒ち之を戒めて曰く、世を海となし、身を船となし、心を柁となす。身船終日海に浮沈す。もし心柁なくば、未だ利雨名風、慾瀾情波の覆溺する所とならざるもの幾んど希なり、是の故に性宝を喪はざらんと欲する者は、宜しく堅く心柁を執り、以て那(かの)無涯無底の世海を渡るべきなり。縦ひ風雨波瀾に逢ふとも、庶くは覆溺の害を免れん」と。問う、心柁とは何を謂ふか。答へて曰く、「心柁は即ち良知なり。」

 天保八年丁酉、米価騰貴し、貧民殆と餓死す。平八郎之を憂へ、乃ち一策を建て、府下の富商をして各々金を出して之を救はしめんと欲し、其子格之助をして之を山城守跡部某に説かしむ。某唖然とし笑つて曰く、「平八郎発狂せるか、何ぞ言の過てるや」。格之助帰り報ず。平八郎大いに怒り且歎じて曰く、「伝に云ふ。四海困窮セバ、天禄永ヘン。又曰く、小人之使ムルヤ国家、災害竝。信なるかな此の言。近年天災地変、皆僂(る)するに勝ふべからず。而も有司恬然として酒に湎(ふけ)り、色を漁(あさ)り、賄賂公行し、愛憎意に任ず。士風振はず、廉恥地を掃ふ。吾豈之を坐視するに忍びんや」と。乃ち貧民に人ごとに金一銖を賑はす、凡そ一万人。喩して曰く、「若し火起ると見ば、疾(と)く来り集れ」と。又檄を摂河泉播に移し、窮民を煽動す。文意天に代りて民を拯ふに在り。二月十八日、事発覚す。十九日、跡部某兵を伏せ、其党瀬田済之助、小泉淵次郎を召す。二人覚りて走る。伏起りて淵次郎を斬り、済之助逃げ帰り平八郎に告ぐ。平八郎乃ち急に党を集め、纔に五六十人を得、砲を発し火を縦つ。旗二道を樹つ。一には天照皇大神宮と書し、一には南無妙法蓮華経と書す。蓋し天に代りて民を拯ふの意を表せる也。跡部某等兵を帥ゐて攻撃し、大いに之を破り、数十人を斬る。平八郎格之助、其の之く所を知らず。或は曰く焚死すと。或は曰く、薩に走ると。

 善風子曰く、「吾れ平八郎之初心を観るに、好んで乱を作す者にあらざる也。蓋し激する所ありて乱を作すに果なりし也。初め平八郎高井某に識らゝこと彼の如く、又跡部某に愚にせらるゝこと此の如し。此れ英雄豪傑の歯を【歯介】(か)み腕を扼して憤怒する所以なり。嗚呼彼れ焉んぞ事の成敗を問ふに遑あらんや。吾れ又其の良知説を観るに、陽明の学に得ることあるものに似たり。所謂心柁なるもの彼れ自ら之を執り、而して自ら誤りしは何ぞや。悲しい夫。
(蒲生重章撰平八郎伝)

*
 


管理人註
*1 「洗心洞」


「事実文編・大塩平八郎伝」蒲生重章
檄文


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