Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.1.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


「天保の飢饉、乱民の暴発、大塩平八郎の乱」

竹越与三郎(1865-1950)

『二千五百年史』 二酉名著刊行会 1927 所収

◇禁転載◇

第二十六章 徳川氏の末世

  天保の飢饉、乱民の暴発、大塩平八郎の乱

管理人註
  

          みの 時に天保四年より米穀登らず。加ふるに金銀疎悪なるがため、米価騰貴し、              かく                 がへう 貧民食を得ずして道に斃る。斯の如きもの三年。江戸市中に於てすら餓道 に横はるに至り、窮民所在、相集つて乱を為す。其最も大なるものは武蔵に 発し、美濃に発し、甲斐に発し、上野に発し、下野に発し、浪遊生を為すも の四方を徘徊し、却掠を業とす。諸侯代官、之と争うて事端を増さんことを     ことさ 恐れて、故らに之を避く。是より豪農亦禁を犯して剣を学び、以て自衛に備 へんとし、紀綱索然として振はず、窮民ならざる者も、幕政に飽きて人心変 を思ふ。時に大阪町奉行の与力大塩平八郎なるものあり。王陽明の学に通じ て中斎と称す。剛果峻厳、最も治獄の才に長じ、奉行高井山城守実徳の重用         しばし する所となりて、数ば大獄を断じて重名あり。已にして実徳老を以て官を解 くや、平八郎また之に従つて退き、諸生を集めて書を講ぜしが、居常怏々と して志を得ず。幕府の紀綱索然として振はず、乱民四方に起り、人心恟々た るを見て、自ら駿河の今川義元の支流と称し、其子格之助を元服せしめて、         とな 窃に今川弓太郎し称へしめ、蔵書万巻を売つて窮民を救ひ、且つ告ぐるに天 満天神両橋の辺に火災あらば、急に来るべきを以てし、銅砲木砲四個を作り、 天照大神・武王・徳川家康の旗を作り、政府の腐敗、官吏の私曲を数へ、下 民のために姦官を誅するの檄を四方に伝へて、天保八年二月十九日の夜、門 弟同心徒党数十人と共に火を放つて大阪を焼き、紛擾に乗じて事を起さんと す。与党平山助次郎、志を変じて急を奉行に告ぐ。時に旧奉行跡部山城守良                                 とら 弼。職を新奉行堀伊賀守利堅に継がんとす。二人即ち先づ大塩の与党を執ふ。 平八郎之を聞き、十九日の早暁、自ら其家を焼きて、火を四方に放ち、天神                             橋を落し、鴻池・三井以下の富豪を砲撃し、焼夷し、窮民を馳り、農夫を募                  みち り、勢に乗じて大阪城に向はんとし、途に逆撃せられて敗走し、平八郎以下 与党或は自殺し、或は焚死す。平八郎等初め退いて武庫郡甲山に拠り、天下 の動揺を待たんとして、事此に至らずして敗れしなり。








弓太郎は
格之助の子






二月十九日の夜
後述の「早暁」
が正しい










大塩父子は
大阪油掛町
に隠れ自殺

幸田成友
『大塩平八郎』
その159

  家斉退いて家慶立つ、鍋島侯の不服、水野忠邦出づ

管理人註

天保八年六月、
越後柏崎に一
揆三千人起る。
大塩の徒と称
するもの三十
余人之が首領
たり。日なら
ずして平ぐ。

          しゆゆ     たひら 大塩平八郎の乱は、須萸にして夷ぎ、其焼く所も一万二千五百戸に過ぎざり き。然れども西南の雄藩大侯が、徳川氏の威を憚からざるのみならず、区々 の匹夫を以て、大阪によりて天下を動かさんとしたる一事は、深甚の感動を 世人に与へ、幕府衰亡の時を報ずるの晩鐘の如くに聴かれぬ。   【後略】



須萸
短い時間
 


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