Я[大塩の乱 資料館]Я
2007.1.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その159

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  八 末路 (11)
 改 訂 版








美吉屋
五郎兵衛





































平八郎父子
の隠家

二月下旬から三月上旬へかけ、暴徒中の頭領分は、自殺するあり、 自訴するあり、又捕縛せらるゝもあつて、大抵其結末を明にした が、肝要の大塩父子の行衛が知れぬ為、詮議の網は蜘蛛の巣の如 く張られた、平八郎父子は良左衛門自殺の後一旦大和路に入り、 手当の厳重なるを見受け、道を替へて河州路に立戻り、廿四日夜 漸く大阪油掛町の五郎兵衛方へ着いたのである、五郎兵衛は手拭 地の仕入職で、其家は今の靭下通二丁目紀伊国橋を東へ入つた所 の南側で、東から二軒目に当る、女房つね・娘かつ・孫かく・下 男五人・下女一人都合十人暮で、久しく大塩邸へ出入し、勝手向 の世話をした者故其縁故を頼つて来た訳で、灯台下暗しといふ諺 の如く、大阪に居れば却て探索か行届かぬと見込んだからであら う、其夜五郎兵衛方では平日の如く主人は勝手の方、家内の者は 台所又は二階に打臥してゐると、夜五ッ時過になつて表の戸を叩 く者がある、誰かと問へば備前島町河内屋八五郎方の使だといふ、 八五郎は兼て知合枚、五郎兵衛は何用かと起上つて雨戸を明ける と、鼠色の木綿合羽に脇差を指してゐる僧体の者両人、挨拶もな く足早に奥間に通つたので、不審に思ひ跡を追つて両人に面会す ると、豈に計らんや平八郎父子である、其時平八郎は挙兵の埋由 一党離散の顛末を粗々と話し、当分匿ひくれよ、不承知とあらば 居宅へ火を放ち、家内残らず焼殺すべしと、既に脇差の柄へ手を 掛けるので、五郎兵衛は是非なく承知し、奥の間裏手納戸の小間 へ両人を隠し、仕切の襖を堅く〆切り、女房つねに委細を打明け たるのみにて、其他の家族雇人等には一切覚られざるやう心掛け、 三度の食事も夫婦の分を除け置き、五郎兵衛自ら密に持参する位 であつた、其後一両日立つても平八郎父子は出立の気色が無い、 日数重なつては露顕の基と、五郎兵衛は頻に立退を催促するが、 時節到来致さゞるにつき今暫く忍ばせよ、左なくば一同焼殺すべ しと再三威され、一旦匿ひたる上は其罪遁れ難く、さりとて同居 せば自然家内の者の目に触るゝこともあらん、居宅奥座敷西手裏 続きの離座敷は表裏の戸締堅固にて、居宅とは庭を隔て、其境は 手厚の板塀にて仕切り、通口には小き切戸あり、座敷西手の入口 も同様にて、平日は家内の者も入らず、明家同然故、之へ匿ひ置 かば容易に目付かるまいと、夫婦相談の上、父子を離座敷に移し、 食事は日々五郎兵衛家内の飯米を計渡す伝手に手元の紙袋へ詰、 塩香物を添へて持参致すにつき、炭火にて炊かれたし、若し右の 品々尽きなば切戸を叩かるべく、それを合図として又々入替るべ しと約束し、其通りに仕て居つた、其後五郎兵衛は折を見て平八 郎の底意を尋ねたが、深き存寄あつての事なりといふ計で、一向 打明けないのみか、座敷廻りの戸障子を外し、沢山の穴を明け、 其所へ蒲団の綿を取出して詰込み、焼草にするのだといつて、平 八郎着座の傍へ積重ねて居る、強ひて立退けといへば必ず之に火 を掛けるに違ないと、五郎兵衛夫婦は心配ながら其儘に打過ぎた、 以上は五郎兵衛つねの申口附録(二六)によつたので、勿論片口で あるから、多少自分に都合のよいことを述べたであらうが、先づ 大体に於て相違の無いものと思はれる。

 二月下旬から三月上旬へかけ、暴徒中の頭領分は、自殺するあ り、自訴するあり、又捕縛せられるものもあつて、大抵結末を明 らかにしたが、肝要の大塩父子の行衛が知れぬため、詮議の網は 蜘蛛の巣の如く張られた。平八郎父子は良左衛門自殺の後一旦大 和路に入り、手当の厳重なるを見受け、道を替へて河州路に立戻 り、廿四日夜漸く大阪油掛町の五郎兵衛方へ着いた。五郎兵衛は 手拭地の仕入職で、居宅は今の靭下通二丁目紀伊国橋を東へ入つ た所の南側で、東から二軒目に当る。女房つね・娘かつ・孫かく・ 下男五人・下女一人都合十人暮で、多年大塩邸へ出入し、勝手向 の世話をしてゐた男故、町奉行所では早速五郎兵衛を呼出し取調 べて見たが、別段之といふことも無いので町預にした。同夜五郎 兵衛方では平日の如く主人は勝手の方、家内の者は台所又は二階 に打臥してゐると、五ッ時過になつて表の戸を叩く者がある、誰 かと問へば備前島町河内屋八五郎方の使だといふ。八五郎は予て 知合枚、五郎兵衛は何用かと起上つて雨戸を明けると、鼠色の木 綿合羽に脇差を指した僧体の者両人、挨拶もなく足早に奥間に通 つたので、不審に思ひ、跡を追つて両人に面会すると、豈に計ら んや平八郎父子であつた。平八郎は挙兵の埋由一掌離散の顛末を 手短に話し、当分匿ひくれよ。不承知とあらば居宅へ火を放ち、 家内残らず焼殺すべしと、既に脇差の柄へ手を掛けるので、五郎 兵衛は是非なく承知し、奥ノ間裏手納戸の小間へ両人を隠し、仕 切の襖を堅く締切り、女房つねにのみ委細を打明け、他の家族雇 人等には一切覚られざるやう心掛け、三度の食事も夫婦の分を除 け置き、五郎兵衛自ら密に持参する位であつた。さて一両日立つ ても平八郎父子に出立の気色が無い。日数重なつては露顕の基と、 五郎兵衛は頻りに立退を催促するが、時節到来致さざるにつき今 暫く忍ばせよ、左なくば一同焼殺すべしと再三威され、一旦匿つ た上は罪科遁れ難く、さりとて永く同居せば自然家内の者の目に 触れることもあらう。居宅奥座敷西手裏続きの離座敷は、表裏の 戸締堅固にて、居宅とは庭を隔て、境は手厚の板塀にて仕切り、 通口には小さな切戸あり、座敷西手の入口も同様にて、平日は家 内の者も入らず、明家同然故、之へ匿い置かば容易に見付かるま いと、夫婦相談の上、父子を離座敷に移し、食事は日々五郎兵衛 が家内の飯米を計渡す伝手に手元の紙袋へ詰め、塩香物を添へて 持参致すにつき、炭火にて炊かれたし。若し右の品々尽きなば切 戸を叩かるべく、それを合図として又々差し入るべしと約束し、 約束通りにして居つた。その後五郎兵衛は折を見て平八郎の底意 を尋ねたが、深き存寄りあつてのことなりという計で、一向打ち 明けないのみか、座敷廻りの戸障子を外し、沢山の穴を明け、蒲 団の綿を取出して詰込み、焼草にするのだといつて、平八郎着座 の傍へ積重ねて居る。強いて立退けといへば必ず之に火を掛ける に違ひないと、五郎兵衛夫婦は心配ながら日を過した。以上は五 郎兵衛及びつねの申口によつたので、勿論片口であるから、多少 自分に都合のよいやう述べたのであらうが、先づ大体において相 違のないものと思はれる。


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