Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.1.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎の変」その4

竹越与三郎(1865-1950)

『日本経済史 第6巻』 日本経済史編纂会 1920 所収

◇禁転載◇

第十一章 家斉時代

  大塩平八郎の変(4)

管理人註
  

然れども其党与平山助次郎なるもの、中道志を変じて幕吏に密告し、幕府、 予じめ防禦を施したるを以て、平八郎の為す所、凡て企図と相反し、大阪城 に向ふ上、逆撃に逢ひ、大阪城番の諸藩、また各々兵を出して、所々の乱民 を掃蕩したるがため、民変は甚だ大ならずして終りたりき。斯くて平八郎父 子は敗北して、油掛町の五郎兵衛の家に潜匿せしが、捕吏の来るや、火を放 つて自殺す。此民変によりて、焼失したる家屋一万八千二百五十余にして、 大阪ありて以来の変災なりき。

  

  乱後に起りし大塩の党

管理人註
 

秋田の人、生田道満は平田篤胤の門弟にして、越後の柏崎にありしが、大塩 の事を聞きて手を打つて快と称し、八年六月、神道の門人を集めて、『奉 天命国賊』の旗を掲げて、富豪を襲撃し、米穀を奪うて之を貧民に分 与し、遂に党与と貧民と三千余人を率ゐて、柏崎の陣屋を襲ふに至りしも、 また空しく闘死したりき。此の如く民変は、一も成功せず、其発起者の死は 犬死の如くなりき。然れども是れ天下幕政に飽きて、人心を思ふの兆にして、 貨幣の劣悪より来る物価の騰貴、凶作より来る米価の騰貴窮民の飢餓等の原 因より民乱を生じたる一事は、幕府が経済上に於て後来、倒れざるべからざ る運命を含みたるを予告したる、陳勝呉広にも比すべきものなりき。

陳勝呉広の乱
秦末の農民、陳勝
と呉広の起した反
乱、
陳勝呉広は
秦に対する反乱の
兵を最初に起こし
た人であるところ
から、物事のさき
がけをすること
 


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